第14話

 自分から伝える、とは言ったものの、真太郎にもどんな風に伝えたらよいのか、言葉が見つからなかった。というより、決心が定まらなかった。北海道をはしゃぎながら旅した日からまだ一か月ほどしか経っていない。第一、女手ひとつで育ててくれた母に、何一つ恩返しができていない。これから親孝行をしなければならないと思っていたところなのに、よりによってその命がもう長くはないということを告げることになるとは。

 売店に行ってみたり外来に戻ってみたりと意味もなくうろうろした挙句、こんな風に煮詰まった時にはいつも、母が話を聞いてくれていたということに気付いた。背中を押してくれるはずの母に相談できないのだから、あれこれ考えていても結論は出ないだろうと諦めて、なんと説明するのかも決めないままで美奈子の病室を訪れることにした。

 案の定美奈子は、真太郎の顔を見るなり何かを抱えているということに気付いた。

「どうしたの、しんちゃん。顔色が良くないわよ」

「あ、いやなんでもないよ、母さん」

「なんでもないって顔じゃあないわねえ」

「母さんの方こそ、痛みの具合はどうなんだよ」

「うん、あんまり変わらないわねえ」

 これまでの美奈子なら、強がってずいぶんましになった、とでも言いそうなところだが、その余裕はないらしい。その様子を見て、真太郎は思わず整理のつかないままで話し出した。

「実はさ、さっき、小坂先生に呼ばれて、話を聞いてきたんだ」

「小坂先生に……それで、なんて?」

「うん、ちょっと腫瘍があるので薬で痛みの治療をすることになったんだって」

「場所はすい臓ね。痛みの治療ってことは、癌なのね」

「え……」

 淡々と言い当てる美奈子に、真太郎はどう答えてよいか分からなくなった。

「どうして分かるのかって? なんとなく、かしらね。場所はさすがにね、長年看護師をしていると大体は想像がつくわよ。痛みの治療と言われればね。それに、実はね、しんちゃんのお父さんもそうだったらしいのよ」

 あえて余命という表現は小坂医師も美奈子自身も用いなかったが、痛みのコントロールというのはつまり、そういうことだ。真太郎はまた、自分の知らない美奈子の姿を垣間見たように感じた。


「お待たせしました。こちらへどうぞ」

 真太郎は、スタッフの声で我に返った。美穂の着替えが済んだらしい。フィッティングルームの方に案内される。視界一杯に真っ白な光が広がった気がした。

「どう、真太郎」

 ティアラをつけ、ブーケまで手にした美穂の姿があった。真太郎は言葉を探したが、とっさに何も思い浮かばない。十年のつき合いで、見慣れているはずの美穂だったが、圧倒され、どこを見ていいのかもよく分からない。

「あ、その……」

「なによ、はっきり言いなさいよ」

「いやあの、いいんじゃないかな」

「もうちょっと言い方あるんじゃないの? きれいだとか、すてきだとかさ」

 もちろん、そう思ったから圧倒されている。けれども、そんなことをこんなところで言えるものか。真太郎はますます委縮しながら、

「そう思っているよ」

 とぼそりと言った。案内してくれたブライダルサロンのスタッフは、二人の隣で目を伏せながら静かにほほ笑んでいた。


「……間に合えばいいんだけど」

 真太郎を見てやわらかに微笑んでいた美穂が、不意に顔を曇らせた。少し迷ったが、真太郎は、ここに来る前に美奈子の病気のことを美穂にも伝えた。見開いた目から大粒の涙をぽろぽろとこぼし、美穂は結婚式の予定を変更しようと言った。美穂だったらきっとそういう反応をするだろうと思って伝えることを迷ったのだが、もちろん黙っているわけにもいかない。美奈子がきっとそんなことを望まないだろうと言ったが、聞き入れようとはしなかった。

 美穂はとにかく美奈子の病室に行こう、と言った。ウエディングドレスを最終的に決める大切な打ち合わせの日だったが、美穂は結婚式そのものを取り止めることも辞さないと言っているので気にする様子はない。こうなるとてこでも動かないことを知っているため、真太郎も止めることなく、一緒について行った。

 枕元で泣き崩れる美穂の頭を、美奈子はやさしく撫でた。その美穂と、なすすべもなく美穂の隣で棒立ちになっている真太郎とを交互に見ながら、美奈子は静かに言った。

「大丈夫よ、大丈夫。心配しないで。私はきっと、結婚式には出席するから。あなたたちはしっかり準備をしなさい。手伝ってあげられなくて悪いけれど、あなたたちだったきっと大丈夫よ」

 美穂はひとしきり泣いた後、美奈子の手を握って、

「約束ですよ。きっと素敵な式にしますから、出てくださいね」

 と美奈子に答えるように言った。美穂の肩を抱き抱えるようにして病室を出ていく二人の背中を見送りながら、美奈子は小さな声で、

「大丈夫よ、大丈夫」

 と言った。真太郎と美穂の二人に向けたのか、それとも自分自身に向けたのか。判然とはしない中で、かつて貴子が自分の背をさすりながら言ってくれた言葉を、何度も何度も繰り返していた。


 できれば少しでも早められないかと考えたが、クリスマスシーズンでそれでなくても一杯のところ、奇跡的に空いていた日程だったので、変更することは難しい。

 せめてなんとか、自分たちの結婚式が間に合えば、と真太郎と美穂は祈るような思いになっていた。それだからだろうか。美穂を包んでいる純白のウェディングドレスが、なんだか別の、神聖な光を放っているように、思われた。傍らに控えているサロンのスタッフは、変わらず微笑をたたえてただ静かに二人を見守っていた。


「メリーゴーランドが見えるわ。面白い。ほら、あそこよ。見てごらんなさいよ」

 美奈子が窓の外を指さして、楽しそうに笑った。わずかな間にずいぶんとか細くなってしまったその指先は小刻みに震えていて、長く持ち上げていることも難しいようだった。小坂医師からは、痛み止めに麻薬を使うので、少し幻覚などが出て来るかもしれないと言われていたが、今美奈子にはそうしたものが見えているようだった。

「母さん、俺には見えないけれど、それはきれいなのかい」

「何言ってるのよ。あそこの教会の上に見えるじゃない。ほら、あの山の上の、いや、山なんかないわ」

 やや混乱したようなので、布団を直しながら、

「少し眠るといいよ、母さん」

 と静かに声をかけた。


 また夢を見た。子供の頃から何度も見ていた夢。バーベキューやショッピング、旅行を楽しんでいる夢。いつものように、顔だけが見えない同じ女性がいる、いとしくて切ない夢。最後に、北海道旅行の場面になった。自然の中で振り返る彼女の顔が、その時、はっきり見えた。ずいぶんと若い姿をしているが、間違いなく美奈子だった。

「美奈子」

 真太郎は、母の名を呼んだ自分の声に目を覚ました。激しく動揺しているのが分かる。夢の中に出てくる、顔だけがどうしても見えなかった女性。あれは母の若い頃に違いない。何故かはっきりとそれが分かった。一方で、そんな馬鹿な、とも思う。理想の女性像が母親の面影を持つということはありうる。しかし、あんなにはっきりと、若い時の母の顔が出てくるなんて。そもそも、自分の記憶の中にあるものとも違っている。大体、夢の中でのこととはいえ、何故自分が母を名で呼んだのだろうか。とりとめなくそんなことを考えていて、真一はふと、母のアルバムのことを思い出した。そうだ、あの中には、若い時の母の姿があるはずだ。ベッドから飛び起きて、母の部屋の押入れを開ける。衣装ケース。いくつかを引っ張り出す。あった、これだ。以前乱雑にしまったままの状態で、アルバムがそこにあった。手に取って開こうとすると、その下にノートが何冊か仕舞われていた。

「これは……」

 アルバムよりも強く気を惹かれ、そのノートを開いてみた。


「今日、真一さんの勤めていた会社に行ってきた……」

 それは、美奈子の日記だった。どうやら父がいなくなった頃からのことを記録したものらしいということが、分かる。見てはいけない。そう思ってはいても、ページをめくる手を停めることができなかった。幾ページかをめくるうち、気になる言葉を見つけた。すい臓がん。

「しんちゃんのお父さんもすい臓がんだったのよ」

 このことを言っていたのだな。病室で、自身の病気のことを聞いた時の、母の反応を思い出した。しかし、真太郎は続く文章を読んで、愕然としてしまった。

「……結婚する時に、ずっと一緒にいるから、と約束した。その約束を守りたいと真一さんは願っていた。自分自身をリセットすることで、その約束を守ろうとしたのではないだろうか。今、真太郎という赤ん坊の姿になってしまっているのは、もしかするとその願いの結果なのだろうか。そうだとすれば……」

 なんだ、何が書いてあるのだ。真太郎という赤ん坊の姿? 一体どういうことなのだ。混乱は収まりそうになかった。

「あれから四か月が過ぎた。真一さんはあの日、突然赤ん坊になったまま、元の姿に戻る様子はない。唯一、そのふとももに残る火傷の跡だけが、真一さんであることを示していたが、それ以外はまぎれもなく赤ちゃんだ」

 真太郎は、自分のふとももに残っている火傷の跡を思い起こした。確かに、幼い頃に負った火傷だと聞かされていたが、自分自身にその記憶はない。

「真一さん? 親父のことじゃないのか。俺が、真一さんなのか」

 そうだとしたら、行ったことのないはずの場所が夢に出てくる理由の説明はつく。まぎれもなく、自分自身の記憶なのだ。とすると、ずっとその夢の中で隣にいた女性というのは……。真一は、その場にうずくまる他なくなってしまった。


「夢を見たわ。おかしいね。父の隣で、カーペンターズを聞いているの。私は小さな子供じゃなくて、父と同じくらいの年齢なの」

 翌朝、病室に行くと、美奈子は目を覚ましていた。

「それって……」

「夢よ、あくまでも。父は亡くなる前、いつまでも私のことを愛してるって言ってくれたわ。そして母を知らないで育った私は、あなたと一緒にいたことで、母親になれた。そう思うのよ」

 やはり薬の影響で混乱しているのか。それとも、単なる夢の話をしているのか。けれども、日記を読んでしまった真太郎にはどちらとも思えなかった。美奈子もまた、赤ん坊に戻ったことがあるということなのか。母を知らない、と言っていた。それは、早くに亡くなったからではなく、美奈子自身だったからに他ならないのではないのか。自分が父を知らなかったように。

「母さん、俺は」

 真太郎は頭を抱えた。真一としての記憶はほとんどない。しかし、もし自分が真一なのだとしたら、そんな自分のことを美奈子はどんな思いで見ていたのだろうか。

「ごめん。何も知らずに美穂を連れてきて。どれほど傷つけたかと思うと」

「いいのよ。確かに、はじめは私も少しはショックだった。でもね、トマムに行って、思ったの。幸せだなあって。あなたが幸せそうにしている姿を見ることができて、それだけで私は幸せだなあって。本当よ。そしてあなたは、ずっと一緒にいるっていう約束を、ちゃんと守ってくれた。はっきり言えることはね。私はあなたを愛しているっていうことよ」

 真太郎は何も言えずに美奈子の、枯れ木のようになってしまった手を握った。

「お義母さんがね。あなたのおばあさんが、言ってたの。何をするかではなくて、誰と過ごすのかということが大事だってね。私はあなたと一緒に生きて来られたことを、心から幸せだと思っているのよ。今度は私が赤ちゃんになるから、ちゃんと愛情を注いでね」

 美奈子は静かな声で、ゆっくりと、一言ずつかみしめるように言った。

「……母さん」

「ねえ、カーペンターズ、聴きたいわ。知っているでしょう、私の大好きな曲」

 病室ではあったが、真太郎はこっそり、自分のスマートフォンを取り出す。ヘッドホンを美奈子につけさせて、ネットで検索した曲を流した。


……ALL my best memories Come back clearly to me

(素敵な思い出が、はっきりよみがえる)

Some can even make me cry Just like before

(中には泣いてしまうようなものもある あの頃のように)

It’s yesterday once more

(過ぎて行ったあの日よ、もう一度)


 結局、真太郎と美穂の結婚式には、美奈子は出席することができなかった。式の数日前から昏睡状態になり、約一か月後、そのまま静かに息をひきとった。裕之や貴子をはじめ、多くの人々から祝福を受けた真太郎たちは、美奈子の分も幸せになろうと、決意していた。

「おかえりなさい。ねえ、真太郎。今日の健診で、赤ちゃんの性別、分かったよ」

 産婦人科の診察から戻った美穂が、真太郎が帰宅するなり、言った。どうやら、二卵性の双子らしいということは分かっていたが、その性別が今日分かったというのだ。

「どっちなんだろうなあ。女の子だったら君に似て、にぎやかでいいかなあ。でも男の子も楽しそうでいいなあ。迷うな。まあ、どっちでもいいかな」

 我ながら内容のない発言だとは思ったが、この場合、どうしようもない。多分、世の中の父親は皆同じような反応しかできないだろう、と思った。美穂はにっこりと笑い、たっぷり間を置いた後、

「発表しまあす。パパのそのぜいたくな迷いを、一気にかなえてくれるそうです。なんと男の子と女の子の双子です」

 と両手を広げて大げさなジェスチャーをしながら言った。

「そおかあ。ちょっと期待したりしていたんだけれど、嬉しいなあ」

 真太郎は自分の小鼻が膨らんでいるのを自覚しながら答えた。

「気が早いかもしれないけれど、名前、どうする。考えなくちゃね」

 美穂がジェスチャーを止め、手を後ろに組んで、再び問いかける。真太郎も、それまでの、やや浮かれた表情を引き締めるようにして答えた。

「うん。男の子と女の子の双子だったら、俺としてはもう決めているんだ」

「前向きに検討してみますので、一応聞いておきましょうか」

 あごをほんの少し突き出して聞く美穂に向かって、真太郎はひと呼吸おいてから言った。

「真一と美奈子」

「……おじいちゃんとおばあちゃんの名前ね。何か、思うところがあるのね」

 美穂はこんな時、真太郎の気持ちを大切にしてくれる。本当にありがたいことだ、と思う。そんなに複雑なことは考えてはいないさ。ただ、母さんは亡くなる前に、今度は自分が赤ちゃんになるから、と言っていた。今度こそ、二人は離れずに、一緒に生きていくんだ。それだけさ。真太郎がそっと美穂のお腹を撫でた。胎児が小さく身じろぎをしたのを感じた。まるで、二人がありがとう、と言っているようだった。



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目覚めの朝に 十森克彦 @o-kirom

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