第9話

 倉澤は、そんな風にして美奈子と慎太郎を色々なところに連れて行ってくれた。動物園などでベビーカーを押しながら一緒に歩いている姿は、他の人たちの目には間違いなく親子に見えるだろう。それに、はじめのうちは「奥さん」だったのが、自然と「美奈子さん」という呼び方に変わっていった。もちろんそれは、「奥さん」と呼ばれる度に、夫である真一がいなくなってしまっていることを思い知らされてしまう美奈子自身が望んだことでもあり、周囲から奇異な目で見られないようにという倉澤の思いやりでもあったが、その変化は二人の間の距離にも微妙な影響をもたらした。そして、美奈子としても、倉澤と一緒に出かけることをいつしか心待ちにするようになっていた。

 小動物の檻は様子が分からないからか真太郎はあまり反応を見せなかったが、大きな、クマやゾウなどのいるコーナーでは、無邪気な笑顔を浮かべて、小さな手をたたいてみせた。

「今日は本当にありがとうございます。私一人では連れて来ようという気にもなれなかったかもしれないので、誘ってくださってとってもありがたいです。でも、せっかくのお休みに、付き合わせてしまってすみません」

 大の大人が、動物園に来たかったとは思えないので、甘え過ぎてしまっているなという自覚をしながら美奈子は言った。

「いえ、全然構いませんよ。自分もとても楽しいです。動物園なんて、何年振りだろうっていう感じですしね」

 そう言う倉澤の目は、美奈子と同じように、動物など見ている様子はなく、もっぱらベビーカーの中でご機嫌な声を出している真太郎に注がれている。真一もこんな優しい目で自分の子どものことを見つめたのだろうか、と美奈子は思う。

「子ども、好きなんですね」

「ええ、本当はね。保育士になりたかったんです」

 動物のことをそんなに見ているわけではないということを美奈子にあっさりと見抜かれていることに気付いたのか、倉澤は少し照れた。そして、そんな美奈子の方に向き直って、真顔になって言った。

「美奈子さん。自分は山田が――美奈子さんのご主人が戻ってくることを心から願っています。けれども、もう一年以上も何の手がかりもない。このままもし、……すみません、不躾で恥知らずなことを一度だけ言わせてください。もし山田がこのまま戻ってこなかったら、自分と一緒になってもらえませんか。もちろん返事は今下さらなくて構いません。ただ、頭の片隅にでも、置いてもらえたら。気を悪くされたら許してください。そして忘れてください。けれども、決していい加減な気持ではないんです」

 美奈子はとっさに言葉を返すことができなかった。決していい加減な気持ではない。確かそれは、真一のプロポーズの言葉にもあった。誠実な目だけではなく、そんなところまでこの人は、似ている。それにもしかして、自分はそんな言葉を待っていたのかもしれないと美奈子は思った。

「突然おかしなことを言って、すみません。誤解しないでください。はじめから下心があって近づいたわけじゃない。ただ何度もお会いしている内に、だんだん惹かれていく自分がいて。不謹慎ですよね。本当に。すみませんでした、不愉快な思いをさせて。もう二度と……」

 沈黙している美奈子の様子を見て、そんな風に感じたのだろう。倉澤が心底申し訳なさそうに、言葉を継いだ。

「いえ、不愉快なんてそんなことは」

 美奈子が慌てて口を開いた。倉澤をそんな気持ちにさせてしまったことを、心から申し訳ないと感じ、そして、美奈子自身の気持ちについてもきちんと話すことが誠実だろうと思った。

「嬉しかったです、そう言っていただけて。私、甘えてばかりなのに。私も倉澤さんとこうしてお会いできることが楽しみになっているんです。ただ、お返事は少し待っていただけますか」

「もちろん、いつまでだって待ちます。それに返事がNOでも、きちんと受けとめます。こんな状況でこんなお話をしたことを、受けとめてくださっただけで十分ですから」

 倉澤はほっとした表情で言った。伝えるべき気持ちを伝えることができたからか、元通り人の好さそうな、穏やかな笑顔に戻っている。

 いつまでだって待つ、と言ってくれた。そんなところまで、真一に似ている。しかし今、どちらの決断をすることもできない、と美奈子は思った。真太郎がベビーカーの中で、小さな手を空に向かって差し出して、何かをつかもうとするように握ったり開いたり、した。その夜、ようやくつかまり立ちができるようになった真太郎を遊ばせながら、美奈子は倉澤のことを考えていた。確かに、突然ではあったが、全く予想していなかったことではない。何かと親切にしてくれる倉澤に対して、美奈子自身の中にも、強いものではないにせよ、同じような気持ちが芽生え始めていることを、どこかで感じていた。しかし、だからと言って、無条件にその感情に従うことができる状況ではない。そもそも美奈子は今も真一の妻であって、離婚したわけでも死別したわけでもない。行方不明者届を出しているが、そのまま戻らないとしても確か何年か経たなければ失踪とは認められないはずだった。つまり、倉澤の思いを受け止めるにはそれだけの年月が必要とされるということだ。待つ、と倉澤は言った。確かに待つつもりだろう。だからこそ、あいまいにはしておけない。覚悟を決めて一緒に待つのか、そうでないならば、きちんと伝えなければならない。

 そんなことを考えていると、電話が鳴った。貴子からだった。当初は毎日のように来てくれていた貴子も、さすがに一年近くが経ち、美奈子が働きに出るようになってからはその頻度はぐんと減っていた。けれども来られない日が続くと電話が入り、何かと気遣ってくれるところは変わらない。

「はいもしもし、お義母さん。ええ、今ご機嫌で遊んでいます。今日はね、動物園に連れて行ってもらったんですよ。喜んでいました」

 その時、ごん、という鈍い音がした。和室の机に手をかけて立っていた真太郎が、転んでいる。転んでは立つということを繰り返しているので見慣れた光景だが、少し間を置いてけたたましく泣き始めたので、数歩離れて電話をしていた美奈子は驚いて真太郎に駆け寄った。

「しんちゃん、どうしたの」

 仰向けになって泣いている真太郎の、大きく開いた口の中が真っ赤になっている。つかまり立ちをしていて膝がかくん、となったはずみで、机の角で打ったのだろう。ごん、という音はその時のものだった。美奈子はその口の中の血を見て、動揺した。大変だ、どうしよう。

「もしもし、美奈子さん、どうしたの。しんちゃんが泣いているみたいだけれど」

 電話の向こうから、貴子の声が聞える。

「転んで顔を打ったみたいで、口の中が血だらけなんです。どうしよう、私がちょっと目を離してしまったから」

目を離したと言っても、ほんの一秒あるかないか、という程度である。しかも、手の届くほどの距離だし、自宅の和室の真ん中である。しかし、動揺している美奈子には、自分の不注意で真太郎に大けがをさせてしまった、としか思えない。

「落ち着いて。口の中の血以外に変わったところは? 近くにとがったものとか、呑み込みそうなものはあったの?」

 貴子がゆっくり、静かな声で尋ねている。同じ質問をきびきびとした口調で尋ねられるときっとさらにあわててしまうことになるだろう。でも貴子の声は、いつも美奈子を落ち着かせてくれる。

「ええと、他にケガなんかはないみたいです。机の上におしゃぶりを置いてある他は何もないです。ああ泣き止まないわ、どうしよう」

 それでもなかば涙声になりながら、美奈子はなんとか答えた。

「とりあえず、病院に電話してみたら」

「病院ってどこへ」

「あなたが勤めている病院。しんちゃんも、そこでいつも診てもらっているんでしょう。確か救急の窓口もあったじゃない」

「電話して、なんて言えば……」

「そのまま言えば、いいんじゃない。転んで顔を打ったみたいで、口の中が血だらけなんだけれど診てもらえますかって」

 まるで思考が停止してしまっている美奈子だったが、貴子に励まされてなんとか自分の勤務する病院に電話をして、時間外で診てもらうことができるようにはなった。

ただ、口の中が切れると血はたくさん出るが、大抵の場合はすぐに止まる。だからよほど大きな傷でない限り、特別な処置はない。案の定真太郎の傷も、病院に着いた頃には血は止まっていた。

「はいこんばんは。山田さんですね。どうしましたか」

 診察室に表れたのは、美奈子もよく知る医師だった。

「小坂先生、おつかれさまです。あのう、この子が顔をぶつけちゃって、口の中、切ったみたいで」

 ここへ来るまでの間におさまったのは真太郎の出血ばかりではない。美奈子の方も、血まみれの真太郎の口を見て動揺していたのが、すっかり落ち着いている。そのために、自分の動揺ぶりを自覚して、顔から火の出るような思いをしていた。

「どれどれ、ちょっと診せてくれるかなあ」

 にやにやしながら真太郎の口をのぞき込む小坂医師は、そんな美奈子の動揺まで見抜いてしまっているようで、美奈子にすれば、悔しいところだった。

「うん、血は止まっているねえ。バンドエイドでも貼ってあげたいところなんだけれど、口の中だしね。まあ、気をつけてあげてね」

 と最後は笑いをかみ殺しながら言った。本人も一通り大泣きした後は落ち着いていて、病院に向かって出発する頃にはけろっとしていたし、夜の病院でのいつもと違う雰囲気に不安を感じたのか少々ぐずった程度だった。

 間の悪いことに、真太郎を診てくれた当直医の小坂は美奈子の勤務している病棟の担当でもあったので、当直明けに病棟に現れた。

「おはよう、山田さん。昨夜はお疲れ様。ぼっちゃんのご機嫌はその後どうかな」

 などとニヤニヤしながら話しかけてくれたため、昨夜の騒ぎは同僚皆の知るところとなった。

「プロとは言っても、我が子のことになるといつも通りというわけにはいかないよねえ」

 とさんざんからかわれるはめになった。今思うと、自分でもおかしくなってしまう。これが他の子どもだったら、勤務中であろうとなかろうと、傷の具合を確認した上で様子を見ただろう。看護学生の頃にさえあんなに動揺したことはない。おかしいやら恥ずかしいやらで顔を真っ赤にして笑いながら、もう一方でそんな自分のことを一種の感慨を持って見ている部分もあった。そうか、私は母なのだ。将来的にどうなるのかは分からなくても、少なくとも今は真太郎の母として、いる。一緒にいよう。そう言った真一の言葉を思い出なした。それが私たちの約束だった。形がどうであれ、それは今も守られている。倉澤へのほのかな思いはそっと胸に秘めたままでいよう。こっそりとそんな決心をした美奈子だった。

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