第四十九話 居場所
「それにしてもびっくりしたわ。光基が新しい友達を連れてくるなんて」
夕食の食器を片付けながら、お母さんはそう言った。僕はお母さんの言葉を聞きながら、ソファの後ろのカーテンを閉める。星空の明るさと正反対に、ここから見下ろせる田んぼは真っ暗だった。
「今までその子の話してたっけ? いつ知り合ったの?」
「き、昨日……」
僕は正直に答えた。
「え、本当⁉ 結構積極的な子ね?」
「そうだね。ぐいぐい行く人ではあるかな……」
高揚感と、危なっかしさのようなものが混じった温かさが、僕の胸を燻った。まるで、平均台の上を、バランスなんか気にせずに走っているみたいだった。それほどに、不知火築は僕のことを受け入れ、肯定してくれた。
「あ、そうだ。今週の日曜ね、優君のお母さんがまた刊行記念パーティしたいって言っててね、光基君もぜひ来てほしいって」
「あ、ああ……。うん、行くよ。最近全然話せてなかったし」
僕はカーテンを閉め、キッチンにいるお母さんの方へ振り返った。お母さんは、ただ純粋に楽しそうな表情をしていた。
「優君凄いわよね。十六歳なのに、あんなに注目される作家になるなんてね。優君の小説ノート、光基は中学の時から読んできたんでしょ? 友達に自慢してみたら? 『僕が高瀬悠先生の一番最初の読者なんだよね』って」
お母さんは舞い上がったように言う。
「それも、いいね……」
さっきから、曖昧な返事しかしていないと、自分でも分かる。それほどに、僕にとっての不知火築との時間が刺激的だった。僕は少しだけ、心が疲弊しているのかもしれない。この状況を喜んでいいのか、自分でも分からない。
***
刊行記念パーティまでの数日間は、不知火築と共に過ごしたと言っても過言ではなかった。僕はよく遅い時間まで図書館に残って勉強するのだが、帰りはなぜか不知火築と会うのだ。一度、「こんな時間まで何してるの?」と訊いたら、不知火築は「友達の家で遊んでた」と言った。僕は、意外と不知火築の人脈は広いのかもしれないと思った。
帰りながらする話は、いつも漫画の事だった。その漫画の作者のエピソードトークとか、アニメの劇場版が決まったこととか。仲良くなり始めたときと、変わらない接し方をしてくれた。
やはり、僕の思った通り、不知火築は優しい人間だった。クラスメイト達が不知火築にあまり近づきたがらないのは分かるが、そんな小さなことだけで、友達になるのを拒むことは、僕にはできなかった。
不知火築はあの時、僕が自分の性的嗜好を告白した時、とても嬉しそうな顔で僕の肩に腕を回し、「今まで生きづらかっただろ?」と言ってくれたのだ。ちょっと黄ばんだ歯を見せて笑い、「今日から俺達仲間だな!」と歓迎するように言ったのだ。
僕は、今までの人生で感じたことのない幸せを感じた。異常な自分を心のどこかで卑下する心が、その時吹き飛んでいったのだ。こんな異常な自分を認めてくれる人が、きちんと存在していたのだ。
安堵感で高鳴る心臓の音を聞きながら、僕の居場所はここにあるのかもしれないと、そう思ったのだ。
――でも。
でも、どうして優といるときは、こんなに居心地が悪いのだろう。
「ねえ、優くん……」
薄暗い部屋の中で、僕は明るさを保ちたくて優に話しかけた。優の部屋には、明らかに本や書類やコードなんかが増えていた。ゲーム機なんか一つも見当たらなかった。
「なに」
仮面をかぶっているみたいに、椅子に座りながらパソコンの光を顔の表面で受ける優は、冷たく言った。優は、僕の目を見ない。
「新作の評判は、どう?」
「まあまあかな。処女作の衝撃に比べたらそうでもないとか言う人いるけどね」
「でも、二作目も、全然違う角度で、面白かったよ」
「そう」
僕は優のベッドにぎごちなく体育座りしながら、何とか会話を続けようとする。優の布団からは、男っぽいけど落ち着いた、優の懐かしい匂いがした。
刊行記念パーティの後、お母さんは「優君の所に行ってきたら?」と言ってくれて、僕は優の部屋に入った。優の食べられる範囲での食事が豪華に並ぶ中で、優はそこまで嬉しそうな顔をしていなかった。まるで、周りだけ盛大に祝うこのパーティをめんどくさがっているように見えた。
いつの間にか僕は、優との距離感が分からなくなっていた。
「いま、何してるの?」
「編集さんからの連絡返してる」
「す、すごいね。会社の人みたい。ねえ、大人の人達って、優しい?」
「さあね」
掴もうとしたものが、さっと手をすり抜けて、空気の中に溶け込んで見えなくなってしまう。
優と話している気が、全くしなかった。
胸の奥がぎゅっと掴まれたように思え、下手したら泣いてしまいそうだった。
僕は自分の腕の中に、そっと顔をうずめる。
きっと優は、変わってしまったのだろう。優が先に、大人になってしまったのかもしれない。僕なんかを相手にするより、きっと編集者に対して連絡を取ったり、不特定多数の読者に対してSNSで宣伝をしたりすることの方が、優にとっては重要なことなのかもしれない。
孤独が、一気に僕を襲う。
うまくしゃべれない自分が嫌で、何か話題を探そうとする。
「そ、そうだ。そういえばね、最近、友達ができたんだよ」
「へえ」
「僕とびっくりするくらい趣味が合うんだよね」
「それで?」
「え、えっと……」
何か言葉を紡がないと、と僕は焦る。
「ごめん、ちょっとさ、今忙しいから、後にして」
僕が矢継ぎ早に話そうとするのを制止したいのか、優は僕に左の手のひらを向けてこちらを見ずにそう言い放った。
心が一気に戸惑うと同時に、僕はとあるものを目にした。優の手のひらの端から、血がぽたぽたと流れているのだ。
「ね、ねえ優くん、血が」
優と話がしたい。僕が消毒したり絆創膏を貼ったりしながら、ちょっと恥ずかしそうになっている優をからかうみたいに、中学生の頃みたいに、話がしたい。ねえ、優くん、僕の方を見て。
「え、ああ。このくらいなら自分で治せるよ」
一瞬だけ、僕は息の仕方を忘れた。
机の隣の棚の上から救急箱を取ろうとしている優を、僕は唖然としながら見る。
――そっか。僕が治療してやる必要なんて、もうないんだ……。優は僕を、もう必要としていない。
どうしようもないくらいに虚しくて、気持ち悪くて、ここが僕の居場所じゃない気がして、僕はベッドから降りた。
「ごめん、片付けの手伝いしてくる」
「うん」
この場を離れようとしても、優は何とも思っていないんだね。
何とか息の仕方を思い出しながら、僕は部屋のドアを開けた。
帰りの夜道の短い時間に、僕はカーブミラーに映る自分を見上げながら、言った。
「いつになったら、大人になれるのかな」
自分の性的嗜好を他人と共有することで快感を得ている僕が、今はどうしようもなく子供に思えた。
僕は前を歩くお母さんの後ろ姿を見る。そのもっと前には、僕達の家がある。静かな夜に、アスファルトを踏む音が響く。
「そういうこと言わなくなってからじゃない?」
当たり前の事みたいに、お母さんは言った。
僕は何も言えなくなった。
その場で簡単な回答を得ようとしていた僕が、とても馬鹿馬鹿しく思えたからだ。
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