第五十二話 どうしてそんなに(性描写、暴力描写、残酷描写あり)

「光基。ごめん……」

 玄関で、僕達は向かい合っていた。厚着姿の不知火築は、気まずそうに瞼を下げ、顎を厚着の襟の中に隠しながら、そう言った。微少な雪が不知火築のぼさぼさとした髪の毛や肩に乗っていて、僕は降りしきる雪の中で僕のためにここまで歩いてきた不知火築の苦労を想った。

「いいよ。それよりも、寒かったでしょ。ココアあるけど、いる?」

「いいの? こんな俺に……」

「いいって。前みたいに話そうよ」

 玄関は肌寒かった。僕は不知火築をリビングに通した。ガラス越しに、テラスに雪が積もっているのが見える。葉の一枚も付けていないブナの木の枝にも雪が積もっていて、雪がびっしりとこの庭一帯を埋め尽くそうとしているような錯覚を起こした。リビングには暖房を事前に付けてあったから、不知火築の体に乗っていた雪は少しずつ溶けていった。

「そこ、座ってていいよ」

 僕は、僕がいつも食事をするテラス側の椅子に不知火築を座らせた。

 僕はまた、不知火築と話せるのが嬉しくて、飛び跳ねるような思いだった。

 牛乳を二つのコップに注いで、レンジに入れて加熱する。

「光基はさ、どうしてそんなに真っ直ぐなんだよ……」

「え?」

 加熱のボタンに指を向けたまま、僕は不知火築の方に顔を向けた。不知火築はテーブルの方に俯き、今にも泣きそうな顔をしていた。不知火築の後ろでは、テラスに雪が黙々と降り続いていた。不知火築のいつもの鋭い言葉は、自分を守るための術なのだろうと、僕はなんとなくわかっていた。僕は、不知火築の脆い心に触れている気がして、優しく言った。

「前に友達が、僕のことを知ってても、友達でいたい、って言ってくれたからかな」

 僕はしゃがんでキッチンの引き出しの中からココアの袋を取り出しながら言った。優との思い出が頭の中を過り、心がむずがゆくなる。

「友達は、光基が興奮するものを知ってても、友達でいたいって、言ったのか?」

「うん。その友達さ、無痛無汗症っていう病気にかかってて、痛みそのものが分からないんだよね。だから無意識に切り傷を作ったりなんかしちゃう。机の角に肌が擦れたりなんかしてね。変な病気だよね。遺伝子疾患らしくて、まだ今の医学じゃ治せないんだって。僕、その切り傷に変な感情を持っちゃったりしたらと思うと、凄い怖かったんだけど、でも、大丈夫だった」

 僕は不知火築の方は向かず、そのまま話し続けた。

「人が傷ついたら、僕の心は痛くなるんだって気付いて、凄い安心したんだよね。友達はそんな僕のことを分かってくれて、それでも、一緒に遊んだりするような、そういう友達のままでいることを望んでくれたんだよ。僕はなんだか、僕のことを重くとらえられたり、憐みの目で見られたりするより、友達がそう望んでくれこたとが、とても嬉しくて。自分に、少しだけ正直になれたんだよね」

 レンジの加熱が終わり、ピーっという音が静かで薄暗いリビングに響く。僕はレンジの中からホットミルクを取り出す。

「でもね、友達は高校生になって、小説家になって、変わっちゃった。僕より先に、大人になっちゃって、僕から話すことも、あっちから話しかけてくることも、なくなっちゃった」

 ココアの粉末をホットミルクに入れて、小さい金属製のスプーンでダマができないようにかき混ぜる。ホットミルクココアができると、僕はスプーンをシンクに置いて、不知火築の方へと運んだ。

「僕、もしかしたら無謀なことかもしれないけど、無痛無汗症を治せるような、そんな研究がしたいんだよね」

 僕はそう言いながら、不知火築に向かい合って座る。

 話してみて、気づいた。あの高校に入って、頑張って勉強してきたのは、全部優の為だった。ずっと、不知火築と出会ってから、何のために生きているのか分からなくなる時があった。成績や点数や、その順位に固執するたびに、何かが薄れていくような気持になっていた。思い出した。僕は、優のために生きてた。そうだ。不知火築と仲直りが出来たら、また優の所に会いに行こう。そして、僕の全部の気持ちを打ち明けるんだ。大人になった優が僕の話を拒んだとしても、絶対に聞かせてやる。僕は、優の病気を治したいんだって。

 不知火築はホットミルクココアの温かさを確かめるように、両手でガラスのコップを持った。不知火築は力なく笑って、言った。

「光基、お前、ほんとに馬鹿だよ。俺みたいなやつと仲良くするなんて」

 涙をこらえるように、不知火築は言った。僕の心は、ずきずきと音を鳴らす。不知火君、大丈夫だよ。僕も、いつか優がそうしてくれたように、不知火君となんでもない日々を過ごすような友達になれることを望んでいるから。

 不知火築は小さくホットミルクココアを啜り、少しすると、舌が温度に慣れたのか、一気にごくごくと飲み干した。やけになっているようにも見えたけど、その飲み方が、不知火築らしいと、僕は思った。

 僕もホットミルクココアを飲み終えると、不知火築は言った。

「二階に上がろう。ノートパソコンあっただろ? 漫画の作者のことについて、見せたいもんがある」

 

 ***


 信じられない光景が、僕の目の前に広がっていた。

 性的な女性の裸体のイラストの広告に挟まれた文字列に、僕は言葉が出なかった。そこには躊躇のない残酷な言葉が羅列されていて、無法地帯の街を歩いている感覚ってこんな感じなのかもしれないと、恐れを抱いた。

『まさかの、あのショタリョナ作品が劇場版決定wwww』

『アニメになってるだけでもやべえのに公式いかれてるだろwwwww』

『マジあの作者死んでほしい。あいつ漫画家じゃなかったら絶対捕まってるよな。警察に目つけられてないのが不思議だわ。俺の子供の通ってる学校にこういう性癖の先生居たらと思うと身の毛がよだつ。』

『小児性愛者は全員消えるべき(定期)』

『あいつは小児性愛者ってだけじゃないぞ(笑)。プラスでリョナ性癖がついてきます(笑)。作者が男性ってことはガチホモでもあるんだろ? ついてこれるやつはついてこいみたいな作風も嫌い。誰もお前の共感求めてませんって感じ?』

『やめろwww あの漫画で助かってるやつらもいるんだぞwwww』

『いや、その漫画で助かってるやつらもかなりいかれてて草』

 僕の勉強机の椅子に座っている不知火築は、舌打ちをしながらそっと掲示板のタブを閉じた。ホーム画面だけが、ノートパソコンに映る。掲示板に書かれていた言葉が不特定多数の人間の様々な声で再生され、頭の中で反響して、余韻として残る。どっ、どっ、と嫌な音をしながら血液が何とか脳の中を走る。息が、詰まるような思いがした。

 今まで、僕みたいな人を直接的に非難する人たちを目に入れてこなかった。ずっと、見ないようにしていた。漫画を非難する声があることは、きちんと理解していた。それなのに、今にも泣きだしたい気持ちになった。理屈で分かっていても、否定されるのは苦しかった。

 冷静になろうと思って、僕は何とか声を出す。

「大丈夫……。その人は、僕達とは無関係だよ」

 すると、不知火築は我慢の糸が切れたみたいに、机を拳で叩いた。

「え?」

 部屋に、鼓膜が破れそうなくらいに大きな音が鳴り、大きく心臓が飛び跳ねた。

「大丈夫なわけねえだろ! こいつらのせいで、作者は死んだんだぞ⁉ 光基もこいつらが憎いんじゃねえのか⁉ こいつらを殺してやりたいとか思わねえのか⁉ しかも、こいつらは俺達のことまで馬鹿にしやがった‼ あいつらは人間として俺達を見てないんだぞ⁉ そんなやつらをほっとけるか? あいつらがしてるのは差別と何ら変わらないんだぞ⁉ あいつらは、俺らの居場所を奪いやがったんだぞ⁉ 俺らは、俺らがやっと見つけた快楽を、奪われたんだぞ⁉」

「ね、ねえ、落ち着いて……」

「落ち着けるかよ‼」

 不知火築は立ち上がって、僕の両肩を掴んだ。そして僕の肩に体重を預けるように俯いて、皮肉っぽく震えた声で言った。

「いいよなあ光基は。理解のある環境で育って。あんな優しそうなお母さんに、育ててもらってさ。友達も光基の性癖を理解してくれてんだろ? なんだよそれ……。なんだよそれっ‼」

 ごつごつした指の力が、僕の体を恐怖に陥れる。何も、声が出せない。

「俺はずっと分かってもらえなかった‼ 異性愛者じゃないって親に打ち明けたとたんにぶん殴られて! 女子からの告白を断ったせいでいじめられて! 最新刊まで買った漫画の存在が親にばれて、こんなものがあるからお前は異常者になったんだとか変なこと言われて処分されて! 家族に失敗作扱いされて無視されて、やっとネットで居場所が出来たって喜んでも誹謗中傷をする奴らばっかりで! 強がることしかできなくて、避けられて……! やっと見つけた同類が、こんな奴だなんて……」

 不知火築の指が、震えている。

 脳が、警鐘を鳴らす。

「俺と同じ気持ちになってみろよ‼ なんでお前みたいなやつが幸せな人生送ってんだよ! 俺と同じところまで落ちて来いよ!」

 何も、言葉が出ない。

 体が逃げろと、命令を下す。でも、震えて動けない。

 どうして、分かり合えないのだろう。


「お前も俺と同じ異常者だろ! 自分は常識人です、みたいな顔しやがって!」


 気付けば、僕はベッドに押し倒されていた。

 不知火築の急な行動に、頭が追い付かなかった。

 不知火築は右手で僕の腕を力強く抑える。

 唖然とした僕は、抵抗することが出来ない。

 不知火築は、厚着の左のポケットから、何かを取り出した。

「しらぬい、くん、やめ……」

 かすんだ声が、辛うじて出る。

 僕は目を見張る。

 カッターナイフの刃が、窓から差す光を鋭く映し出していた。


 

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