第7話
「へああ、ほわあ」
貴子の手のぬくもりを感じ、美奈子が落ち着きを取り戻すと、今度はベッドの上に寝かされて落ち着いていた真一が、再びもぞもぞと泣き声を上げ始めた。美奈子はその小さな体を抱き上げたが、泣き止む気配は見られない。むしろ少しずつ、ヒートアップしつつある。
「お腹がすいたのね。美奈子さん、お湯を沸かしてくれるかしら。大きめのお鍋に一つと、小さい方でももう一つ」
真一の体を受け取りながら、貴子が言った。
「二つ、ですね」
美奈子がそれに従ってキッチンに向かうと、貴子が今度は裕之に指示を出して、買ってきたものを整理させ、開封させている声が聞こえた。お湯が沸いたら、これとこれを煮沸してちょうだい、とも言っている。そうか、まず煮沸消毒。赤ん坊を貴子に抱いてもらって少し落ち着けたのか、美奈子は頭の中に産科実習で学んだことを呼び出した。
「美奈子さん、お鍋を火にかけたらそこは主人に任せて、こちらに来てもらえるかしら」
貴子の声がするとほぼ同時に裕之が哺乳瓶を持ってキッチンにやってきた。
「あ、お義父さん、じゃあ、お願いしていいですか」
「ああ、ここは任せておきなさい」
と裕之は穏やかに笑って答えてくれた。そう言えばこの人は、この状況をどう受け止めたのだろう。美奈子は今更ながら思った。貴子は赤ん坊が我が息子であることを理屈ではなく恐らく母親の本能のようなもので即座に見抜いた。ばかりではなく、美奈子を慰め、励まし、味方になると言ってくれた。そのやり取りの間、裕之がどこでどんな表情をしていたのか、美奈子には気に留める余裕もなかった。今、キッチンで鍋を引き受けた裕之の表情からは、驚きや戸惑いは見られなかった。同じように順応したのだろうか。それとも、状況を呑み込めず、何かの冗談だと思っているのだろうか。そんなことを少し気にしながら戻ると、貴子はそれも見抜いたようで、
「あの人は大丈夫よ。いざという時には、頼れる人だから」
と目配せをしながら言った。まだまだ美奈子たちには及びもつかない、信頼関係があるようだ。
美奈子に再び真一をゆだねると、貴子はテーブルの上に置かれた粉ミルクの缶を開封した。
「哺乳瓶とおしゃぶりとか、口に入るものは煮沸してから使うのよ。まあ、そんなことはなんとかに説法よね」
「いえ、看護学校で習いはしましたけど、実際に実習以外では産科病棟で働いたことはないですし。実施でやってこられたお義母さんとは比較にならないです」
謙遜ではなく、本心から言った。大体抱き方からして明らかに違っている。
「でも美奈子さんが勉強したの、ほんの数年前でしょ。私が子育てしていたのは、三十年近く前の話よ」
三十年、という響きに時間の厚みを感じたが、その三十年前の子育てというのは、他ならぬここにいる真一に対して行われたものだ。その状況の不思議さと複雑さを考えて、美奈子は軽いめまいを覚えた。
裕之が持ってきた、煮沸消毒を終えた哺乳瓶に貴子が粉ミルクを入れ、お湯を注いでしばらく冷ました後、美奈子に差し出した。
「人によって違うけれど、私はここで温度を測るって教えられたわ」
と自分の手首の内側を指す。美奈子も、学生時代に教わった記憶を掘り起こした。熱すぎても冷たすぎても、良くない。ただ、測り方は知っていても、それがどれくらいのものなのかという感覚はない。数滴、手首に垂らしてみた。熱くも冷たくも感じなかったが、それが適温かどうかは分からない。首を傾げると、貴子が自分の手を差し出したので、そこにも数滴、垂らしてみる。
「うん、いいんじゃないかしら」
師匠のOKが出たので、恐る恐るそれを泣きじゃくっている真一の口元に持って行く。見える姿は赤ん坊だが、頭の中はどうなのだろうか。真一のままだったらミルクの味をどう感じるのか。コーヒーの方がいい、なんて思うのだろうか。そんなことを考えると少しおかしくなったが、腕の中で泣きじゃくる声はますます激しくなっていくので面白がっている余裕はなさそうである。
泣きすぎて我を忘れているのか、それとも哺乳瓶の乳首をくわえればミルクが出てくるということをまだ知らないでいるのか、なかなか吸い付いてくれない。やっぱりミルクではないんじゃ、と思ったがはずみで乳首が口の中に触れた途端、真一は泣くのを止めてミルクに集中し始めた。
「ちゅっちゅっちゅっ」
小気味よい音が響き、室内にいる三人の大人たちは息を詰めるようにしてその様子を見守っている。真一はまぶたを閉じたまま眉を吊り上げ、恍惚の表情でミルクを取り込んだ。みるみるうちに瓶の中の白い液体はなくなっていき、やがて真一の吸い込む息に合わせて、入り口付近に泡が出たり入ったりするようになった。
「一気に飲み終えたね。よっぽどお腹すいてたんだ」
貴子がその様子を見つめながら言った。飲み終えた哺乳瓶を外しても、真一の口はしばらく、ちゅっちゅっと音を立てながら吸う動きを止めなかった。
「かわいい」
これまで感じたことのなかった気持ちが美奈子の中に起こって来た。それは真一に対して向けられた感情なのか、いわゆる母性本能というものなのか、区別ができなかった。
「げっぷをさせてあげなくちゃね」
貴子に言われてはっと思い直し、確かこうだったかな、と考えながら真一の体を縦に抱き直し、背中をとんとん、とたたいた。少し置いて、
「がっ」
という小さな音とともに微かな振動が、美奈子の肩に伝わってきた。
目覚めたら突然赤ん坊になっていたのと反対に、朝になれば元に戻っているのではないか、あるいは、悪ふざけをしてごめん、とでも言いながら真一が帰ってくるのではないかなどと思ってもみたが、状況は変わらなかった。もう一日だけ、あともう少しだけ、待ってみよう。しかし、何日経っても真一が戻ることはなく、むしろ寝ぼけ眼がだんだんはっきりしてくるように、これが現実なのだということを認めざるを得なくなっていった。
赤ん坊になった真一を、真太郎として育てる。現実に戻れば問題は山の様にあった。そもそも、新生児を抱えた状態では仕事に行けない。保育所も、預けられるのは三ヶ月からだが、そんな期間を休んでいることはできない。産休という制度のありがたさが分かったが、活用できないのではどうしようもない。さすがに勤めていた病院で実は妊娠していたことに気付かなかった、などということは通用しない。貴子に頼むことはできるのだろうけれど、自分が育てるのだ、と宣言した以上、数日でギブアップという訳にはいかない。結婚後に仕事を続けるかどうかについて、「何をするかではなくて誰といるか」という貴子の言葉に支えられて辞めずに続けてきたのだが、今度は同じ言葉が、一旦退職するという選択の理由になった。赤ん坊になった真一と一緒にいる。それが美奈子の決意だった。
問題は仕事だけではない。健診だの予防接種だの、医療をはじめとする公的な制度を利用する必要がある。もし、何か病気にかかってしまったら。真一の寝顔を見ながら、その不安が恐怖に変わるのに時間はかからなかった。
三十歳になる真一のままでは通用しないので、新たに「出生届」を出すところから始めなければならない。実際に妊娠したという経緯はないのだから、医師の証明も母子手帳もない。美奈子一人では途方に暮れる他なかったが、そこは裕之が助けてくれた。美奈子はこの舅について、穏やかで優しい人というほどの印象しか持てていなかったが、いろいろな書類を整えてみせたその手際の良さに、驚かされた。少なくとも、キッチンでてきぱき動く貴子の隣で、人の良さそうな笑顔で座っている姿からは想像できない。美奈子が感謝とともに驚きを素直に伝えると、
「これでも、法務局に勤めているものでね。家事はからっきしだけれど、そこはそれ、餅は餅屋ってやつだよ」
と鼻の横を指先でかきながら答えてくれた。考えてみれば失礼な話なのだが、自然にそんなことを言わせてしまうほど、裕之と貴子は美奈子にとって家族になっているということだろう。
真一の会社にも、少し具合が悪そうだからと休みの連絡を入れていたが、いつまでも引きのばしていることはできない。さいわい、こちらの方は美奈子が出産したのだということを伝えても、信じてもらうことはできるだろう。真太郎の医療保険のこともあるので、美奈子は思い切って相談に行くことにした。
「今日、真一さんの勤めていた会社に行ってきた。いつまでも本人から連絡をしないままで休んでいるというわけにもいかないし、実際のところどうしたらいいのか見当もつかない。それに、出版社だったら、何か事情が分かるかもしれないと思ったからだ。真一さんがある朝突然いなくなったのだと伝えると、上司の方が親身になってお話を聞いてくださった。行方不明者届というのを出しておくこと、給料を出すことはできないにしても、当面は健康保険などを使えるようにするために籍は残しておいてくださるということなど。ただ、真一さんがいなくなってしまった事情については参考になることはなく、会社としても寝耳に水だったということが分かった」
美奈子はいつか戻ってくるかもしれない真一に起こっていることを説明するために、また、混乱している自分の頭を整理するために、日記をつけることにした。これまでそんな習慣は思い立っても続いたためしがなく、途中で放り出すかもしれないが、それでもいい。とにかく何かをしないではいられなかった。
話を終えた美奈子が応接室から出ると、手前のデスクに座っていた人物が、立ち上がって話しかけてきた。
「あの、奥さん、ちょっといいですか。自分は倉澤と言いまして、ご主人とは親しくさせてもらっていました。実は、少し気になることがありまして。参考になるかどうか分かりませんが」
というのだ。抱っこ紐の中で眠る真一が、わずかに身じろいだのが分かった。
「あれは先月の初めの頃だったと思いますけれど、ご主人と居酒屋で呑んでいた時です。いつもは陽気な酒なんですが、その日はなんだか考え込んでいるような、ちょっと暗い雰囲気だったんです」
倉澤は、美奈子を隣のデスクに座らせ、自分は元の席に座って話し始めた。
「奥さんの話をよくしていました。本当に嬉しそうに話すんですよ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいにね」
美奈子はどんな顔をして聞いたら良いのか、分からなかった。自分の知らないところで、自分のことをそんな風に話していた真一を、想像すると嬉しいような、気恥ずかしいような気がする。しかし、その真一の姿が見えない今、無邪気に喜んでもいられない。
「それで、その日に主人は何を話していたんですか」
真一への思いに甘えてしまいそうになる自分を抑えて、先を促した。
「奥さんのことを裏切ってしまうことになるかもしれないって、そんなことを言っていました。あ、誤解なさらないでください。浮気とか、そんな浮いた話ではありません。あいつはそんな男ではないし、そんな噂も、これっぽっちもありませんでした。ただ、約束を守ってやれないかもしれない、そんな風なことを言ってました。それ以上は聞けなかったのですが、何か心当たりはありませんか」
「約束、ですか」
逆に問い返されて、美奈子は困惑した。何のことかはすぐには思いつかなかった。しかし、先月の初め、と聞いてふと思い出した場面はある。確か美奈子が夜勤明けで帰ってきた時だったと思うが、ダイニングに座っていた真一が美奈子の声を聞いて慌てて何かを隠したことがあったのだ。気にはなったが、真一が話そうとはしなかったので確認のしようもなくそのままになっていた。
「ありがとうございます。今すぐには思いつきませんけれど、考えてみます」
「お役に立てず申し訳ありません。でも何かお困りのことがあったらおっしゃって下さい。できる限りのことはしますので」
倉澤は少し身を乗り出しながら言った。心から心配をしているといった誠意を感じさせるその目は、どこか真一と似ている、と美奈子はこっそり思った。
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