第10話

 広いアーケードを抜けるとラッパを逆さに伏せたような青い屋根がいくつも集まる建造物が、さらに青く光る空に浮き上がっていた。

「わあ、いい天気。シンデレラ城って青空に映えるよね。やっぱり、何度来ても最高だわ」

 確かに、視界一杯に広がる景色には、日常から全く切り離された解放感がある。もっとも、日常に不満があるわけではないが、たまにはこんな休日もいい、と真太郎は思った。周りにいる人々は自分も含めてみんなこぼれるような笑顔になっている。隣にいるこの人も……。隣にいる、誰だろう。セミロングの髪をポニーテールに結んでいかにも休日の遊園地という風だが、顔だけがはっきりしない。

 来場者を迎えるように、鐘の音が聞こえた。ピピッ、ピピッ、ピピッ。鐘にしては音が変だ。まるで目覚まし時計のような……目覚まし?


 真太郎はそこで目を覚まし、枕元に置いた目覚まし時計のアラームを止めた。

「夢か」

 実際にディズニーランドに行ったことはない。でも、まるで過去に行った経験を思い出してでもいるかのような、リアルな夢だった。いつものことだ。誰かと二人でいる。ただ、それが誰なのかだけが、分からない。もっとも、ディズニーランドについてはテレビや映画でもありふれている風景だ。記憶に残っていても不思議ではない。それに、今日のためにずいぶん下調べをしたということも、影響しているかもしれない。

 清原美穂とは高校時代からのつき合いだから、もう十年近くになるだろうか。その間、ただの一度も浮気をしたこともなければしようと思ったこともない。一途だったからというよりは、恋愛にそんなに強い関心を持っているわけでもないので、あえて他の女性を求めたいとも思わなかったというところか。もちろん、好きだという気持ちは確かにあるから、大切にはしている。

「おはよう。寝坊しないでよく起きられたわね」

 寝覚めのあまり良い方ではない真太郎が、ベッドの上でもたもたと着替えていると、美奈子がのぞきに来た。レストランで働いているため、基本的に昼前まで寝ていて、帰宅は深夜という日常なので、朝五時半というこの時間は真太郎にとっては早朝を通り越して、まだ深夜と言ってもよい。

「おはよう、母さん。母さんこそ、今日は休みだろう。こんなに早くに起きてどうするのさ」

「休みだからって、することは色々あるわよ。朝ごはん、食べていくでしょう」

「いや、朝は向こうで食べるよ。どうせ開園まで随分時間があるんだ。途中のコンビニでサンドイッチでも買って行くことになってるんだ」

 駐車場が混まないうちに着いておきたいということと、開園と同時に入って人気アトラクションのファストパスを取りたいということで、待ち合わせの時間を早くに決めていたのだが、もしかして母はそれに合わせて起きてくれていたのではないだろうか、と思った。

「あらそうなの。じゃ、コーヒーくらい飲んでいきなさいよ。せっかく淹れたんだから」

 せっかく淹れた、というからには今しがた起きたばかりということではない。もっと早くに起きて、準備をしてから真太郎のことを起こしに来たに相違ないのだ。やっぱりわざわざこちらの予定に合わせて起きていたのだ。頼んでないのに、という言葉が喉まで出かかったが、さすがにそれは呑み込んだ。まったく、過保護なんだからな。いくつだと思っているんだ、と日頃散々甘えておきながら、勝手なものである。

 ぶつぶつ言いながら起き出すと、ダイニングテーブルにはコーヒーどころかトーストにヨーグルト、サラダまでが用意されてあった。真太郎は天井を見上げて小さくため息をつきながら、立ったままでサラダを一息で口に押し込んだ。そのまま洗面所に行き、咀嚼しながらシェーバーを当てる。ひげを剃り終わると再びキッチンに戻り、今度はトーストをコーヒーで流し込むようにして食べた。トイレから出てきた美奈子がそれを見て何か言いたそうにしたが、あえてそちらを見ないようにして、とにかくヨーグルトも含めて用意されていたものを大急ぎでたいらげた。せっかくの母の早起きを無下にはできなかったし、それに料理人として食べ物を無駄にはできない。どうせ向こうに着く頃には少し時間も経っているだろうし、美穂の朝食に付き合ってサンドイッチを食べるくらいの余裕はまだある。

「料理人だからな」

 食べながら考えたことを思い切り端折ってそれだけ言い、着替えるために自室に戻った。ダイニングの椅子を引く音が聞えたので、母もこれから朝食を食べるのだろう。そう言えば、テーブルの上にはサラダとヨーグルトは二人分あったが、トーストは一枚しか置かれていなかったように思う。母さんはあれだけしか食べないのか。体の調子でも、悪いのかな。とりとめもなくそんなことを考えて、真太郎はすぐに今日の予定のおさらいを始めた。

 

 ダイニングに腰かけて、美奈子はしばらく、背中の痛みに耐えていた。このところ、時々こんな感じで急に痛みが来る。食欲もあまりなく、特に朝はサラダを少しとヨーグルトをなんとか押し込んでいる感じになっている。それにしても。料理人だから、か。大方、一旦食べないとは言ったが、食卓に用意されているのを見て気を遣ったのだろう。そんなところは昔から変わらないが、よりにもよって料理人になるとは思ってもみなかった。高校の三者懇談で卒業後の進路を尋ねられた時、料理人になりたい、将来は自分の店を持ちたいのだ、という真太郎の言葉を聞いた驚きは今でもはっきり覚えている。成績はいい方ではなかったが、卒業後は大学に進み、出版関係の仕事に就くものだと漠然と思っていた。開いた口が塞がらないとはまさにあのことで、しばらくは文字通り口をあんぐりとあけたままで真太郎の顔を凝視してしまった。担任の教師も驚いていたが、美奈子の驚き方があまりに大きいので、かえって冷静になったようだった。

「お母さんも随分驚いておられるようですが、真太郎くんはこれまで何もおっしゃっていなかったのですか」

「いえ、まったく」

ようやくそれだけを言うと美奈子は肩を落とし民数記23:13-26 ピスガの頂でバラクは再度イスラエルを呪おうとする。しかし主が彼に示されたのは祝福の言葉だった。その中に「ヤコブの中に不法は見出されず、イスラエルの中に邪悪さは見られない。」とある。直前に不平を言い、燃える蛇を送られたばかりなのだが、神様の前にはイスラエルはそのような存在とされている。贖いのみわざがその前提にある。恵みにより救われた私たちも、欠けだらけであっても神様の目には高価で尊いとされている。バラムにはその奥義が分からなかったので、イスラエルにモアブの女を送り込むことで、彼らから祝福を奪ってしまおうとしたのかもしれない。そのために彼はこの後殺される。御心を知らなければ身に滅びを招くことになる。た。真太郎が料理人を目指すということに何の異論もない。ただ、真一とは全く異なる進路を選ぼうとしていることが衝撃だった。成長すればいつか真一の姿になっていくのではないかとどこかで思っていた。

「子どもの頃から母の料理を見ていて、少し手伝わせてもらったりするうちに、料理って面白いなあと思うようになったんです」

 それが理由だというのだ。やはり、この子は真一さんではなく、真太郎という別の人間なのだ。今更ながらそれを突きつけられた気がした。美奈子としては元々そんなに料理が得意だったわけではないが、貴子の影響が大きかった。看護師の仕事をしながら真太郎の子育てをしていたので、差し入れを持って来てくれたり、手伝いに来てくれたりもした。その都度、作り方のこつを教えてもらったりレシピをもらったりしてきたのだ。

 真太郎は言葉通りに調理の専門学校に進み、料理の道に進んだ。


「それじゃあ、行ってくる。夕食は食べて帰ってくるから、母さんは先に休んでいてくれていいよ」

「分かってるわ。行ってらっしゃい。気をつけてね」

 小さく手を振って玄関で見送った美奈子は、一旦部屋に戻り、バルコニーに出た。ここからだと、ちょうど駐車場が良く見える。天井がユニオンジャックのデザインになっている真一の愛車が、穏やかに滑り出していくのが見えた。

 

 そう言えば、真一は車の運転ができなかった。付き合い始めたころ、バーベキューに行ったがその時も、大きなバーベキューコンロとクーラーバッグを抱えて、バスに乗り込んだものだった。

 真太郎は高校を卒業するとすぐに運転免許を取りに行き、給料を貯めてマイカーを手に入れた。その車をはじめてみた時の事はよく覚えている。

「随分かわいらしいのね、この車」

「ミニって言うんだよ。俺、昔からこれにあこがれていたんだよな」

「見たままの名前なのね。倉澤さんの車は五人乗りだって言ってたけど、これは何人乗りなのかしら」

 美奈子の周りには倉澤の他に不思議と車を運転する人間がおらず、比較できる対象はそれくらいしかない。倉澤は美奈子がプロポーズを断った後も変わらずに親切にしてくれており、真太郎にとっても親戚のおじさんのような存在になっていた。

「倉澤さんのはセダンだからね。でもこいつもちゃんと四人乗れるんだぜ。れっきとした普通車だしね」

「まあどちらにせよ、これで雨の日や荷物の多い買い物なんかの時も安心だよね」

「勘弁してくれよ。母さんの買い物のために買ったんじゃないんだけどなあ」

 

 真一の車を見送りながら、美奈子はそんなことを思い出していた。

「すっかり大人になったのね、しんちゃん」

 小さくそうつぶやく美奈子の目には、言葉にできない感情が滞っていた。


「ねえ、本当にこの道で合ってるの? なんだか舗装もぼろぼろだし、イメージと全然違うんだけれど」

 美穂が助手席で周辺を見渡しながら言った。

「ナビ通りだから、大丈夫だと思うんだがなあ」

 と真太郎は平然を装って答えるが、正直なところ、あまり自信はない。首都高速を浦安で降りてUターンして湾岸道路に乗った。すぐにでも見えてくるものだと思っていたが、予想に反してそれらしい建物や表示は一向に見当たらない。港湾部特有の、広々とした無骨な景色が広がっているだけだ。

「まあ、この辺り一帯が全てディズニーランドなんていうわけじゃないだろうから、そのあたりにミッキーマウスでも立っていたらかえっておかしいだろう」

 真太郎は多少おどけたふりをしながら、ナビをちらちらとのぞき見る。美穂の方は、コンビニで買ったカフェオレを飲みながら、窓の外を見ている。ミッキーマウスを探しているわけでもなさそうで、真太郎の冗談は無視した形で、

「真太郎ってさあ、結構方向音痴なところ、あるじゃない」

 と言った。そう断じられると、あえて否定はできないところが若干情けない。けれども、事前にガイドブックやらインターネットやらで何度も「予習」してある。

「大丈夫だよ。この先で海に突き当たるからさ、そこを左に曲がったらもうすぐさ」 

 ナビが示す順路を見ながら、それらしく解説する。

「ま、あんたがそう言うんなら、任せるしかないわな。命、あずけます、なんてね」

 今度は美穂の冗談に、真太郎の方が反応できなかった。この状況で言われても、内容的に、笑えない。そのまま走っていると、T字路に突き当たった。ナビの示す通りだ。いよいよ最後の曲がり角であるはずの交差点を左折すると、広々とはしているが、がらんとしただだっ広い景色が広がっているだけだった。

「おかしいなあ。もうすぐそこのはずなんだけれど」

 思わずつぶやいてしまったが、気を遣ったのか、美穂は聞こえないふりをしていた。前方を高架道路が横切っている。位置的には、あれが走って来た湾岸道路のはずだ。そうすると。そのまま走り抜けると、いきなり風景が明るくなった気がした。左手から交差している道路沿いにはヤシの木が植わっていて、曲がり角には岩を積み上げたようなモニュメントにディズニーリゾートの文字が浮き上がっている。そのすぐ先には、道路の何倍かの幅で駐車場のゲートへの進入路があった。開園時間まではまだ二時間以上あるが、すでにゲートは開いて車が順次呑み込まれていっている。

「あったあ」

 思わず二人の歓声が合わさった。広い。それに、ここまでの、どちらかと言えば閑散とした景色とは打って変わって、リゾート気分たっぷりである。駐車場のエントランスに着いただけなのに、すでに高揚感があった。


「見て見て、電車の窓もミッキーの形。かわいいね」

 予定通り車の中で朝食を食べながら、美穂が浮かれている。なんでもいいが、軽く食べると言っていた割にはサンドイッチの他にコールスローサラダとヨーグルトまで買い込んでいた。しっかり食べておかないと、走れないからだそうだ。真太郎の方は、六本入りのチョコチップパンにスムージーだけである。これなら食べられるだけで残りを置いておける。なにせ、とりあえず朝食は一旦終えている。

「あんな電車、見たことないな。ここに来るまでにも横をJRが走っていたけど、普通の電車だったぜ」

 真太郎は三本目のチョコチップパンを取り出しながら言った。ちょっとだけと思ったが、食べ始めると意外に次々に手が出る。

「JRとかじゃないわよ、この周りだけ走っている、ナントカラインっていうのよ」

ナントカラインでまとめられてもな。細かなことを気にしないので、美穂の話の中にはそれなりの頻度で「ナントカ」という表現が出てくる。それでも付き合いが長いので、真太郎には美穂の言わんとすることは大概分かってしまう。そう言えば、ディズニーリゾートの周りを一周する独自のモノレールがあるとガイドブックにも書いてあった。なんて言ったっけ、と真太郎が記憶を探っていると、

「それに駐車場のコーナーの記号からTとかGとかだし」

 美穂が言った。すでに次の話題に移ったようだ。まあいい。真太郎は合わせる。

「ここは確かGだったよな。で、それがどうしたんだい。ただのアルファベットだろ」

「GはグーフィのGでしょ。Tはティンカーベル。表示プレートにイラストあったじゃない。気付かなかったの」

 確かに、ところどころに配置されている緑色の案内表示には、アルファベットよりも大きくグーフィの顔が描かれている。気付かなかったの、と言われてしまうと身も蓋もないが、その通りだった。それにしても、駐車場のコーナー記号にまで、気を配られているとは思ってもいなかった。

「やっぱりディズニーランドはひと味違うわ」

「そうだな」

 多分、美穂が感じている「ひと味違う」とは温度の違いがありそうだったが、とりあえず、同意しておいた。真太郎としても関心の強い場所ではあったが、美穂の入れ込みようといったら桁が違う。まあ、つまらなさそうにされるよりも何百倍もいい。


 メインエントランスを抜けるとアーケードがあったが、一般の商店街などにあるそれに比べると屋根がずいぶん高く、広々としていてちょっとしたホールと言った方が近い。両側にグッズショップが並んでいて、開園早々だというのにすでに何人かの客が入っている。来たばかりで土産っていうのもな、と思いながらその様子を横目に見ながら進んでいた真太郎の隣で、美穂の方はよそ見をすることなくまっすぐに前を見て、しかも少々早歩き気味に歩いている。

 アーケードを抜けると、正面にはシンデレラ城が見えた。その背景にはやはり青く光る空が広がっている。夢に見ていたのと全く同じ景色だった。しかし、夢の中で隣にいた女性が髪をポニーテールに結んでいたのに比べ美穂はショートボブで、今日は少しだけ、外側にはねさせている。そもそも、隣というよりすでに半歩以上真太郎の斜め前を進んでいた美穂は、シンデレラ城を見上げるのではなく、立ち止まってスマートフォンの画面に見入っている。予定していた通り、まずはファストパスを確保してから効率的に動こうというのだろう。夢とは反応からして違っている。じゃあ、夢に出てきたあの女性は、一体誰なんだろう。


「さてと、準備完了。最初はビッグサンダーマウンテンからね。まだ時間あるから、それまでどこ行きたい?」

 とりあえず納得したのか、美穂が真太郎の腕をとった。髪からふわりと、シャンプーの香りがした。真太郎としては、なんとなく美穂のことを間近に感じることができる気がするので、香水などよりもこんな香りの方が、いい。

「じゃあ、とりあえずその方面にいた方がいいよな。それなら、こっちの方だ」

 シンデレラ城に向かって左の方角を、指差す。美穂が不思議そうに真太郎の顔を覗き込んだ。

「え、どうしてこっちだって分かるのさ。方向音痴じゃなかったっけ、今朝まで」

「いやまあ、なんとなく、ね。これでもほら、ガイドブックなんか見て予習してきたしね」

 真太郎はそう答えはしたが、ガイドブックやインターネットでは直接見たことのないはずの、アトラクションの入り口の風景が頭の中に思い浮かんでいる。それに、しかもそこへ行く手前のワゴンで、チュロスを買うという場面まで「思い出し」ている。そう、実際に来たことはないはずのディズニーランドについての、「記憶」がある。それは夢の中でのことだったが、目の前の風景とほとんど変わらない。だから、「思い出した」のだ。いわゆる、予知夢というやつだろうか。真太郎は自身で少々薄気味の悪さをさえ感じながら、自らが指さした方角に向かって歩き始めた。ほどなく、夢に出てきたワゴンが現れる。あえて何も言わずに様子を見ていると、美穂はそのワゴン自体に気付かないで行き過ぎようとした。

「あれ、なんだろうな」

 知らない顔をしてあえてわざとらしく言ってみると、

「すごい、かわいいね」

 と興味を惹かれたように近寄ったが、しばらく楽しそうに見て写真をとっただけであっさり立ち去った。チュロスそのものにはあまり関心がないようだ。やはり、夢は美穂との今日に関する予知夢の類ではない。一体何だったんだろうな。しかし、そんなことにとらわれているとせっかくの一日がつまらないことになってしまいそうなので、真太郎は一旦夢のことは忘れることにした。


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