第13話
美奈子はなんとか駆け込んだトイレに座り込むと、襲って来た痛みで息もできなくなった。まただ。このところ、痛みの頻度や強さが増して来ている。心配をさせてしまうので真太郎には見せたくない。車の中では避けようがなかったのでただ黙っている他なかったが、痛みが来そうになったらこうして席を外した方がよさそうだ。幸い、その前兆がなんとなく分かるので、対応はできそうだ。それにしても、この痛みはまずい。そろそろきちんと診てもらわなければ、と思った。
真太郎がこの旅行の計画をする中で楽しみにしていたことは、雲海を足下に見ることができるという山頂のテラスだった。このリゾートの魅力の一つだが、天候に左右されやすく、見られない日も結構ある。前週まではまだまだ残暑があり、よく晴れた日が続いていたというのだが、真太郎と美奈子が訪れる前日から急に冷え込んで天候も崩れていた。山頂に登るケーブルカーも動くかどうか微妙なところだと聞かされていたのだが、とりあえず動いてはいるということが分かったため、行くだけは行ってみるということにした。
ケーブルカー乗り場には、早朝にも関わらずどこにこれだけの人間がいたのだろうと思うほどの行列ができていた。
「大丈夫かい、母さん。寒くない?」
「寒いわよ。まだ九月だっていうのに、これじゃまるでクリスマスかお正月だわ」
「まあそれは言い過ぎとしても、確かに寒いよね」
真太郎はTシャツにウインドブレーカーを羽織っただけなので、冷気がしみ込んでくるようだった。美奈子の方はというと、薄手のセーターにダッフルコートを着て、マフラーまでしている。道理でたった二日の旅行の割にずいぶん荷物が多かったはずだ。それでも背中を丸めて、今にもしゃがみこみそうである。
「あなた今、大げさだって思ったでしょう。母さん寒いの、苦手なのよ」
不機嫌そうな美奈子を見ながら、実は寒さではなく、この行列が嫌なのだということに、真太郎は薄々気付いている。昔から、並ぶのが嫌いで、行列を見るだけで人気店に入るのをあきらめるというところがあった。
寒さに縮こまっているのではない証拠に、ケーブルカーの順番が目前になると途端にウキウキし始めた。
「ねえねえ、どれになるのかしら。母さん、あの色がいいわ。かわいいもの」
などと言いながらはしゃいでいる。実際に乗り込んでしまうと、先ほどまでの美奈子とはまるで別人になって、少女のように騒ぎ始めた。
「すごいわ、先は真っ白で何にも見えない。あ、ほら、ふもとがもうあんなに小さくなっているわよ」
という具合だった。
山頂に着くと、やはり雲は足下ではなく山頂全体を覆っていて、ほんの一メートル先が見えない。しかも、よくある霧とは違って、まるで小雨の降る中を歩いているようで、心なしか細かな水滴が肌に当たるようにさえ感じられる。実際、真太郎のウインドブレーカーの表面は、すぐに水玉が幾筋も流れるようになった。この分だと美奈子のコートは水気を吸い込んで大変になるのではないか。そう思って改めて美奈子の方に目線を移すと、先を歩いていたその姿が、濃い雲の中に溶けて見えなくなりかけていた。
「母さん」
真太郎は思わず声を上げた。そのまま美奈子が雲に包まれて姿を消してしまうのではないかと思ってしまったからだ。
「なに、どうしたの」
すぐに雲の中から、にこにこしている美奈子の姿が戻って来た。この状況を楽しんでいる、という様子だった。
「しんちゃん、びっしょりじゃない」
真太郎の姿を見て、美奈子は吹き出した。そう言う美奈子も、髪と言わずまつげと言わず、霧吹きでもかけたように水滴がびっしりとついている。雲の水分がそう言う形で付着したものだろう。
「母さんもね」
そう言うとなんだかおかしくなって、二人はお互いの顔のを見合わせてひとしきり笑った。水滴は拭ってしまうのが勿体無い気がしてそのままにておいたが、すぐにそれぞれが大きくなり、おおきな水玉になって流れ落ちて行った。
北海道への旅行から戻ってしばらくして、美奈子は入院することになった。念のためにと勤務先の病院を受診したところ予想以上に悪かったようで、すぐに入院をするようにと勧められたというのだ。
美穂との結婚式の準備に追われていた真太郎は、慌てた。つい最近、北海道に行って来たばかりなのだ。入院するほど体が悪いとは思ってもみなかった。少しはしゃぎ過ぎて疲れたのか、あるいは精々、急に寒いところへ行ったので風邪でも引いたのでは、というくらいに考えていた。
「いつから具合悪かったんだい。無理しちゃだめじゃないか」
連絡を受け、とりあえず当面必要な着替えや洗面用具など電話で聞いたものをかき集めて美奈子の入院した病室を訪ねた。
「悪いわね、しんちゃん。大したことはないんだけれど、念のために検査しておこうかって先生がおっしゃるから」
美奈子は笑顔でそう言ったが、顔色はいつになく白く、体調が良くないということをあらわしていた。ちょっと病院に行ってくるから。そう言って家を出たのは今朝の話だ。
「まあ、ちょっとは休んだらってことだろうね。旅行に行くために直前までずいぶん遅くまで働いていたようだし。いい機会だからゆっくりしたらいいさ」
「そうね。本当のこと言うと、ラッキー、これでさぼれるって思った節もあるのよ」
冗談とも本音ともとれない発言を聞いて、真太郎は小さくため息をついた。やれやれ、入院でもしなければゆっくりできないとは、それはそれで不健康なことだ。
自身の出勤時間もあったので、一旦家に戻った真太郎は、そういえば、母のいないこの家に一人でいるという記憶がほとんどないということに気付いた。母はいつも大急ぎで帰ってきていたし、休みの日には必ず一緒に出かけた。働きながら育ててくれたのに、決してひとりぼっちにはしなかった。考えてみれば、それはとても偉大なことだと思った。そして逆に、もうすぐ美穂と結婚して自分が出て行けば、この家に独りきりになるはずの母のことを思った。美穂の誕生日に、三人で食事をした。直前にプロポーズをし、その報告と紹介も兼ねて招待した美穂のことを、母は喜んで迎えてくれていた。結婚してもできるだけ一緒に帰ってきて、あんな風に三人で時間を過ごすことができればいいのだが、と真太郎は考えた。
それにしても、慌てて荷物を取り出して行ったために、特に母の部屋は空き巣が入った後のように散らかってしまっている。せめて出勤前に少しでも片付けてようと思って部屋に入り、開けっ放しになっていた衣装ボックスに散乱した衣類やタオルなどを簡単にたたんで、というより丸めて放り込む。それらを片付けようとして押し入れを開けると、引っ張り出さなかった衣装ボックスがふと目に留まった。他のボックスとは違って、中にはアルバムや手紙の類が仕舞われてある。
「アルバム、か」
真太郎は見た覚えのない表紙に、どきりとした。自分のものはたくさんあったが、母のアルバムなど、こんなところに仕舞ってあることすら知らなかった。
自分の知らなかった父や母の若い日の姿が見られるかもしれない。そんな誘惑をぐっと抑え込んだ。時間もないし、第一母が仕舞ってあるものを勝手に見るのはフェアではない。明日にでも片付ける際に見つけたと言って、閲覧の許可をもらおう、と思った。
その夜、仕事を終えて帰宅した真太郎は、北海道旅行の夢を見た。なぜかレンタカーではなく、電車に乗って移動している。だからはじめはそれと分からなかったが、車窓から見える広やかな山とすそ野に広がる草原の景色は同じだった。リゾート内の白樺や巨大な蕗を見ながら散策をし、シーフードに舌鼓を打つ。いつも見る夢と違う点は、見覚えのない景色ではなく実際にほんの最近行った場所なのだが、いつもと同じように、一緒にいる女性の、顔だけは見えなかった。
ホテルのブライダルサロンは何度来ても気恥ずかしく、落ち着かない。真太郎としてはこじんまりと済ませてしまいたいところだったが、美穂の家族のことも考えればそうもいかない。ここ数か月間の美穂とのデートはほとんどが結婚式の打ち合わせに当てられることになっていた。真太郎の側にこだわりはないので、美穂の希望する形で決めればいいと思っているのだが、なんでも無条件に同意していればよいというものでもないらしい。意見を言わなければ言わないで、
「どうでもいいと思っているんじゃないの」
と不機嫌になってしまう。きちんと関心を持って、真剣に考えているということが伝わるように、
「俺はこう思うな」
とか、
「これはこっちの方がいいんじゃないか」
などそれなりに意見を言い、かつ美穂の希望の方向で最終的には合意する、という形を整えていかなければならない。なかでも一番苦労したのは、衣装選びである。正直なところ、真太郎には違いがあまり分からない。最終的には試着してみて比べるので、美穂が試着をしている間は、真太郎は一人で待たされることになる。これがまた、試練の時間だった。
最終的に絞り込んだものをもう一度だけ試着して決めるということだったので、いつもよりも着替えの時間がかかっている。ブライダルサロンのテーブル席に一人取り残された真太郎は、出されたコーヒーを味わうゆとりもなく、カップをもてあそびながら居心地の悪さと格闘していた。とりわけ、今日は結婚式のことをあれこれ考える気持ちのゆとりはない。間に合うのだろうか。それが目下のところ、真太郎の頭を占めていた。
「山田さんの息子さん、だね。ああそうか、君があの時の。大きくなったものだな」
小坂と名乗った初老の医師が、半ば白くなった髪をかき上げながら、目を細めて言った。
「ご存知なんですか」
「君がまだ赤ん坊の頃にね、自宅で転んで口の中を切ったというので、夜中に救急で来たんだよ。君のお母さんが連れてきたんだが、相当慌てていてね。口の中なんて、よほど大きな傷でなければ、処置のしようはないんだが、プロの看護師も自分の子のこととなると、動揺するんだなってからかったものだ。そのもちろん、君自身は覚えていないだろうけれど」
その話は母から聞いた覚えがある。そんな話を持ち出すということは、この人がその時の当直医だったのだろうか。検査結果の説明をするので、という連絡が入り、真太郎が通されたのは美奈子の入院している病棟ではなく、外来の診察室だった。美奈子も一緒に病棟で聞くのかと思って来たのだが、そうではないらしい。それがあまり好ましい状況ではなさそうだということは、真太郎にも想像できた。
「その山田さんも今やベテランの看護師長で、息子はこんなに立派になって、時間が経つのは早いもんだな。師長は……君のお母さんは頑張り屋さんだからな。それなりに痛みがあっても、我慢していたんだろう」
小坂医師は白衣の襟元を触りながら、足下を見ていた。明らかに、言いづらい内容の様だった。真太郎は緊張しながら、先をうながそうとした。
「先生……」
真太郎の言葉に促されたのか、顔を上げて真太郎と目を合わせ、口を開いた。
「すい臓にね、腫瘍がある。検査の結果、悪性だった。転移がいくつもあって、手術もできない。いわゆるステージ四という状況です」
にわかに、言葉の意味が理解できなかった。つい最近、旅行を楽しむほど、元気だったのだ。決して冗談ではないということは、小坂医師の表情の硬さが物語っていた。
「これからは、痛みのコントロールをしながら生活の質をできるだけ保ってあげるという治療をしていくことになります」
親しげに話してくれていたのが冗談ででもあるかのように、その言葉は丁寧で声は穏やかで、口調はなんら感情の抑揚を感じさせない、冷酷なものだった。
「母は、知っているんでしょうか」
かろうじて真太郎が尋ねると、小坂医師はもとの親しげな口調に戻って言った。
「まあ本来は、本人に伝えるんだがね。内容が内容だし、同僚に伝える覚悟が決められなくて、君に来てもらったんだ。情けない話だが、三十年近く一緒に働いていると、なかば身内みたいになっていてね。どうしても感情が先に出てしまう。どんな風に伝えたらいいのか、意見が聞きたい」
三十年近く。つまり自分が赤ん坊の頃から今に至るまで、病院という職場の中で苦楽を共にしてきた同僚。そう言えば、外科医は身内を切ることはできないと聞いたことがある。どこかで距離をとらなければ、客観的に関わることができなくなってしまうということは、なんとなくだが想像できる。自分の目には母としての姿しか見えていなかったが、ここには自分の知らない、看護師として働いてきた姿があったのだ。そしてそれを、身内のようにとらえてくれている人がいる。
「そういうことでしたら」
真太郎は小坂医師をまっすぐに見て言った。いくら身内のような深いつながりがあると言っても、息子である自分とは比べようもない。本来ならば、小坂医師の言い分は矛盾しているものだが、真太郎はあえてこれを受け止めることも、息子としての誇りだと思った。
「自分の方から伝えてみます」
小坂医師は何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉が見つからなかったのか、あるいは何を言うべきでもないと思ったのか、すぐに固く引き結び、しばらく目も閉じて沈黙をした。たっぷり数分そうした後に、小坂医師は真太郎に向かって深々と頭を下げた。
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