第11話

「うん、結構いける。ちゃんと食べるところもあるんだ」

「おいしいね。やっぱり食べ物のことは真太郎だね」

 パスタを口に運びながら、美穂も満足している。アトラクションを回るのに時間がもったいないからと、食事はホットドッグにコーヒーでいいのでは、と言っていたのだが、コース料理というわけにはいかないにせよ、せっかくだからレストランに入ろうと真太郎が主張した。遊園地の中ということなので、正直なところ、そんなに期待はしていなかっただけに、ちょっと感動である。

「やっぱり、おいしいものが食べられるって、幸せだもんね」

「食べることって、大事だよ」

 言いながら、真太郎は店内の様子を見ていた。職業柄、食べに来るとどうしてもその店のことが気になってしまう。

「味もさることながら、店の雰囲気も大事だよな。パーク内の店舗だから、建物も思い切ったデザインにできるし、窓の外の景色もおしゃれな街並みになっているしね」

「真太郎のお店、ディズニーランド内に開いたら?」

 美穂が冗談とも思えない真剣な表情で勧める。自分の店を持つということが真太郎の夢だが、恐らく美穂も手伝うつもりでいる。短大を卒業して商社に就職したが、数年前に辞めて今はファミリーレストランのアルバイトをしている。本人は、商社なんて自分の性に合わなかったから、と言っているが、いつか一緒に店を開くための準備のつもりだろうと、真太郎は気付いている。

「そしたら通勤でディズニーランドに通えるものな」

「それ、すごくいいアイデア。それでいこうよ、大賛成」

「そんなことしたら、美穂は仕事にならなそうだな。気がついたらアトラクションに乗りに行くだろう」

 想像するとおかしくて仕方がない。

「でも、真太郎にとってはそれほど、なんでしょう。だったらお店の方は大丈夫よ」

 確かに、美穂ほど遊園地が好きというわけではない。十年間も付き合っていながら、ディズニーランドに来たのは今日が初めてというのも、真太郎がそれほど積極的に行きたいと思っていなかったということが影響している。今回は美穂が、二人が出会って十年の記念に、どうしても行きたいと希望したからようやく実現したようなものだ。

「俺だけを働かせようっていう魂胆か。まあ、この年になって遊園地大好きって言うのもさ、ちょっとひくだろう。でもそう言えば、俺の両親が初めてデートをした場所もここだったって聞いたことはあるな」

 真太郎は自宅に置いてあるミッキーマウスのぬいぐるみのことを思い出しながら言った。

「そうなんだ。それって普通に聞いたの? 私、親のなれそめなんて聞いたことないなあ」

「結構詳しく話してくれたな。お袋は看護師として働いていたところに親父が入院してきてさ。お互いディズニーが好きだって分かって、退院したら行ってみようよって話になったって」

「ドラマみたいね。ありがちだけど、意外とないって聞いたことあるわよ」

「確か、同じ部屋の患者さんが応援してくれたっていうか背中を押してもらったみたいな話だったな。基本的にはお袋が一目ぼれだったみたいな」

「そこまで話してくれるんだ。あんたの家、仲いいもんね、お母さんと」

「まあ、親一人子一人だからね」

「ごめん、言いづらいところに話、行っちゃった?」

 美穂が上目遣いに真太郎を見ながら、言った。真太郎が父親を知らずに育ったこと、しかも亡くなったのではなくて失踪したらしいということを知ってから、美穂は真太郎に気を遣って家族の話題を極力避けてきた節がある。流れで自らタブーだと決めていたらしい話題に踏み込んでしまって、分かりやすく落ち込んだ。心なしか、外はねさせていた髪までが元気なくしおれてしまったように見える。

「何度も言ったけど、家族のことで俺に気を遣わなくっていいよ。別に何も気にしていないし、特別だとも思っていない。当の本人がそう言っているのに変に気を遣うの、かえってよくないぜ」

 本心だった。母の美奈子の苦労を見てきて、父の真一に対するある種の腹立たしさはあるけれど、どんな事情があったのかも分からないので恨みようもない。しかし、美穂がしおれたままなので、真太郎は話題を変えることにした。

「ところでさ、来月誕生日だろ。なんか食べたいものとか、あるの」

 そうだ、誕生日。とっさに考えた話題にしては、ずいぶん大切なことを思い出したものだ。頭の中にいくつかのレストランを思い浮かべた。自身も開業を夢見ているだけに、あこがれている店がいくつかある。多少値が張っても、今年はちょっといいところに行こう。十年だしな。そこまで考えて、真太郎の中に全く違う思いが浮き上がって来た。十年、か。美穂は、恐らくは仕事までも真太郎に合わせる覚悟をしているに違いない。開業の方は本当に実現できるかどうか、時間をかけてもいいかもしれないが、美穂とのことはそろそろ本気で考えないといけない。

「私ね。一番好きなお料理が食べたいな」

「いいよ、言ってみて」

 美穂の顔が上がっている。しおれていたように見えた髪も、元通りしゃんとしてはねている。話題を変えることには成功したようだ。けれども、次の言葉はすぐには出て来ず、美穂はそのままでしばらく黙って真太郎の顔を見つめていた。躊躇するほど高級な店ということだろうか。それでも、いい。これまでとは違う大切な記念の日にするのだったら、それくらいの方が、覚悟を決められる。

「私ね、真太郎の作る料理が食べたい。それが世界一好き」

 今度は真太郎が絶句する番だった。どころか、呼吸をすることさえ、しばし忘れた。不意打ちとはこのことだろう。記憶にある限り、これまで美穂からこんな台詞を聞いたことはない。

「い、いきなりハードルが上がったな」

「でも、本当だもの。真太郎の料理を、毎日でも食べたい」

 毎日でも食べたい。それは明らかに別の意味が含まれていた。

「……なんていうのかその、ありがとう。じゃあ、来月は真太郎スペシャルコースを用意しようか」

「うん、楽しみにしている」

 美穂は嬉しそうに微笑んで、スープを一口、飲んだ。その頬がほんのり赤く染まっている。真太郎はその頬を見ながら、自身の耳にも血液が集まっていることを感じていた。まだ昼間だし、アルコールも飲んでいない。指摘されたらどう言い逃れようか、とくだらないことを頭の片隅で考えていた。


「ただいま」

 美穂を送り届けてから、帰って来た。予定通り夕食も食べてからの帰宅だったので、ずいぶん遅くになっている。母さんはもう寝ているだろうか、と思いながら、真太郎は小声で帰宅を告げた。室内はまだ電灯はついていて、母がまだ就寝していないことを示していたが、すぐに返事はない。風呂にでも入っているんだろうか。真太郎が靴を脱ぎ、そのまま自室に入ろうとした時、和室の戸が開いて、美奈子が顔を出した。

「しんちゃん、おかえりなさい。ちょっとうたた寝しちゃっててね。どう、楽しかった? 聞くまでもないか」

 いつもの笑顔だ。真太郎は足を止めて、そのままダイニングの椅子に腰かけた。

「あのさ」

 この際、話してしまおうと思った。タイミングを逃すと、言い出しづらくなったりするかもしれない。

「来月、美穂の誕生日なんだけどさ、ここで食事をしようと思うんだ」

「いいんじゃない。母さん、おいしいもの、作ろうか」

「いや、俺が作るんだ」

「なるほどね、素敵じゃない。でもどうしてそんなに深刻な顔をしているの」

 美奈子が少し首を傾げた。

「実はさ、その、結婚をしようと思っているんだ」


 本当に美穂なのだろうか。その迷いが真太郎の中にずっとあった。今朝もそうだが、少年の頃から、よく夢を見た。バーベキューをしている夢。ショッピングをしている夢。旅行を楽しんでいる夢。そこにいつも、同じ女性がいる。誰なのかは分からないし、景色などははっきりしているのに、何故か彼女の顔だけは見ることができない。しかしそれでも夢の中の真太郎はいつも幸せな気持ちに満たされていた。いとしさと切なさにあふれた夢。時には目覚めた時に涙を流していたことさえ、ある。一体あの女性が誰なのだろうか。考えずにはいられなかった。そして少なくとも、美穂とは別人であるということだけははっきり分かっていた。我ながら馬鹿々々しいと思いながら、それが長い間真太郎を迷わせていた理由だった。しかし今日、美穂は真太郎の料理が世界一好き、と言った。いや、言わせてしまったのか。自分ははっきりしたことを言ったことがないというのに、美穂は自身の思いのたけを、勇気を持って言葉にしたのだ。答えなければならない。そう思った。


 美奈子は言葉を失い、しばらく真太郎の顔を見つめた。最近、ますます真一に似て来た。真太郎は今年で二十八歳になる。真一が美奈子と結婚した時の年齢だ。しかし、今目の前にいるのは真一ではなく、真太郎だ。たとえば息子が父親に似るように、そっくりではあるが、真一ではなく、真太郎という確かに別の人間だった。

 そう言えば、真太郎が料理人になりたいと聞いた時も、同じように驚いた。真一とは違う、真太郎の人生が目の前にある。母として生きて来た美奈子には、それを応援するという以外に選択肢はなかった。

「母さん、突然でびっくりするよな。でも俺は真面目に考えているんだ」

「分かっているわ。美穂ちゃんはいい子よね。あなたのこと、母さんはいつだって応援しているんだから」

 そう言うしか、なかった。真一を忘れたことはただの一度もないし、戻ってきてくれたらと願わなかった日もない。けれども、真一が戻ってくるとしたら、それは入れ替わりに真太郎という人間がいなくなるということを意味する。美奈子はもはや、それを受け入れることができないほどに母だった。これからは、真一が戻ってくることをさえ、待たないし望まない。だから美奈子は、一度だけ、わがままを言ってみたいと思った。

「しんちゃん、あのね。母さん、あなたが結婚する前に、記念に二人で旅行に連れて行ってほしいの。いいかな」

 真太郎に否やのあるはずもなかった。


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