第五十七話 記憶
「お母さん、仕事中ごめんね」
『別にいいわよ、休憩中だし。なに?』
「冷蔵庫の食材、使っていい?」
『いいけど、夜ご飯作ってくれるの?』
「うん、流石に何もしないのは、嫌になったから」
『そうね。じゃあ、楽しみにしてるわ』
僕はラインの通話を切って、少し埃の被った勉強机に置く。
実家での静養が始まって、何か月もたった。暑い季節も終わり、長い時が過ぎ、寒い季節へと移っていく。
始めは、家事はお母さんがやってくれていた。僕はずっと部屋に引きこもって、寝ているか、動画を開いて音楽を聴いているかしていた。自分の部屋には、以前よりも本が増えていた。取り込んできた知識量はこんなにあるのに、今の状況が、家にずっとこもっていた中学生の頃とまったく変わらないことを思うと、悔しくなる体力すらない僕は、ベッドの枕に顔をうずめるしかなかった。
何もしない日が続くと同時に、自分を情けなく思う気持ちが強くなった。
僕は白い壁に掛けられたカレンダーを見上げる。もう、十二月になっていた。お母さんは仕事で家には僕しかいなかった。夕飯くらいは作らないといけないと、僕はそう思った。
夕方。シンクの前に立つと、オレンジ色のフィルターを通したようなテラスを眺めながら、大学生活の日々を思い出した。冷蔵庫を開けるときや、包丁を握るとき、炊飯器のボタンを押すとき、何とか急ぎながらご飯を作っていたことを思い出す。何もかもが満たされていたあの日のことを、思い出してしまう。学食は美味しかったなとか、和也はちゃんと単位が取れてるかなとか、そんなことを思ってしまう。でも、大学を辞めた僕にとっては、もう関係のない話だ。
二人で暮らしているせいで余ってしまった袋入りのたらこパスタソースをマッシュポテトに混ぜていると、お母さんは仕事から帰ってきた。日も落ちて、外は暗くなっていた。
夕食ができると、カーテンを閉めて、テレビはつけないで二人でご飯を食べた。豆腐ハンバーグに、たらこパスタソースを混ぜたマッシュポテト、そしてインスタントのわかめスープ。僕のお気に入りの料理だった。
「いい匂いね。帰ってきて息子がご飯作ってくれるなんて、なんか感動しちゃった。こんなことなかったもんね。とてもおいしそう」
自室で着替えたお母さんは、僕の料理に感動しながら椅子に座る。お母さんの所作から、なんとなく疲労が見え隠れしていた。
僕達は静かに晩御飯を食べた。
お母さんは、その中で、豆腐ハンバーグを愛おしそうに見下ろし、こんなことを言ったのだ。
「とても温かくて、やわらかくて、優しい味ね」
***
SNSでは、「小児性愛者は全員気持ち悪い。社会から淘汰されるべき」といった趣旨の有名人の投稿について、意見が錯綜していた。朝に目が覚め、ベッドの中で僕はずっとスマホの画面をスワイプしていた。
有名人の意見が真っ当だという投稿や、思想だけなら自由だという投稿、その投稿に対して「お前は小児性愛者である自分を正当化させたいだけだろ」と言う投稿、自分は性的マイノリティであることを前提に正直な意見を言う投稿、その投稿をお気持ち表明だと茶化す投稿、文面の正しさに関係なくSNSでは過激な発言をするべきではないという投稿。
どうしてみんな、よく知りもしない人のことについて、こんなに語れるんだろう。
僕はただ、無気力になって画面を見続けていた。
すると、一つの投稿が目に入ってきた。
ネタのつもりなのか「風化させない」とハッシュタグをつけ、見出しに「小説家が殺害される。犯人には異常な性的欲求があったか」と書かれたネットの記事のURLを貼った投稿を見つけた。
冗談じゃない。と思って、冷や汗をかきながら僕は素早く画面をスワイプさせる。
――異性愛者以外の気持ちが分からん。
スワイプする。
――LGBTQの人達に配慮しろ。
スワイプする。
――みんな性的マイノリティに対して好き勝手言ってるけどさ、本人目の前にしてそんなこと言えんの?
スワイプする。
――結局さ、性的マイノリティって普通に犯罪者予備軍なんだよね。あいつらってすぐに自分に共感してくれる奴なんていないんだ、って感じで卑屈になるじゃん? お前の性癖とか知らないしって思うんだよ。自分は特別なんだって思って、何してもいいんだっていう勘違い起こして、自分のそういった性格のせいで周りに馴染めないくせに、「私たちが生きづらいのは社会が悪い!」って癇癪起こすんだよね。そういうところほんと嫌い。
電源を、切った。
非難をするな。擁護をするな。勝手に定義づけて何もかも理解したような口ぶりをするな。炎上したトピックに喰らいつこうとするな。僕はただ、普通に生きたいだけなんだ。みんなと同じ、人間なんだよ。
そう思っても、僕の思っていることに対して野次を飛ばす不特定多数の人達の声を想像してしまい、僕はもう一度眠りに落ちた。
***
……ごめん、また切れちゃった。
かすんだ声が、聞こえる。ぼやけたベージュ色と赤色が、僕の視界を埋める。
……えーまた? しょうがないなあ。
僕は笑って、棚から箱を取り出す。
僕は目の前の赤く切れた右脚に、絆創膏を貼ってやる。
僕はその脚を、そっと指先で触れる。がっしりしていて、それでもすらっとしていて、とても脆いものに思えて、僕の胸がぎゅっと締まる。泣きそうになる。
……どうしたの?
ぶっきらぼうな、安心する声がする。
……ううん。なんでもない。
僕は少し湧き出た涙を拭って、見上げる。
声の主は、僕を見下ろしながら、笑って言った。
……ありがとな、光基。
声が一層、鮮明になった。僕の耳にささやかれたような気がして、目を覚ました。
雪がテラスに降り積もるのを、リビングから見ていた。肌寒くて、僕は暖房をつける。朝食のお皿にはラップがされていて、「残しておきます。起きたら食べてください」とお母さんの置手紙が残っていた。
冷えた目玉焼きとレタスのサラダを食べ終え、自分で沸かしたお湯を啜っていると、チャイムのなる音がした。気怠くなりながら、僕は玄関のカメラを覗いた。僕の見知った人だった。可愛げな茶色の厚着をし、綺麗な手で革製のバッグを下げていた。マイクをオンにし、僕は言った。
「夜野先生、ですか」
僕は淡々と言った。
「はい。光基さんが、ここで静養されていると聞いて」
夜野先生も、淡白な声で返した。
「どうぞ」
僕は肌寒い玄関に行き、ドアの鍵を開けた。
夜野先生がドアを開けると同時に、更に冷気が玄関の中に入り込んだ。外で大きな音をして空気が吹雪いて、白い粒が家の薄暗い屋根付きのアプローチに侵入した。同時に、雪のかかった夜野先生の上着やマフラーが揺れた。
「お久しぶりです。光基さん」
覚悟を決めたような、真剣な目つきと声で、夜野先生はあいさつした。
僕はリビングに夜野先生を通し、僕がいつも座っている席に座らせた。
僕はおもてなしをする風を装い、キッチンへと立った。
「光基さん、私、とある用事というか、義務を果たすために来たんです」
「なんですか、義務って」
少し苛々として、僕は夜野先生に背を向けて言う。お母さん以外の人と話すのは、久しぶりだった。
「あの、それは、優さんの……」
話しづらそうな夜野先生をよそに、僕はがしゃんと音を立てながら、キッチンの引き出しを開けた。僕はそこから包丁を取り出し、刃を自分の喉仏に向け、即座に夜野先生の方に振り向いた。
吹雪の前で、目を見開いた夜野先生の表情が、そこにはあった。
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