第8話


 家に戻ると、美奈子はそれまで触れなかった真一の荷物を探った。本当ならまず初めに調べてみればよかったのだろうけれど、どこまで分かっているのかは別として、一応本人が横にいるのに無断で触れることに遠慮があった。いや、本当のところは、何か決定的なことが明らかになることを恐れていたということなのかもしれない。

 財布や腕時計などは寝室のクローゼットに置いてあった。あちこちに置きっ放しでしょっちゅう探し物をしている美奈子とは違って、几帳面な真一の持ち物はいつもきちんと整理されてあるため、探すのに苦労はなかった。まず、財布を手に取る。美奈子が真一の誕生日にプレゼントした二つ折りの黒い財布だが、中にはクレジットカードとJRのICカードが入っているくらいのはずだ。真一は、ポイントカードの類はその店に縛られてしまう気がするのでと、作ろうとしなかった。何か変わった領収書でも入っていないかというくらいのつもりで開いた財布だが、見慣れないカードが一枚、美奈子の目に飛び込んできた。それは、病院の診察券だった。そんな病院にかかっているとは聞いたことがない。自分に隠して、一体何の治療を受けていたのだろうか。他には変わったところは見られない。財布を一旦戻して、今度は同じクローゼットの隅に置いてある、真一の通勤用のビジネスリュックを取り出した。こちらの方は筆記具やノートの類、それに本が数冊と、ぎっしり荷物が詰まっている。一つ一つを一旦テーブルの上に並べてみた。どれも仕事の関連だろうと思われ、特にノートや本の類は触れにくい。付箋がところどころに貼ってあり、そのうちの一つのページを開いてみたが、さっぱり分からない。というよりも、ずらりと並んでいる活字が美奈子の介入を拒んでいるように感じられて、すぐに閉じてしまった。ふと目に留まったのは、茶色い革製のビジネスダイアリーだった。仕事柄なのか、ただの予定だけではなく、色々なことが乱雑に書き込まれている。真一の姿がなくなった日には、

「休日。妻と出かける」

 という予定が書きこまれていた。そういえば、公園にでも出かけようと話していた。まだ一か月と経っていないはずなのに、ずいぶん遠い昔のように感じられる。先月の初めのあたりを開いてみる。はっきりとした記憶ではないが、恐らく美奈子が夜勤明けで帰って来たのであろう日の、前日に小さく病院の名前と時間のメモがある。先ほど財布の中で見つけた、あの診察券の病院だ。その下に、少々乱雑な文章が、書かれていた。

「すいぞう〇。一緒にいられなくなる。なんとか、約束を果たしたい」

 〇は、医療機関では癌を意味する隠語だ。美奈子が真一に教えた。美奈子はその夜の会話をはっきりと思い出した。


「真一さんの同僚のクラサワさんが言っていた、約束を守れない、という言葉が気になったので、真一さんの荷物を調べてみた。すいぞう〇、というメモと、一緒にいられなくなると書かれた手帳を見つけた。財布の中には、その病院の診察券が入っていた。私が夜勤から戻った日、真一さんが慌てて隠したのは、多分これだったと思う。その日の夕食の時、真一さんからお友だちがすい臓がんと診断された、と聞いた。私が、一般的に予後はあまり良くないらしいと説明すると、少し悲しそうな顔をして、それきりその話は出さなかったのだけれど、あれは真一さん自身のことだったのだ。結婚する時に、ずっと一緒にいるから、と約束した。その約束を守りたいと真一さんは願っていた。もしかすれば、自分自身をリセットすることで、その約束を守ろうとしたのではないだろうか。今、真太郎という赤ん坊の姿になってしまっているのは、もしかするとその願いの結果なのだろうか。そうだとすれば……」


 文字がにじんで、それ以上は書くことができなくなった。すると、それと呼応するように、ベビーベッドの上で眠っていた赤ん坊が、泣き声を上げ始めた。美奈子は彼を抱き上げ、あやそうとしたが、やがてその柔らかな体に顔を押し付けて自らも声を上げて泣き始めた。ただ悲しいというだけの涙ではない。想像に過ぎなかったが、一緒にいようという約束を守ってくれようとした、真一のひたむきな思いがたまらなかった。真一さん。美奈子はただその名を呼びながら、泣いた。赤ん坊の泣き声もまた、美奈子の名を呼んでいるように聞こえた。二つの泣き声が、部屋の中にいつまでもこだましていた。


 真太郎との生活は、その後も当たり前のように続いた。誕生の瞬間があったわけでないので正確には分からないが、どう見ても初めの頃の様子は新生児だった。そうするとそろそろ三か月くらいになるのだろうか。ようやく寝息を立て始めた赤ん坊の横顔を見ながら、美奈子はため息をついた。一般に妊娠期間を十月十日というが、よくできたものだ、と思う。母親になるために、気持ちも環境も準備をする期間になっているのだ。ある朝目覚めたら急に赤ん坊がいた、という生活というのは、想像を絶する大変さだった。それでなくとも数時間ごとにおむつ交換や授乳をしなければならず、合間に自分自身の食事をはじめとした家事をしなければならない。幸い、出産をしたわけではないので体の方はいたって元気ではあるが、何の準備もできていなかった身にはこたえ、しばらくは朦朧とした日が続いた。看護師として三交代勤務をこなしてきた美奈子にとっては一晩や二晩眠れないという経験は珍しくもなかったが、それが延々と続く子育てというのは比較にならない。そもそも、休日というものがないのである。貴子が毎日のように応援に来てくれていなければ、とっくにダウンしていただろうと思った。

 あらゆる意味で、裕之と貴子の二人がいなければ、美奈子にはどうすることもできなかっただろう。真一の実の両親が、皮肉なことに祖父母として、真太郎という子どもを誕生させたことになる。


「あれから四か月が過ぎた。真一さんはあの日、突然赤ちゃんになったまま、元の姿に戻る様子はない。唯一、そのふとももに残る火傷の跡だけが、真一さんであることを示していたが、それ以外はまぎれもなく赤ちゃんだ。私も、赤ちゃんに向かって真一さんと呼ぶことはしなくなった。さすがに赤ちゃんに向かって夫の名前で呼びかけている姿というのは自分でも変だと思ったからだ。それで、あの日とっさに名付けた真太郎という名前から、しんちゃん、と呼ぶようにした。それでもはじめのうちは真一さんに向けて話しかけていたつもりだったけれど、どこから見ても普通の赤ちゃんで、当たり前のことかもしれないけれど、真一さんからの返事はない。最近では、この赤ん坊が真一さんなのか真太郎なのか、自分の中でも少しあいまいになってきている気がする」


 首がかくん、と揺れたはずみで箸を取り落とした。美奈子はその音で、目を覚ました。

「いけない、いつの間にか寝ちゃってたわ。うたた寝していないで、ちゃんと寝ないとだめね」

 保育園の慣らし保育を始めて三週間で、ようやく正式な入所となった。預かってもらっている間は解放されるので、一息つけるだろうと考えていた。しかし、預かってもらっている間中真太郎の様子が気になって仕方がなく、結局家でゆっくり休むこともできないまま気を張り詰めていた。そのため、迎えに行く頃にはくたくたになっていた。こんな調子で大丈夫なのだろうかとも思うが、園での様子を聞いたり、アドバイスをもらったりしながら、育児のことを一から学ぶことができた。それに、先生たちから「真太郎くんのおかあさん」と呼ばれることで、何となくそうか私はおかあさんなのだ、という自覚が美奈子の中ではっきりとした形を持ち始めたということも大きい。

 真一の会社が籍を残してくれているといっても、給与まで支払われるわけではない。裕之たちが何かと差し入れてくれてはいるが、貯金もそろそろ使い果たしそうだったし、いつまでも家にいるわけにもいかないので、美奈子は看護師として再び働き始めることにした。明日は新しい職場に出向くことになっているので、早くに起きて準備もしなければならない。美奈子は気を取り直して、残ったご飯をお茶漬けにして一気に流しこんだ。


 美奈子の生活は一変した。もちろん、真太郎の「新米ママ」になったことが言うまでもなく最大の変化だが、職場も変わり、具体的な生活のリズムも変化した。そしてもう一つ、他のことと比べればそんなに大きなことではないにせよ、倉澤という、真一の同僚と話すようになったということも新しい変化だった。

 倉澤には真太郎が真一その人であるということはもちろん話していないが、真一がいなくなってしまって美奈子と真太郎だけが残されているという事情についてはよく理解をしてくれていて、何かと親切に世話をしてくれた。

 初めのうちは、真一の行方について手がかりになりそうな情報を見つけては、知らせてくるというものだった。とはいえ、多くは真一が残していった仕事に関することで、出張の行き先だとか走り書きのメモの類で、特に参考にできそうな内容のものはなかった。なんと言っても、真一本人はどこかに行ってしまったわけではなく美奈子と一緒にいるわけで、美奈子が必要としているのはどうすれば真一が元に戻るのかという情報だった。そんなことを知る由もない倉澤が役立つ情報を持ってこられるはずもなかった。

 それでも、気にかけてくれているその誠実さに、美奈子は少なからず励まされていた。ある時、

「急にすみません、今日はご主人の情報じゃないんですけど、実家からりんごがたくさん送られてきたんです。一人じゃ食べきれない量なので、もしよければ、少し手伝っていただけないかと思いまして」

 と電話で言われた。美奈子が了解すると、倉澤は紙袋に一杯のリンゴを持ってやって来た。

「わざわざ、届けに来てくださったんですか」

「いえ、わざわざ、というほどでもないんです。帰宅途中で立ち寄っただけで。ああ、マイカー通勤なので、本当に大した手間じゃないんです。じゃあまた、何かあったら連絡させていただきます」

 と言って、紙袋を差し出すと、そのまま踵を返し、慌てて帰っていった。美奈子はその背中を見送りながら、せっかくなのでお茶でも、と言いかけた言葉を呑み込んだ。

 それからは、真一の行方に関する情報よりもむしろ、ちょっとしたお土産だとか、お薦めの小説といった個人的な用件での連絡や訪問が増えて行った。美奈子としても、貴子たち以外と連絡を取り合うこともなくなっていたので、それは気分的にもありがたい機会となった。

 ある休日などは、雨が降っていたので買い物に出かけるのをあきらめようかと思っていたところに倉澤が現れた。

「実は、知人から不要になったチャイルドシートを譲り受けましてね。もしよろしければ、お買い物にでもお供しようかと思ったんですが」

 と申し出てくれた。美奈子自身はもちろん、裕之も貴子も実は車の運転ができなかったので、それは本当にありがたい申し出だった。美奈子が恐縮しながら礼を言うと、倉澤は、頼ってくれると嬉しいのだ、と言った。それは決して口先だけでなく、心から言ってくれているのだということが、倉澤の、真一と似ている目を見れば分かった。


「今日は倉澤さんが、車で海に連れて行ってくれた。しんちゃんは足をばたばたさせて興奮していた。真太郎にとっての初めての海だったからなのか、真一さんの記憶が懐かしいと言っているのだろうか。私自身も、特に泳いだり潜ったりするわけではないけれども、久しぶりに広々とした海を見ていると、解放された気分になれる。まだ歩くこともできない赤ちゃんと二人きりだとまず来ることはなかった。倉澤さんには本当に感謝している」

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