サクラチル
橘 小夜
サクラチル
「ごめんなさい」
誰もいない校門前で、笠原さんが僕に向かって頭をさげた。重力で流れた長い黒髪に、散ったばかりの桜の花びらが柔らかく降り積もる。
高校の卒業式の日、僕は初恋の人に振られた。
笠原さんとの出会いは高校の入学式の日だった。幼稚なクラスメイト達と一緒にいることに嫌気が差し、人間関係をリセットするために家から遠い隣町の高校を受験した僕は同じ中学から来た友人や知り合いが誰一人としていなかった。不安に思いながら教室に入り席に着くと、生まれつき人見知りの僕は初対面の人を前に案の定持ち前の被害妄想が暴走し始めた。急に話しかけて馴れ馴れしいと思われたらどうしよう、趣味が合わなかったら仲間外れにされるんじゃないか。それに周りの人は知り合いがいるから違う地域から来た僕は完全に部外者だ。この地域の人たちの勝手がわからないから下手に動いたら白い目で見られそうだ。こんなことを勝手に頭の中で決めつけながら椅子に座っていると石像のように身が固くなり、後ろを振り向くことも前の人の肩を叩くことも出来なかった。どうしよう、どうしよう。勇気を出して話しかければいいだけなのにびっくりするくらい戸惑って心のなかで足踏みする。だんだん広い教室の中で自分だけが偉くちっぽけな存在のような気がしてきて伸ばしていた姿勢をそっと丸くする。心臓の鼓動が速くなって、視界の隅から見える世界が狭まっていく。このままじゃ中学の時と同じだ―。そんなふうに一人落ち込んでいた僕に話しかけてくれたのが笠原さんだった。隣の席の彼女は僕を見るなり優しそうな笑顔で「緊張してる?」と言って僕の手に個包装のお菓子を握らせた。中に入っていたのはアーモンド入りのチョコレートで、口に入れるとローストされたアーモンドの香ばしい香りとミルクチョコレート深い甘みが身体に絡みついていた緊張をゆっくりほどいてくれた。おかげで僕は自然体で話すことができたし、笠原さんを介して何人かの人と仲良くなることができた。
それからも彼女はことあるごとに話しかけてきてくれた。忘れ物をすると机をくっつけて教科書を見せてくれたり、休み時間には流行っている音楽や好きな本の話をしてくれたり、夏休み明けには家族旅行のお土産を持ってきてくれたりもした。どんな時も優しく接してくれる笠原さんは天使のようなおおらかな気持ちで僕を包み込んでくれる。彼女を見ていると心の表面に立っていた不穏なさざ波が凪ぎ、赤子の頃に戻ったような安心した気分にさせてくれた。
しばらくして席替えで笠原さんと席が離れてしまっても、僕は無意識のうちに彼女を目で追いかけるようになった。笠原さんは決して美人ではない。二つの目は一重で、鼻も高くない。テレビで見る女優やモデルのような華やかさや明るさはない。けれど笠原さんはいつも笑顔が可愛らしかった。彼女が笑うだけでそこだけ太陽に照らされたかのように明るくなり、見るもの全てを優しい気持ちにさせる。黒くて長い髪はきれいに切り揃えられ、勉強中に下を向くとさらさらとノートの上にかかってしまうから、その度に髪をかきあげて耳の後ろにかけるその仕草すらも愛おしかった。光に当たると髪の毛の描く曲線に合わせてしなやかに輝いていた。使われている問題集はページの端がしなしなに擦り切れ、色とりどりの細い付箋が本の中から自由奔放に飛び出していて、長年使い込んでいるような跡があり陰ながら努力しているのだと知った時は思わず感心した。幸運なことに二年になっても三年になっても僕らは同じクラスで、置かれる環境が変わっても笠原さんの人格はねじ曲がることなく何一つとして変わらなかった。それどころか彼女は年月を経るに連れてどんどん大人の美しさを身に着けていき、なまめかしさすら覚え時々直視出来なくなるくらいだった。それでも僕は笠原さんが大好きだった。穏やかな笑顔も長くつややかな髪も、きれいに手入れされた爪も透き通った肌も、すべてが愛おしくてたまらなかった。これからもずっと、彼女と共に幸せな日々を過ごせると思っていた。こんなに平和で穏やかな日常が永遠に未来へと地続きになって欲しいと願っていた。でも今のままでは物理的に不可能だ。僕らは、高校を卒業すれば別々の道を進むことになる。頭の悪く勉強が嫌いな僕は就職し、勤勉な笠原さんは大学に行って研究者になる。一瞬僕も彼女と同じ大学を受験しようかとも思ったが、目的もなく大学に行くのは良くない、好きな人の人生をなぞってどうする、と両親に反対されてしまった。どうすれば彼女と別れないで済むだろうか。このまま彼女の笑顔を見続けるにはどうすればいいのだろう。数日間、睡眠時間をも削りベッドの中で悶々と考えに考えた僕は卒業式に彼女に告白することを決意した。優しい笠原さんならきっと、よろこんで頷いてくれるに違いない。
そう考え実行した結果がこれだ。笠原さんは僕の告白を聞いた途端即座に「君とはそういう関係になりたくない」と言ってあっさり帰ってしまった。そういう関係。彼女の言い放った言葉がかすかに僕を気持ち悪がっているように思えて、ずっしりとみぞおちのあたりでわだかまった。彼女にとって僕はただのよく話すクラスメイトで、これからの未来を一緒に過ごそうと思う相手ではなかった。所詮は学校内で終わる程度の人間関係で、笠原さんの人生の計画上に僕は最初から入っていなかった。それだけのことなのになぜか納得がいかなくて、砂でも噛まされたようにざらついた気持ちが僕の心を覆う。笠原さんが申し訳なさそうに、でもちょっとだけ安心したように帰っていく姿を見送ったあとも僕はしばらくその場で立ち尽くしていた。心に大きな穴がぽっかり空いたような喪失感に身体中が蝕まれ、他のことは何も考えられなかった。次第に喉の奥からひりひりと悲しさがこみ上げてきて静かに涙が流れる。好きだった人に突き放されるのがこんなにも辛いこととは思わなかった。悲しさでしばらく立ち直れそうになかったけどかえって諦めがついたような気がした。いつまでも笠原さんとの別れを惜しむ自分を納得させることができたし、いい加減前に進もうと思った。少しずつ散っていく桜の花びらを手に掴むと、僕は花曇りの空の下ゆっくり歩きながら家に帰る。
サクラチル 橘 小夜 @sayat63
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