終章 光源
第五十六話 私なら
「お母さん、ごめんなさい。また、お世話になります……」
自分自身に対する悔しさが、一気に僕の体に圧し掛かる。綺麗な玄関の土間の一段上には、胸が苦しくなるほどの優しい目をしたお母さんがいる。
結局また、ここに戻ってきてしまうのかと、学校に行けなかった中学生の頃のことを思い出してしまう。
「いいのよ。光基」
ゆっくりと僕の方に近づいて、お母さんは両腕を広げる。
澄んだ空気の玄関の中、お母さんの甘い香りが僕を包み込む。僕を一段上から抱きしめるお母さんの体から、僕は日々の忙しさとか、寂しさとかを感じ取った。母にしかない人生が、そこに刻まれている気がした。
「謝らなければならないのは、私の方よ……」
お母さんは、ぎゅっと僕に力を込める。
「私なら、もっと守ってあげられた……」
***
裁判の結果は、言うまでもない。
不知火築は、あの冬休みが終わってから、まったく学校に姿を現すことがなかった。それからずっと不知火築の席は空白となり、担任の先生から、不知火築が退学することを伝えられた。
きっと、不知火築はずっと僕のことを恨んでいたのだろう。それも、相当な悪意を込めた恨みだ。不知火築は僕に復讐する手段として、直接的な痛みじゃなくて、精神的な痛みを僕に与えることを選んだ。だから、優は殺された。
殺人で、更に、そのターゲットが小説家となれば、話題性は充分すぎるほどにある。少しだけでも、「人が傷つくところに性的興奮を抱く」なんてニュアンスを含ませて、僕に濡れ衣を着せておけば、どこかのメディアがそれを報道する。僕はその流れに抗うほどの体力を持ち合わせていなかった。だから、僕は警察に自分のことを包み隠さず話した。最初から、不知火築は裁判の結果なんて、どうでもよかったのだ。自分の復讐に一生を捧げてでも、優を殺したかったのだ。僕を貶めることが出来さえすれば、それで満足だったのだ。誰かに後ろ指を一生向けられるような孤独な人生に、僕を引きずり込んでやれば、それで満足だったのだ。自分の性的嗜好を他人に打ち明けても、僕の感じる痛みはもう変わらないと思った。
不知火築は優を殺すために、この二年間を使って綿密な計画を立てていた。不知火築は優の生活パターンや、個人情報を人に依頼してまで入手し、殺害方法やその場所を考えていた。僕は不知火築に、優が小説家であることを話してしまっていた。きっと不知火築は、その情報から優の殺害計画を立てたのだろう。計画性と、明確な殺意のある犯罪だったとして、不知火築は無期懲役を言い渡された。
裁判所から出たとき、僕は青い空を見上げながら、この社会を歩んでいくほどの体力が少しも残っていないことを自覚した。自分を強固に構成している要素が、どこかに零れ落ちてしまったように思えた。圧倒的な虚脱感が、僕にべたりと張り付いていた。
大学とか、バイトとか、スマホや車に関する契約とか、家賃とか、光熱費とか水道代とか、僕を社会の一員たらしめている事実的な何かに縛られる余裕のようなものが、一気になくなってしまった。もう僕は、社会の中で、自分という形を保てないのだと分かった瞬間、僕は世間から離れたくなった。そんなとき、お母さんは「私の所で静養しよう?」と提案してくれたのだ。様々なノイズが走る状況の中で、僕の歩める道はそれしかないと思ったのだ。
この世界に、優がいなくなった。その事実だけが、確固たるものとして僕の頭に残っていた。
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