第五十五話 僕達には
優の薄暗い部屋で、長い間優の傷の手当てをした。止血して、消毒して、ガーゼを貼って。救急箱からする匂いと、優の匂いが混ざって、僕はずっと昔に失った感覚を、取り戻している気分だった。
僕は手当てをしながら、優に不知火築のことを話した。僕と不知火築には、同じ部分があったこと。僕達とは、生まれてくる環境が大きく違ったこと。不知火築に気に入られたこと、そして、拒絶されたこと。不知火築に気に入られるために、僕が自分を取り繕っていたこと。話せば話すほど、不知火築との記憶が、支離滅裂な文脈のまるで分らない夢のようなものに思えて、僕はどうしようもない気持ち悪さに襲われた。
話が進むごとに、ぼろぼろになった優の表情は、次第に暗くなっていった。不知火築への恨みや、自分自身への悔しさが、現れているように見えた。
優の手当てが終わると、力が抜けたような笑みで、優は言った。
「ごめん、光基。びっくりしたよな、あんなことしてしまって」
僕は、黙って優の言葉を聞いた。不知火築が悪いのか、優が悪いのか、僕が悪いのか、僕にはまるで分からなかったからだ。
「でも、これだけは言わせてくれ。もう二度と、あんなやつとはかかわるんじゃねえぞ……」
優の横顔が、息を詰まらせるように静かに泣いていた。
僕は、黙って頷いた。
「多分、俺達はきっと、今まで運が良かったんだよ。恵まれた環境にいたんだ。優しい親がいて、こんな俺を支えてくれる人がいてさ」
運が良い。身も蓋もない言葉だと思ったけれど、僕は何も言い返せなかった。僕と不知火築とは、あまりにも生きてきた環境が違うのだと、分かっていたからだ。
「でもさ、いつか俺達は社会を生きることになるんだ。俺達が想像もできない世界に放り込まれるんだ。出版社には優しい人も、何言ってるんだこいつって思う人もいる。俺は多分、そういうので頭がいっぱいだったんだろうな。必死に大人にならなきゃとか思って、そうしたら全部空回りして、結局光基とは話せなかった。なあ、あの後、強がって自分で手当てしようとして、更に指切って、親に助けてもらってたんだ。ほんとに俺って、馬鹿だよな」
変わってしまっていたのは、優ではなかった。きっと、必死にあやふやな何者かになろうとする僕の方が、ずっと変わってしまっていたのだろう。
「なあ、光基、俺達には多分、これから本音を言えないようなことが沢山降りかかってくるんだ。体裁を整えて、その場を成り立たせる術を、沢山身に着けていくことになると思うんだ。光基だけなんだよ、こうやって話せる人って」
僕は膝に当てる手を、ぎゅっと握りしめる。
寂しそうな優の表情に、反射的に喉が動き出す。
これを言えるのは、きっと今だけだ。
「ねえ、優くん」
僕はたとえどれだけ不自然でもいいから、明るい表情を見せながら言った。
優は、目を丸くして僕を見る。
「僕、ずっと勉強してるんだ。優くんのために」
優は、口を開く。優の目に、光が灯る。
「きっと、僕達、助け合えると思うんだ。どれだけ社会が冷たくても、僕達なら助け合って生きていけると思うんだ」
僕は、ずっとこれを言いたかった。僕は、優のために、ここまで生きてきた。愚かでも、未熟な考えだとしても、そんなのどうでもいい。
「もし僕が医学部に入れたらさ、一緒に暮らそうよ」
僕は、自然に口の端を上げる。
優は、花弁に垂れる朝露みたいな目で、口をきつく結んで、必死に泣くのをこらえる子供みたいな表情をしていた。
気づけば、僕の胸の前には優の頭があった。優のぶっきらぼうな温もりがあった。優の体温があった。僕の体を抱きしめる優の腕があった。優の、大切な体があった。
「ずっと、怖かった……。光基と、どう話せばいいのか、分からなかった……」
優は、僕の胸で泣いた。ずっと前に会ったときと同じ人だとは思えないほどに、そこには優の本心があった。
僕も、優の体を抱き返す。
「光基が、どっかに行くんじゃないかって。でも、言えなかった。ずっと寂しかった……」
ああ、この感情を、僕はどうやって表したらいいのだろう。今の僕達を、ぴったりと型にあてはめるような言葉を、どうやったら見つけられるだろう。
「光基、約束だぞ……」
優の言葉には、明るい力がこもっていた。
「うん……!」
こうやって笑ったのは、とても久しぶりのことだった。
***
僕と優の選択が、正しかったのかどうかなんて、分からない。
そんなのどうでもいい。
もしそれを、依存だとか、甘えだとか、子供だとか、そういう言葉で表現する人がいるのなら、僕は絶対にそんな人には目を合わせない。
僕は、不確定な世界の中で、確かなものを約束したのだ。
今まで見てきた過去を、信じることにしたのだ。
朝に起きて、朝ごはんと、優の昼食を作って、優の執筆の話を聞きながら朝ご飯を食べて、大学に行って、気の合う友達と日々を過ごして、笑い合って、勉強して、疲れて、優のもとへ帰って、慌てながら晩ごはんを作って、読書なんかしたりして、くだらない会話をしながら眠りに落ちて。
僕はそんな日々を望んだのだ。
僕はそんな日々を手に入れたのだ。
僕はそんな日々を過ごしたのだ。
僕はそんな日々を、失ったのだ。
僕達には、とってつけたような希望なんていらない。そこにあるのは、僕が選り好んで定住することのできた居場所だけ――。 ただ、それだけだった。
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