第五十話 もっと凄い馬鹿

 人の圧迫感と、狭い空間を行き交う温風が、ただそこにある。

 水の中に落ちた灰色のインクの中を必死に泳ぐみたいに、僕は人の多いバスの中でひっそりと息を潜める。窓から見える建物の流れゆく風景は頭の中に馴染みすぎてしまい、誰かに口にものを強引に詰められているような気持になる。僕には、社会を成り立たせている者たちの原動力が、馬鹿みたいに分からなくなる。重力が、僕を好んで離さない。まるで石化してしまったみたいだ。何の意志も持っていない石像になってしまった気分だ。

 優と会ってから、もう二か月ほどたっただろう。あれ以来、優とは言葉を交わさず、目を合わせるようなこともなかった。大人になってしまった優の姿は、焦りに駆られて空回りした僕の記録は、全て僕の頭の中で、現実味を帯びていない悪い夢のようなものとして残っている。一定の流れで進む現実の中で、その記憶だけが、悪い嘘みたいに、異物のようなものとして存在している。今の自分の状態でその時に戻ってしまえば、本物の毒ガスを充満させたときみたいに、息を詰まらせて死んでしまうだろう。

 でも、僕の中でぐじゅぐじゅと動く気味悪い心はまだ、あの薄暗い部屋の中にいる。

 朝に食べた食パンを、バスの座席に戻してしまいそうだ。

 僕はスマートフォンを開き、アプリの右上に表示された一件の着信を目にする。優のアイコンはお母さんや公式アカウントのアイコンよりもはるかに下に位置していた。一番上に存在する、漫画の主人公の少年のアイコンを、僕はタップした。

『今日何時くらいに帰る?』

 僕は返信する。

『七時くらいになると思う。課題消化したい』

『分かった。帰り、時間合わせて駅で会おうや。近くのハンバーガー屋でなんか食べよう』

 僕は、了解、と漫画の主人公の少年が言っているラインスタンプを送る。

 また、友達の家に遊びに行くのかな。と僕は思う。夜の駅で会う前に不知火築が会いに行く友達と、僕は顔を合わせたことがない。その人とも、趣味が合うのかな、なんて思っていると、バスの中にアナウンスが流れた。

 僕は急いで立って財布を取り出す。

 僕の手首に身に着けているものが一つもないことに、僕は気付いている。


 ***


 夜のバスを降りると、片手にチョコレート味のドーナツを持って、駅の通路の壁に寄りかかりながらスマートフォンを弄っている不知火築がいた。バス乗り場を抜けて不知火築の元に行くと、僕は言った。

「おまたせー。夕食前にドーナツ?」

「俺は食っても太らない体質なんだよ」

 サラリーマンや老人達、煩い女子高生らが通路を行き交う中、僕達の会話がくぐもって続く。

「逆に、図書館に籠ってて何も食わねえで真面目に勉強やってる方がヤバいと思うね」

「おかげで太ってないからね」

「ガリガリなのもダメだろ。俺の体、ガリガリでもないし太ってもないし、どっちかっていうと筋肉付く前みたいな感じだぜ。トイレの個室で触らせてやろうか」

 不知火築はにひひと笑いながら、乱れた制服のシャツをちらっとつまむ。不知火築には、そういう笑い方がひどく似合っているように思えた。

 僕がなんと返したらいいのか言葉を詰まらせていると、ぼさぼさとした頭をかきむしりながらため息をついた。

「マジでお前って冗談通じねえところあるよな」

 そう言うと、不知火築は壁から背中を離して、僕の背中をボンと叩いた。

「ほら、行くぞ」

 僕はただ、不知火築に気に入られたいとしか考えていなかった。僕のことを肯定してくれる人は、不知火築一人しかいないのだ。僕は不知火築のぶっきらぼうな温かさに、身を委ねたかった。

 

「ねえ、ずっと気になってたんだけど、不知火君の友達って、どんな人なの?」

 オニオンフライを齧りながら、僕は訊いた。

 ハンバーガー店では聴いたことのないジャズが流れており、それを遮るみたいに他校の高校生がスマホゲームをしながらはしゃいでいた。

「後輩の一年。知り合ったのは中学三年の頃かな。成長途中のショタみたいな顔と身長しててさ、すっごい俺を兄貴みたいに慕ってるんだよね。俺が二年の初めに部活やめても、忠実な犬みたいな顔して俺のこと見てきてさ。すっげーかっこかわいいわけ」

 にやにやとした顔で、不知火築はコーヒーを啜る。

「その子と、いつも何してるの?」

 不知火築は啜ったコーヒーを吹き出しそうになるのを抑え、カップを置いて言った。

「お前、そういうこと聞いてくんなって」

「え?」

 訳が分からず戸惑っていると、不知火築は言葉を選ぶように言った。

「えっとな、今まで味わってきたいやーなことが全部忘れられるような、すっげーいいことしてんだよ」

 不知火築は僕に期待を委ねるような、楽しそうな顔をした。

「仲が良いんだね。その子と……」

 僕はただ単純にそう言った。すると、不知火築は信じられないという感情を混ぜたような、不機嫌そうな表情をした。例えば、自分は怒っているのだと生徒に伝わらなかった時の冷徹な先生みたいな、そんな表情だった。

「お前ってさ、どうやって生きたらそんな風に単純になれるの? ……まああんな良さげな家に住んでたらこうなるわな。ほんっとつまんねぇ」

「え……」

 ひどく落胆する不知火築を見ながら、僕の心臓は鉛のように重たくなる。

「なあ、なんで俺があの高校に入ろうと思ったか分かるか?」

 店内の入り口近くで騒ぎ立てる高校生たちが、機械みたいな動きの女性店員に注意されているところを不知火築は睨みながら言った。

 僕は不知火築の考えを必死に探った。不知火築に嫌われたくなかった。

「なにか、したいことがあっ」

「馬鹿な人間のいる環境に身を置きたくなかったからだよ」

 もういいという風に僕の回答は遮られた。

「俺は昔から馬鹿な人間のせいで、俺の人生を苦しめられてきた。あいつらは人の話に共感できなかったらすぐ仲間の輪から外して迫害したがる。その様子を見た先生が憐みの目をしながら保護者に相談したりなんかしたらたまったもんじゃない。ああいう馬鹿がいるから、俺の人生は狂っていったんだ。俺には俺の快楽がある。それを邪魔する人間なんて、全員死んでしまえばいいと思ってる」

 不知火築はハンバーガーをやけ食いして、制服のポケットから財布を取り出し千円札を一枚取り出した。

 不知火築は席を立って、僕を見下ろして言った。

「でも、高校にはそういうやつらよりもっと凄い馬鹿がいたみたいだ。俺のことを知ろうともしないくせに、俺と関わろうとするなんておこがましいにも程がある」

 呼吸が、出来なくなる。優と一緒にいた時よりも、ずっと苦しくなる。今ここで、ナイフを自分に突き立てて死んでやりたい。頭が、嫌われないためにどうすればいいかという事だけを考えてぐるぐるぐるぐる回る。

 お願い。誰も僕のことを嫌わないで。

「金は出しといてやる」

 不知火築はそう言って、この場を去っていく。

 僕はハンバーガーを大袈裟な力でつかみながらやけ食いした。パンがのどに詰まって死んでしまったって構わなかった。店内のドアが開く音と、「ありがとうございました」といううわべだけの明るい言葉が響いた。


 駅のホームにいるのは、僕たった一人だけだった。制服と肌の隙間が、凍るような冷気の侵入を許し、体温がゆっくりと下がっていく。

 僕の目に入ってくる人工的な光たちが、まるで僕を冷たくあしらっているように見えて仕方なかった。僕を取り囲む環境は、こんなに冷たいものだったんだと、僕は思う。ビルや車や信号機や街灯や冬のイルミネーションの灯す光は、どこか他人事だと割り切って知らないふりをするときの人間の目と似ていた。

 僕はスマートフォンを開き、何か楽しいものを見たい、僕を肯定してくれる娯楽が欲しい、と思いながら漫画の画像を検索した。

 しかし、僕は一番上に出てきた検索結果に、指を止めた。

 その記事の見出しには、こう書かれていた。

『あの漫画の作者が、自室で首を吊って自殺。誹謗中傷からのストレスによるものと考えられる――』

 

 

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