第五十一話 謝りたい

 途方もない距離を歩いてきたはずなのに、白と赤の沼は、いつも僕に経験したことのない色んな痛みを教えてくれる。もういい、これ以上は止めてと叫んでも、歩くしかない。

 真っ暗な空間は、ただただ寒い。

 僕は沼の中でしゃがみこんでしまい、もう歩けなくなる。

 膝がもう、歩き方を忘れてしまう。

 強引に胴体を捩ったり前に屈もうとしたりしても、ここから動くことが出来ない。

 ――怖い。

 僕はそう思う。この環境に、ずっと身を置いてきたはずなのに、僕はここにいてはいけない気がする。ヒリヒリと、「どうしてお前はこんなところにいるんだ?」と冷たい目で責められているような気持になる。

 ――だれか。僕を肯定して。ここにいていいって、言って。ここ以外に場所がないんだよ。こんなに痛い思いをしながら歩いてるのに、この痛みに慣れ始めたのに。どうして、こんな気持ちになるんだよ。

 僕は叫ぶ。

 沼に向かって、ひたすらに拳を叩きつける。

 白と赤の飛沫が舞い、僕の体が汚れる。

 自分がみじめになる。

 ――そうか。どうせ僕みたいな、人に認められたいとしか考えてない存在なんて、要らないんだ。

 目の前には、都合良く包丁が沼に浮かんでいた。

 呼吸が荒くなった。

 おぼつかない手つきでそれを拾い、両手で握って刃先を自分の心臓に向ける。

 僕は想像する。血が溢れて、僕の周りが赤で塗れるところを。

 僕は勢いよく、包丁を突き刺す。

 ……。

 そこにあったのは、胸を叩く、こぶしの感触だった。

 しっかり握っていたはずの包丁は、どういうわけか消えてしまった。

 ――いやだ! いやだ! いやだ! いやだよ!

 僕は頭を抱えて叫ぶ。広いはずの沼に、僕の叫びが反響する。音と音が重なり合い、僕の声は大きくなっていく。思考の糸をぷつんと切るみたいに、僕の声は、僕を現実へと連れて行った。


 ***


 レースカーテン越しに、霞んだ白色の世界が広がっているのを、僕は目にする。

 どれだけ眠りに落ちていたとしても、淀んだ気持ち悪さが僕の体に付きまとい、瞬時に不機嫌な不知火築の表情を思い出す。忘れるな、お前は最低な人間なんだと、脳が警鐘を鳴らしているみたいだった。

 冬休み初日。不知火築と食事をしたあの日から、数日たった。その数日間、僕と不知火築は言葉を交わすことはなかった。教室で不知火築を見る度、刃物か何かで肌を突っつかれているような危機感が体中を支配した。僕は誰からも嫌われてしまったんだと、そう絶望して、毎日を送るしかなかった。そして、漫画の作者が自殺したというニュースは瞬く間に様々なメディアに取り上げられ、中には作者の性的嗜好を取り上げて、物議を醸したりする記事もあった。冬休みに公開されるはずだった劇場版は中止になり、漫画も、アニメも打ち切りとなった。

 僕の心に刃を突き立てるような事柄が頭の中を錯綜し、朧げな記録しか残らない日々が続いた。

 ベッドから降りて机の上に置いてあるスマホを見ると、不知火築からの着信が一件、ロック画面に表示されていた。ロック画面には文章の冒頭だけが映されていて、僕はそこから、『あの日のことを謝りたい』という文を見つけた。

 常に僕に巻き付いて離さなかった危機感が、するりとほどけていくような気がした。

 高鳴っている心臓が、おさまっていく。

 そうだ。もともと、不知火築は不器用な人間なんだ。間違ったり、人を傷つけてしまう時だってある。

 僕は、何も悪くなかったんだ。

 また、不知火築と話すことが出来る。

 まだ、僕は不知火築に見捨てられていない。

 危機感が安堵感へと変わる感覚が、脳を支配していった。

 不知火築と、漫画の好きなキャラクターのことについて話したり、その漫画のゲームで遊んだり、休日に漫画のグッズを買いに行ったりした日々が、頭を過る。

 僕はラインを開き、本文に目を通した。

『光基、あの日のことを謝りたい。ずっと話せない状態が一週間くらい続いたけど、あの日々を、俺はずっと後悔しながら過ごしていた。ハンバーガー店で俺が言ったことは、どう考えても支離滅裂だった。光基にとって、とても理不尽な思いをさせてしまった。実はあの日、後輩(前に光基に話した友達)と個人的なことで揉めてしまって、光基に友達のことを訊かれたとき、凄い頭にきてしまったんだ。自分勝手な怒りを光基にぶつけてしまって、悪かったと思ってる。光基が俺のことをまだ許してるなら、直接光基の家に来て、話がしたい。それに、光基もあのニュースのことは知ってると思う。それについても、話させてくれ』

 僕は、『いいよ』とだけ返信した。


 

 

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