第五十四話 親友みたいなもの(暴力描写あり)

「おい、開けろよ光基っ! もう俺を一人にさせないで! 酷いよ! なんでいつも俺ばっかり惨めになるんだよ! なんで俺ばっかり寂しい思いしなきゃならないんだよ! もう嫌なんだよ、こんなの……! 異常者ならもっと異常者らしくしてろよっ! 同類なんだろ⁉ 俺と同じなんだろ⁉ なんでわからねんだよ‼」

 耳を押さえる手が、震える。不知火築がドアを叩く音が、薄暗い玄関の空気を暴力的に揺らす。巨人か何かが足踏みをしているみたいな錯覚に襲われて、一歩でも間違えたら殺されてしまうのではないかと思って、身体の震えが止まらない。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 土間の真ん中でしゃがみこんで、耳を押さえながら、ひたすらに「ごめんなさい」と口に出してしまう。誰が、何が悪いのか、自分の何が悪かったのか分からないくせに、そう言わないと頭が張り裂けてしまいそうだった。

 どこからともなく湧き出る正体不明の責任感と罪悪感が、不知火築の悲鳴と一緒になって僕の体を押しつぶす。

 玄関の奥から、無機質な足音が近づいてくる。

 顔を上げると、気怠そうなパーカーを着た優が、一段上から僕を見下ろしていた。優は、驚いた顔も、悲しそうな顔もしていなかった。ただただ僕を責め立てているような無表情な顔で、僕に訊いてきた。

「裏庭のドアの鍵も、窓の鍵も、全部閉めてきた。光基、なんなんだ。あいつ」

 僕は自分でも大袈裟だと思うくらいに震えながら答える。

「と、友達……。僕と一緒、だった、のに……」

 何とか声に出して、そして状況を説明しようとした。でも、声帯が出すのはっきりと聞き取れないような音ばかりで、優に何も伝わらなかった。

 土間の床のごつごつとした感触が、じんわりと、痛いほどに冷え切った足の裏の触覚を麻痺させる。

「人が傷ついたら自分の心も痛くなるとか、そんな綺麗事ばっか吐いてんじゃねえよ!」

「ごめんなさ……。ごめ、ごめんなさい……」 

「お前が異常者として生まれてきた時点で、はもう綺麗事なんて通じねえ世界になってんだよ!」

「ごめんなさい!」

「なんでお前だけ抜け駆けしようとするみたいにいっちょ前に幸せそうな顔してんだよ!」

「ごめんなさい!」

「自分は普通の人だって顔して、他人に上っ面だけの笑顔ふりまいて、それで社会でうまくやってこうとか甘いこと考えて要領よくやろうとしてるみたいなやつが一番気にくわねぇんだよ‼」

 不知火築は両手でドアを叩いたのか、今までで一番大きな音が僕の背中を叩いた。

「ごめんなさいっ‼」

「謝罪とか求めてねえよ! おこがましいんだよいつもいつも! そうやって素直に生きてればうまくいくとか思ってんだろ!」

 ミシンの針の速度を限界まで上げたときみたいに、ドアを叩く音が何発も絶え間なく鳴り響く。人のものとは思えない、不知火築の狂気とも呼べる叫びが、僕の耳をつんざく。この家が何かのバランスを保てなくなって崩壊してしまうんじゃないかというほどに、音は長く続いた。

 恐怖心以外のものが、僕の中で死んでいく。

「酷いよ、光基……」

 不知火築の掠れた高い声が、背後でよろよろと吐き出される。

 静寂が、訪れる。

 僕は少しだけ顔を上げ、涙で歪んだ視界の中、優の握りしめた拳を認識する。

「あんなの、友達って呼んでいいわけないだろ……」

 覚悟を決めたような、震えた声が、僕の耳にするりと届く。僕の持つ、落ち着く優の声のイメージよりもずっと、怒りや、恐怖や、震えが混じっていた。こんな優の声は、聞いたことがなかった。

「優、くん……」

 優の拳が、震えていた。

「光基。ちょっと待ってろ」

「優くん、なにを……」

 優は自分の靴を履いて、大人しくなったドアのノブを掴む。僕はそんな優を、目線で追う。

「大丈夫。久々にブチギレてるだけ」

 僕に背中を向けた優は、どんな表情をしているのか、分からない。

 優は、玄関のドアのカギを開けた。

「優くん⁉」

 優は玄関のドアを開ける。

 外の冷気が一瞬で玄関に入り込む。

 不知火築は、ツタの絡まった小さなガーデンアーチの前でへたり込んでいる。目は光を失い、そこには恨みの感情しか籠っていないことが、雪の中でも容易に分かった。

 優は、前を向きながら玄関のドアを閉めた。

 小さな雪の粒が一つ、土間に入り込んで、溶けていく。

「優くんっ‼」

 僕は叫ぶ。

 足音と共に、ガラスに投影された優の背中が、少しだけ小さくなる。

「誰だよ、お前」

 ドア越しに、くぐもった不知火築の声が聞こえる。

「光基の親友みたいなもの」

 優は、はっきりとそう言った。

 僕の心臓が、静かに脈打つ。

「なんだよ、それ……」

 不知火築は呆れたような声を出す。

「ねえ、光基に何をしたの」

「うるさい……」

「さっきのあれは、本気で言ってるの」

「てめえには関係ねえだろ」

 すると、がさり、と布と雪とが擦れあう音がした。外で二人がどうなっているのか、僕には分からない。ただ、声だけが確かな情報として伝わる。霞んだ白色と、二人の影を、すりガラスはただ映し出す。優は、多分、不知火築の胸倉を掴んでいる。

「光基がどんな気持ちで生きてきたのか知らないくせに、よくあんなことが言えたな……」

 腹の底から、マグマみたいにふつふつと湧き上がるような優の声。

「光基はっ! 光基はいつも、本当の自分で生きてんだよ! 真面目で、素直で、自分に嘘つかないし、人を傷つけるようなことなんて絶対にしようとしない。俺が怪我したら心から心配してくれて、手当までしてくれて、いつも俺がどれだけ痛みが分からなくても、光基は俺が怪我する度に毎回毎回心痛めて……」

「は、はあ?」

 声だけが、聞こえる。

「光基は、自分が異常だって分かってても、それを言い訳になんてしない、お前の思っているより何倍も真っ直ぐな奴なんだよ! 綺麗事なんかあいつにとってはどうでもいいんだ。光基はお前みたいに、綺麗事を蔑んだ目で見て嘲笑うようなやつより遥かに凄い奴なんだよ!」

「優、くん……」

 僕は、目を見開く。口が、震える。

 そうだ。

 思い出した。

 僕と、優の関係は、そういうものだった。

「てめえみたいな一人が寂しいとか抜かして人を傷つけるようなやつとはちげえんだよ!」

「ふっざけんな!」

 ガラスに映る影から、不知火築が対抗したのが、分かる。ガラスに、小さな赤色が映り、不知火築がカッターナイフを使ったのだと分かる。優が、それでも胸倉を掴んでいるのが分かる。不知火築がカッターナイフを振り回すのが分かる。優が、構わず不知火築を床に押し倒して、一発、頬を勢いよく殴っているのが分かる。不知火築が、優の頬を切りつけたのが分かる。

 優が、もう一発不知火築を殴ったのが分かる。

 肉や布や地面や金属が、ぐちゃぐちゃに混ざり合ったような、気味の悪い音が、ずっと続くのが分かる。

 不知火築の勢いが、収まるのが分かる。 

「もう二度と、光基とかかわるな……。分かったらさっさと帰れ……」

 息を切らした優の声が、聞こえた。


「優、くん……」

 優の姿に、僕は更に涙を溢れさせて、情けない声で泣いた。罪悪感と安堵感が僕の体を覆って、僕の胸をぎゅっと掴んだ。額を床に擦り付けながら、子供みたいな声を出して、肺に繋がる器官がぜえぜえと音を立てていた。

「光基。もう、あいつは帰った」

 そう言いながら、優は玄関のドアを閉め、鍵を掛ける。

 僕は、優を見上げる。

 優の顔には切り傷が何か所もあり、優は頭から赤のインクをかけられたと言われても信じてしまうほどに、出血していた。

 だけど、優は優しい顔をして、僕に絶対的な信頼を置いているみたいな、しっかりとした瞳で、こう言った。


「手当てしてくれ。光基」



 


 

 

 

 

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