第五十八話 世間は喜んでくれますか

 雪が吹き荒れる音と、ただ温度を上げるためだけに稼働している暖房の音だけが僕の耳に届く。危機感と、安堵感と、怒りからくる震えが、全身を包む。僕はしっかりと、夜野先生の目を見る。この世に、問いかけるために。

「夜野先生、僕が死ねば、世間は喜んでくれますか」

 喉が痛くなるほど、大きく息を吸い、吐く。胸が膨らんで、しぼむ。喉仏が前に出て、冷たい感触が横になって走る。

「光基さん、やめてください」

 夜野先生は慌てて立ち上がる。椅子ががらんと音を立てて後ろに下がる。

「もういい。もういいですよ」

 手が、震える。

 夜野先生は、どうにもできないという風に、開いた口を手で押さえ、青ざめた表情を浮かべる。

 僕に深く刻まれた言葉が、頭を過る。

 ――自分は常識人です、みたいな顔しやがって!

「別にきちんとした人間ですよって見せびらかしてるわけじゃないですよ。自分でも自分が異常な人間だってことくらい分かってるんですよ。でもそのことを、自分がうまく生きていけない理由にしたくなかったんです。自分の属性を簡単に引っ張り出して、頑張れない自分に甘えたくなかったんですよ。たったそれだけ。それだけの事なんですよ。そうしていた自分の何が悪いっていうんですか……」

 声が、震える。

 言葉が、まとまらずに、そのまま空気へと吐き出される。

 ――――いやもう、気持ち悪くて仕方がないですね。本当に血に興奮するなんて人考えられないし、モラルに欠けてて気持ち悪いっていうか……。そういう人がいるって考えるだけでゾクってします……。

「僕にだって不満は数えられないほどありますよ。普通に死にたくなる日なんて、沢山ありましたよ。でもずっと我慢してきました。好きに不満を吐いていいんだったら、今までいくらでもしてきましたよ。もう、うんざりですよ。僕は誰かに迷惑をかける存在なんですか。僕みたいな生き方してる人って、そんなに邪魔なんですか。ここは僕みたいなやつがいちゃいけない世界なんですか」

 ――異性愛者以外の気持ちが分からん。

 ――LGBTQの人達に配慮しろ。

 ――みんな性的マイノリティに対して好き勝手言ってるけどさ、本人目の前にしてそんなこと言えんの?

 ――結局さ、性的マイノリティって普通に犯罪者予備軍なんだよね。

 ――自分のそういった性格のせいで周りに馴染めないくせに、「私たちが生きづらいのは社会が悪い!」って癇癪起こすんだよね。そういうところほんと嫌い。

 朝に見た、何気ない言葉。僕の胸に、強引に、深く刻まれた言葉。

「僕はただ、人間として生きていたいだけなんです。悲劇の主人公みたいな顔して生きていたくなんてないんです。どうしてみんな、ほっといてくれないんですか。議論しないと気が済まないんですか。相手のこと知ろうとせずに、勝手に自分の価値観押し付けてきて。まるでそれが世界の定義だって感じで偉そうに相手のこと理解できた気になって。ほんとうに気持ち悪いんですよ。平等を大切にとか、そんなの要りませんよ。LGBTQとか性的マイノリティとかそれっぽい言葉使って、結局その人たちは何をしてきたんですか。同情の目なんか要らないんですよ。僕に、僕の人生を歩ませてくださいよ」

 ――光基。俺は謝罪とか、そういうのは求めてない! 今まで通り、友達でいたいだけなんだよ!

 僕とありふれた友達のままでいたいと願った、特別な人はもう、いない。

「もう、僕がどれだけ叫んでも、優は帰ってこないんですよ。僕が異常な奴だったから、優は殺されたんですよ。これが現実だ受け止めろって言われても納得できないですよ。そんな現実、僕にとってはただの劇薬なんです」

 冷たい刃が、肌に密着する。

「もう、何が正しかったんですか……」

 呆れた笑いが、僕の口を吊り上げる。

 涙が、流血みたいに頬を伝う。

「もういいです。疲れました。考えるのも嫌になりました。もう、何もしたくありません。世間は好きにやっててください。好きに盛り上がっててください。優が居ないんです。もういい、もういいんです……」

 夜野先生は、ゆっくりと、手を降ろす。

 僕は、夜野先生の表情を、見ていなかった。

 僕の叫びたいことばっかりで、何も、見えていなかった。

「光基さん。包丁を降ろしてください」

 聞いたことのないくらいの低い声が、夜野先生の口から吐き出される。

「嫌です」

「降ろしてください!」

 夜野先生の声が、耳をつんざく。

 夜野先生は机の上に置いた革製の手提げバッグを持ち、足音を響かせて、シンクの後ろに立った。

 シンクを隔てて、僕と夜野先生は向かい合った。

 夜野先生は、真剣な目をしていた。

「私は、これを届けに来たんです」

 夜野先生は、ホッチキスで止められた、何枚も重なった白い紙をバッグから取り出し、シンクの隣の台に置いた。

 それが目に入ると、僕はゆっくりと包丁を持つ手を下げていた。

「これって……」

「はい。優さんの、原稿です」

 優が死ぬ前日に、優が新刊の話をしていたことが、ふと頭を過る。

「優さんの死によって、世間に衝撃が広まって間もない頃です。優さんの小説に関して、今まで進行していたことは、全て保留になりました。でも必ず、この作品は世に出すべきだと、出版社で声が上がったんです。でも私はまず、光基さんにこの作品を渡したいと意見しました。光基さんに、初めに渡すべき作品だと思ったんです」

 タイトルだけが書かれた紙の裏に、二枚目の、上下二段の文字列が透けて見える。

「そして、これの最後には、優さんの遺書もあります」

「遺書?」

 僕は、顔を上げる。

 優は、遺書を書いていたのか? 

 僕が、優の病気を治すと約束したのに……。

「私は、以前から優さんに、遺書を託されていたんです。もし俺の身に何か起こって、死んでしまったら、それを光基に渡してくれ、と。ずっと、優さんは自分の病気が怖かったんです。無痛無汗症で長生きした人は、ほとんどいないんですよね? 優さんは、誰にも想像できないくらいに、怖かったんだと思います。『不安の発散みたいなものだ』と、優さんは言っていました。でも、『光基は、絶対に一人になっちゃいけないから』と言ってもいました」

 僕は、自分が、情けなくなる。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、自分が嫌になる。

 僕は膝から崩れ落ちて、キッチンマットに涙の痕を作りながら、嗚咽を漏らしていた。

「光基さん。私は、光基さんのために、ここまで来たんです。光基さんのことを想ってくれている人は、沢山いるんです。光基さんは、沢山の人達に、大事にされてきた人なんだと、私は思います。光基さんが、自分で勝手にしていい命じゃないんです。世間がどうとかじゃありません。どうか、まずは、優さんの声を、聴いてあげてください」

 僕を信頼しているような、しっかりした夜野先生の声が、聞こえる。

 僕は、本当に馬鹿だ。

 僕は、いつまで経っても、何の変化もしない、馬鹿だ。

 最初から、言えばよかったじゃないか。

「苦しい」って。

「助けて」って。

 そう言えば、よかったのに。

 本当は、死ぬのが嫌だったくせに。

 優くん、ほんとに、ごめん。

「夜野先生、取り乱して、すみませんでした」

 僕は、俯きながら言う。

「いいんです。光基さんが、辛くないはずがありません」

 透き通った、澄んだ声が聞こえる。

「光基さん。最後に、私の、思っていることを言わせてください。世間とか、社会とか、そういうものは、関係ありません」

 少しの沈黙が流れた後に、夜野先生は言った。


「光基さんの真っ直ぐな生き方は、素晴らしいものだと、褒められるべきものだと、私は思います」

 

 

 

 



 

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