第五十三話 助けて(性描写、暴力描写、残酷描写あり)

「やめ、やめ……」

 声が出ない。とにかく抗わないといけないと思って、何とか体を捩らせる。

 でも、不知火築は僕の両腕を押さえて離さない。

 顔を横に向けると、僕の右腕を押さえている不知火築の左手にはカッターナイフが握られているのが分かる。

「いやだ、しらぬいくん……」

 何とか声を出す。

 涙が溢れて、視界がおかしくなる。

 でも、不知火築はにやりと口角を上げる。

「いいねえ。その表情」

「え……?」

 頭が真っ白になる。

「俺さ、ゲイの後輩の性欲処理、やってたんだよ。セフレってやつ? 前に光基に言った友達。後輩なのに友達って言うのはそういうことだよ。後輩を気持ちよくさせる度にさ、思うんだよ。こいつ、傷つけてやりたいってね。こいつが痛がって、いやだいやだとか言って泣いたりしたら、俺、もっと興奮できるのになーってさ」

 不知火築が、何を言っているのか、分からない。

「なに、いって……」

 不知火築は束縛する力を強める。

「でもさ、同意がないわけだし。前に俺の性癖を後輩に明かしたら喧嘩になったし。もう、あの作者の描くショタリョナも見れないわけだし。じゃあさ、いっそ俺達で傷つけあってさ、一緒に気持ちよくなろうよ……」

 不知火築は、笑っている。

 でも、泣いている。

「俺が光基を傷つけて、俺が気持ちよくなって、その後に光基が俺を傷つけるんだ。光基って、結構成長途中のショタみたいな顔してるし。同類だと分かったときにさ、いつかこんなことしてみたいって思ったんだよね……」

 不知火築の涙が、僕の頬を伝う。

「もう、俺達が気持ちよくなる術はこれしかないんだ。俺もお前も気持ちよくなれてウィンウィンだろ? なあ、俺を認めてよ……」

 だめだ。話がもう、通じない。

 中学生の頃、自分の腕を切って、その腕に興奮して快楽を得ようとしたあの日を、僕は思い出す。赤と白の液体で汚れた床、罪悪感に塗れながら行った証拠隠滅。自分自身に向けた軽蔑。お母さんの、言葉。

 ――自分を傷つけることだけは、お願いだからやめて……。

「やめてよっ‼」

 僕は叫びながら、頭を思いっきり目の前の不知火築の額に衝突させる。

 不知火築の濁った悲鳴が聴覚を支配し、頭蓋骨が割れてしまうんじゃないかというほどに、あともう少しで脳が機能しなくなるんじゃないかというほどに、痛覚と衝撃が体に響く。

 不知火築の束縛が解ける。床にがしゃんと大袈裟に音を立てて不知火築は倒れ、痛みに悶え始める。

 とにかく動かないと。また束縛される。嫌だ。痛いのは、嫌だ。

 意識が途絶えそうなほどの痛覚の中、必死に逃げることだけを考えて立ち上がるが、勉強机の角に手をついてしまう。

 僕は一瞬だけ不知火築を見下ろす。

 不知火築は化け物みたいな形相でこちらを睨み、よろつきながら体制を整えようとする。

 すると――。

 銀色のものが、視界を過る。

「あ、ああ……」

 ふらふらとよろつきながら、嫉妬や憎しみなんかが混ざった表情で僕を切りつけようとする不知火築の表情が目の前にあった。

「おまえええええええええええええええええええっ‼」

 壁を伝うように、何とか不知火築のカッターナイフを躱す。そのまま駆け出して、僕は部屋のドアをこじ開けた。


「待てよ光基いっ! なんで逃げるんだよっ‼」

 雪景色に、鋭い声がまっすぐ僕の耳に届く。雪を踏みしめる鈍い足音が、後ろから聞こえてくる。

 どこに、どこに逃げれば……。

 微かな体力で、靴下を履いたまま、僕はアスファルトに積もった雪の上を走る。走りながら体が過剰に酸素を求め、冷気が僕の体の中に急速に入り込む。殺気に等しいくらいの感情を、背中で感じる。

 ああ、どうして、こんなことになるんだろう。

 やっと僕のことを理解してくれる人と出会えたのに。友達に、なりたかっただけなのに。友達に、なれると思ったのに。

 どうして、同類なのに、考えていることが違うんだ。どうして、同じ少数派なのに。感じている痛みは同じはずなのに。

 凍える空気の中、僕は必死に意識を紡ぐ。

 僕は突き当りの角を曲がり、坂道を必死に駆け上る。

 無意識にとった行動に、僕は涙を浮かべてしまう。

 一軒の家が、見えてくる。

 薄桃色の壁と、青緑色の屋根。

 あの時、中学生の時、ずっと前から友達だった人を、追いかけたことが頭を過る。

 小さな塀を飛び越えて、白いタイルのアプローチに、足を踏み入れる。

 壁に吊るされた表札には寂れたローマ字で『HANASE』と書かれている。

 インターホンを押す。家の中に、軽快な音が響くのが聞こえる。

 早く、早く来て……。

 ドアのすりガラスに手を当てて、祈るようにぎゅと目を瞑る。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、僕は叫んだ。


「助けて! 優くんっ……!」


 

 

 

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