第12話

 翌月の美穂の誕生日は、約束通り真太郎は料理を用意した。美奈子が気を遣って出かけようとしたが、引き留め、三人での食事にした。そしてその食事の終わりに真太郎は、美穂を見つめながら言った。

「美穂、俺の料理を毎日だって食べたいって言ったよな。でも、毎日は無理だ。君の料理も食べたいんだよ。交替で作るっていうのでいいかい」

美穂は少しだけ驚いてから、

「いいよ。教えてくれるんだったらね」

 と答えてディズニーランドのキャストのような笑顔で笑った。ただし、その目は見る間に真っ赤になっている。突然の展開に唖然としながら二人の顔を交互に見ていた美奈子に、

「そういうことだから、母さん。いまさらだけど、新しい家族、よろしく」

 と真太郎は続けた。普通なら、プロポーズというのは二人だけの場所で行うものだろうけれど、新しい家族の話を美奈子抜きにはできない。それが真太郎の出した結論だった。


それからの一年は、目まぐるしく過ぎた。結婚式の日取りや会場決めから始まって、新居や新婚旅行のことも用意しなければならない。そして、そんな目まぐるしい中で、真太郎は美奈子の希望した親子での旅行も約束通りに実行した。美奈子は北海道を希望した。新婚旅行で来た思い出の地なのだという。

新千歳空港に到着し、レンタカー会社のカウンターに向かった。カウンターの付近は静かで、どちらかというと閑散とした雰囲気があるくらいだったが、昼食を食べてから出発しようと考えて少し外れると、土産物や食べ物屋だけでなく、様々な店舗があるので一種のショッピングセンターのようになっていた。

「さすがに北海道だね。どこに入るか迷うくらいだ」

と真太郎が感心しながらきょろきょろと見回している。美奈子としても、かつて訪れた時の記憶は遠くに薄れてしまっていることもあり、すっかり様変わりした雰囲気に、圧倒されて軽いめまいを覚えるほどだった。急ぐ旅でもないが、これから移動するということもあるので、とりあえず空いていそうな手近な店に入って、海鮮丼を注文した。気軽に入れそうな店だったし、値段も安かったので、正直なところそんなに期待していなかった。一応メニューに写真が載っているが、そういうものは見せるために少々豪華めにしてあるに違いない。けれども、出てきたものを見ると、逆に載せられている写真以上に立派に盛り付けてある。これだけのボリュームがあれば、東京だったら倍以上はするのではないかと思った。

高速道路に乗る前に、せっかくだからちょっと寄って行こうよ、と真太郎が道の駅に乗り入れた。

「道の駅って、まだ走り出したばっかりじゃない。母さん、トイレはないわよ」

「トイレ休憩ってわけじゃないよ。ガイドブックに載ってたんだ、ここの道の駅の、あれだな、ほら。水族館があるらしいんだ」

真太郎が指した方向に、道の駅の建物とは少し離れて、サケのふるさと千歳水族館と書かれた看板が見えた。そんなに興味を引かれたわけではないが、真太郎がわざわざガイドブックを買って事前に下調べをしていたらしいことが嬉しかった。外からはそう大きな建物には見えなかったが、中に入るとそれなりの広さがある。

「淡水魚ばっかりの水族館なんて、珍しいよね」

 真太郎が感心しながら、大きな水槽に見入っている。結構高い天井まで、壁一面のガラスの向こうには、おびただしい数の魚が銀色に光りながら泳いでいた。なんとなく似たような形の、見たことのあるような姿が多いのは淡水魚だからだろうか。そういえば、渓流釣りが好きだった父が、時々出かけては、こんな感じの魚を釣って帰ってきたことを美奈子は思い出した。次の展示室に移ると、天井は初めの部屋ほどに広くはなく、小ぶりな水槽がたくさん並んでいた。奥の方には仕切りの低いプールのような水槽が設置されていて、子どもたちが群がっている。近寄ってみると、水中に手を入れてチョウザメに触れることが出来るようになっているらしい。真太郎は子どもたちに混じって、腕をまくってその水槽に手を入れた。

「冷たいなあ、この水。あ、来た来た。わあ、確かにサメ肌だ。本当にざらざらしてるんだな」

 はしゃぐ真太郎を見て、美奈子は思わず目を細め、いくつになっても、子どもなんだからと小さくつぶやいた。それから美奈子は、もう一つの言葉を胸の奥で繰り返した。そう、いくつになってもあなたは、私の子どもなのよね。

「母さんも触ってごらんよ」

 真太郎がそう言って美奈子を見たが、美奈子は心の中で繰り返していたその言葉を真太郎に聞かれたのではないかと思ってドギマギしてしまった。

「わ、私はいいわよ」

 後ずさりながら固辞した。正直、チョウザメに触りたいとも思わない。下がっていくと壁際に小さな別の水槽があって、やはりそれも手が入れられるようになっているようだ。水槽にかけてあるパネルには「ドクターフィッシュ」と書かれていた。

「これってもしかして、肌の角質を食べてくれるっていう?」

 何かのテレビ番組で観たことがある。

「うそ、これ本物? こんなところにいるものなの?」

 今度は美奈子の方が、興奮した。

「確かヨーロッパかどこかの魚よね。こんなところで見られるとは思ってなかったわ」

 言いながら水槽を上から覗き込み、恐る恐る、手を差し入れる。めだかくらいの小さな魚がたちまち群がってきた。

「きゃああ、ツンツンしてる。くすぐったい」

 大はしゃぎである。しばらくは足をばたばたさせながら手を差し入れて耐えていたが、まるで息を止めて水中にもぐっていたのが耐えられなくなって顔を上げるように、手を引き抜いて大きく息を吐く。それでも水槽をじっと見てから再び指先だけを差し入れ、やはり素潜りの様相でじたばたしてから今度はもう少し短い時間で手を引き上げた。

「本当につっつくのね。こんなにすぐに群がってくるとは思っていなかったわ」

 とやや興奮気味に言った。真太郎としては、はしゃぐ母の姿が妙に嬉しくて、

「やれやれ、どっちが子どもなんだか」

 などと言いながら、笑いをかみ殺した。その部屋を出ると入り口のホールが見えてきたので、ここで終わりかと思ったが、手前に通路がもう一つ出ている。

「千歳川の川底が見られます」

 というような貼り紙があった。手前の展示でチョウザメやドクターフィッシュを触ることができたので二人とも満足しており、その先の展示にはそんなに期待していなかった。順路と記されているのでせっかくだから一応通ってみようというほどのつもりでそちらの方に進んでみた。廊下の一面が紺色になっていて、川のせせらぎを模したものと思われるライトが床に揺らめいていたが、その他にはこれといった展示物もなく、真太郎としては正直なところ、

「なんだこれ、肩透かしだな」

 と思った。もう見るものもないだろうからと、さっさと歩いていくと、その通路を抜けた先が再び広いホールになっていた。天井はこれまでよりもむしろ低いくらいだが、長細い感じになっていて、少し幅広の廊下という感じである。ただ、奥の壁一面にガラスがはめ込んであって、水槽になっていた。

「まだ展示があるんだね」

 言いながら真太郎が水槽に近づく。美奈子の方は、そもそもそんなに強く関心を持っているわけでなかったし、最初のホールにあった大水槽のようなスケールもないし、先ほどの触れることができるような変わった趣向もなさそうなので、そのまま通り過ぎるくらいでいいか、と思っていた。真太郎が水槽に張り付いたように見入り始めたのである意味で仕方なく、隣に並んで覗き込んでみた。

「思ったより、大きな水槽ね。結構奥行きがありそう。向こう側が見えないわね」

 見た感想を素直に口にしたが、真太郎はその水槽に張り付くようにしてのぞき込んでいる。美奈子は少々戸惑いながら、何がそんなに面白いんだろう、と見回しているうち、気付いた。

「もしかしてこの水槽って、本物の川なの?」

「そうみたいだよ」

 真太郎が答えるのとほぼ同時に、後に立っていた、ボランティアの案内係らしい男性が近寄ってきて、

「これは、千歳川の中です」

 と付け加えた。

「ええっ、そうなんですか」

 美奈子は驚いて、改めて水槽をのぞき直した。そう言われてみれば、ガラスの向こう側には見渡す限り水が広がっていて、サケの姿は見えるが、それ以外の人工の構造物らしいものがない。それに、頭の上くらいのところに水面があって、奥行きの広さの割には高さがない。本物の川の中なら納得はできる。でもこんなところにこんな川があるなんて。車で移動してきて、道の駅に停まったのだから、気付かなかった。

「カメラで撮った映像じゃなくて、本物の川ってことですよね」

 我ながら、おかしな質問をしていると思ったが、美奈子は素直に驚いていた。

「そうですよ。今はまだ、数が少ないですが、もう少しすれば産卵の季節で、大量のサケが集まってくるんです」

 男性はまるで自分のことのように嬉しそうに話している。ボランティアをしているくらいだから、ここのことを誇りに思っているのだろう。

「すごいね」

 真一は川の中に見入ったまま、感心したように言う。

「すごいね」

 美奈子も、心から賛同した。入り口の大水槽も見応えがあったが、本物の自然の中にかなうべくもない。

「いや、恐れ入りました。北海道、恐るべしですね」

 そのボランティアの男性の方を振り返って、目を輝かせながら真一が小さく頭を下げた。


「いつの間にあんなの、と思ったけれど、考えてみたら母さんたちが新婚旅行で来た時には空港から電車に乗っての移動だったから、道の駅なんて知るはずはないよね」

 助手席に収まって入り口に置いてあったパンフレットを見返しながら、美奈子が言った。

「そうだね。せっかくだから何かないかな、と思って寄ってみただけで、正直そんなに期待してなかったんだけど、なかなかのスケールだった」

 真太郎も、率直に感激していた。昼食と言い水族館と言い、到着して早々から期待以上の旅行になっている。結婚の前の母との旅行が充実していると、自分たちの結婚も祝福されるように思えて、嬉しかった。

 千歳の市内を抜けて道東自動車道に乗り、帯広方面に向かう。特に北海道らしい特徴は見当たらなかったけれども、地名が独特で、なんと読むのだろうと思うような表示がいくつもあった。道路の雰囲気は変わらなくとも、青地に白い文字の、やはり見慣れている道路表示の看板に、帯広方面だとか札幌方面、という文字を見ると、なんだかわくわくした気持ちになる。

 美奈子は助手席に座って窓の外の景色を見ながら、聞き覚えのある地名の表示を見ては「あ、ここって聞いたことがあるわ」

 とか、

「やっぱり北海道って広々してるわね」

「見て、牛がいるわよ」

 などと言ってはしゃいでいたが、長いトンネルをいくつか抜け、しばらく走っていると、急にうつむいて黙り込んでしまった。真太郎が気になって横目で見ると、脇腹のあたりを抑えながら顔をしかめている。

「母さん、どうしたの」

 驚いて声をかけたが、返事もできない様子だった。しかし、しばらくすると

「ちょっと車に酔ったかもしれないけど、もう大丈夫」

 と言って、再び顔を上げ、上機嫌の様子で景色をながめはじめた。具合の悪そうな様子というのはほとんど見せない母なので少し心配したが、大丈夫そうだ。

 占冠を過ぎていくつかのトンネルを抜けると、両側に広がる山間が急に広やかになった。そのまま見晴らしのいい景色の中をしばらく走ったところで、一帯に広がるなだらかな緑の丘の中腹に、立ち上がっている二つの塔の姿が現れた。美奈子は軽くはしゃいだ。

「見覚えあるわ、あのタワー。あのホテルに泊まったのよ、お父さんと」

 見渡す限りの緑の中で他にぽつりぽつりと点在している建造物や木々と比較すればかなり大きなもののようだ。縮尺がおかしいのではないか、と錯覚するほど、浮き上がって見える。

「本当は海外にも行ってみたかったんだけどね。仕事そんなに休めないし、それだったら短くても満喫できるようにって、奮発してここにしたのよ。だけどその後、倒産したって聞いてね。新婚旅行の思い出のホテルだから、寂しいなって思ってたの。運営会社が変わって新しく運営されているっていうことを知って、できたらもう一度来てみたいなあって思ってたのよ。夢がかなってよかったわ」

 美奈子が少し遠くを見る目をしているのが分かった。本当は、父さんと来たかったんだろうな、きっと。真太郎はそう思うと母のことを哀れに感じたが、口には出さなかった。

 トマムのインターを降りると、きれいに整備された道路の際まで緑があり、いかにも山のふもとという雰囲気で、建物はあまりない。リゾートというからには土産物やカフェなんかでもう少しにぎやかなイメージを勝手に持っていたのだが、ぽつりぽつりと見えるのは民家ばかりのようだった。他に車も見えない道をしばらく走ると、少しだけ広々とした交差点に出た。手前にあるのは学校らしい。

「こんなところに学校があるんだね。見たところ、住宅地が近くにあるわけでもなさそうだけれど、子ども達はどこから通ってくるんだろう」

「そうねえ。ねえ、さっきから気になってるんだけど、あの赤い矢印、何かしら」

 美奈子が指差した先には、確かに赤い矢印が、等間隔に並んで道路の端の方を指している。

「ああ、あれはね、道路の端を示しているそうだよ。雪で見えなくなっちゃうからね」

 ガイドブックに確かそんなことが書いてあったな、と思い出しながら真太郎は、今更ながら北海道に来てるんだなあ、と実感した。旅行が決まってから、結構ガイドブックを見て予習をしていたということもあるが、以前から北海道には来てみたいと思って関心を持っていたからだ。

「なるほどねえ、そうなんだ。電車の旅もいいけれど、車で走ってみないと分からないこともたくさんあるわね」

「まあ、逆もそうだろうけどね。車だと電車のことは全然分からない。どんな駅弁があるんだろうか、とかね」

「まだ食べる気なのね」

 美奈子は目を丸くして、少女のようにあどけない笑顔を見せた。

「あ、ここだな。トマムリゾートって書いてある」

 小さな赤い看板が立っていた。名高いリゾートだが、目印となるものはその他にはない。看板が所狭しと並んでいるリゾート地を想像していた真太郎は、そっけないとさえ言えるささやかな表示を見て、本物の高級リゾートって言うのはこんなものなのかもな、と何となく思った。

「なんだかゴルフ場の入り口みたいね」

 美奈子がその風景を見ながら言う。

「母さん、ゴルフなんてしてたっけ」

「いいえ、やったことないわよ」

 今更何を、とでも言う具合に不思議そうな顔で美奈子が答えた。

「いや、ゴルフ場みたいって言うからさ。行ったこと、あるのかな、と思って」

「行ったことはないわね。そういえば。イメージよ、イメージ。こんな感じじゃないかなってね」

 なるほど、真太郎もゴルフはやらないので知らないが、何となくイメージ、というのは分かる気がする。それにしても、広い。確かに敷地内に入った感じはあるのだが、なかなか建物も見えてこないし、他の表示もない。大丈夫かな、と思ったころにようやく、場内の案内表示が見えた。なるほど、これは相当だな。敷地の広大さを想像して、舌を巻いた。

「あ、あれだね」

 高速道路から見えていた大きなタワーが見えてきた。

「あ、でも違うな。ザ・タワーって書いてある」

「それでいいんじゃないの」

「母さんたちが泊まったのは、タワースイートホテルだろ。今はリゾナーレって言って、もう少し奥にあるんだよ。このタワーは後から建ったものさ」

 恐らく美奈子が新婚旅行で来たと言っていた頃には、ガレリア・タワースイートホテルという高級ホテルがメインだった。その後、運営会社のアルファリゾートトマムが倒産して、星野グループが経営に乗り出してからこのザ・タワーが建てられたと書いてあった。思い出のホテルに泊まりたいのだ、という美奈子の希望を叶えるために、真太郎なりに調べておいたのだ。

 とはいえ、目的のホテルまで車だとあっという間だった。最初に見たタワーは緑や赤のタイルが散りばめられたカラフルなデザインだったが、こちらの方は茶色をベースにした落ち着いた雰囲気がある。

「母さん、見た目は全然違っているけど、こっちでいいんだろう。覚えていないのかい」

「ううん、そう言えばこんなだった気もするけれど、はっきり言って外観はよく覚えていないわ」

「なんだよそれ、いい加減だなあ」

 真太郎は苦笑いした。これだけはっきり見た目の雰囲気が違うのだから、思い出のホテルと言うなら分かりそうなものだが、パンフレットやポスターなどでよく見かけるのが先のタワーの方なので、気付かないうちにイメージが上書きされてしまったのだろう。

 ロビーは広々とした空間というよりも、大きなソファが高低差をつけて配置されてあり、他の客の様子を気にせずに貸し切り気分でゆったりできるようになっている。真太郎は感心して言ったが、美奈子は

「やっぱり覚えていないなあ。こんなだったかしら」

 とやや心細げな表情をしている。そう言えば、ここはリニューアルされたのだから、様子も変わっているのかもしれないということに、真太郎はようやく気付いた。しかし、チェックインを済ませて部屋に入ると様子は一転し、はしゃぎ始めた。

「ああ、この見晴らし、覚えているわ。ここに間違いない。そうそう、ここって全室スイートなのよね」

 なるほど、部屋の造りや景色は変わらないからな。真太郎も妙に納得し、安心した。結構値が張るところを、思い切って予約してよかった。このまま思い出せずに釈然としないままで帰ることになったら報われない。それにしても、新婚旅行で来たという美奈子が懐かしいというのは分かるが、真太郎自身も何故だか沸き起こって来た懐かしさに似た感情に戸惑った。やはり、パンフレットなどで見ていたからだろうか、どこかに既視感があるような気がした。

 ひとまず荷物を置いて落ち着いた後、二人はホテル内を散策することにした。

「レストランとか最初に見たもう一つのホテルの方まで、つながっているのね」

「行ってみるかい」

 美奈子が見つけた表示の先には、渡り廊下らしい空間が広がっていた。ガラス張りになっているため、周囲の様子がよく分かる。タワー周辺の整備された庭のエリアを抜けると、白樺の原生林の中を歩く形になっている。木々の間に生えているのは蕗のようだが少なくとも関東近郊ではまず見かけない、巨大な代物だった。

「まるで違う惑星にでも来たようだね」

 真太郎はまるでSF映画の一場面にいるかのようなその景色に、やはり既視感を覚えながら言った。真太郎の声を聞いて、少し前を歩いていた美奈子が振り返った。

「そうね。なにかの映画みたいね」

 微笑みながらそう言う美奈子の姿が、見覚えのある景色にぴったりとはまり込んだ。確かに、見たことがある。確かにこの景色で、同じように振り返る女性がいたという夢を見た、はっきりとした記憶があった。真太郎はふいに、繰り返し夢に出てきた女性の正体が美奈子だったのではないかと思った。その瞬間、これまでどうしても見ることができなかった夢の中の女性の顔が、美奈子のそれに置き換わっていくのを感じた。

 以前読んだ心理学の本の中で、男性の根本的な女性像は母親が原型なのだ、というような説を読んだような気がする。確か、エディプスコンプレックスと言ったっけ。こんなことってあるんだな。そう考えると、理解できる気がする。真太郎は居心地の悪さを感じながら、そっと頭を掻いた。

「しんちゃん、ちょっとごめんなさい」

 振り返った美奈子が、そのまま真太郎の方に突進するように近づいてきた。不意をつかれた形になって、どぎまぎしている真太郎を尻目に、美奈子はロビーを通り抜けて、奥にあるトイレに駆け込んでいった。

「びっくりするじゃないか」

 その背を見送りながら、真太郎は一人でつぶやいた。

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