第6話

 山田家は、美奈子の生まれ育った家から電車で一駅の、隣町だった。美奈子には、こんなに近くで、自分の知らない家族の生活があったのだという当たり前のことが、妙に新鮮に感じられた。次の休みの時に、と言われたが、公務員をしているという真一の父や真一の予定とも合わせるためには土曜か日曜に休みを取る必要があった。結局、翌月の勤務表に希望を入れたために、一月後になってしまった。

 結婚のあいさつに行くわけではないのだから、カジュアルな服装にしようと考えたが、これがかえって難しかった。さんざん悩んだ末、結局はスーツ姿になってしまった。Gパンにセーターというラフなスタイルで待ち合わせ場所の改札口に現れた真一は、美奈子の様子を見て一瞬驚いたようだったが、すぐに小さく微笑んで、

「じゃ、行きましょうか」

 とホームに出た。美奈子が相当緊張しているということが一目で分かるので、あえて軽い雰囲気で話そうと真一なりに配慮したつもりだったが、それにしたってまるで家庭訪問に向かう教師とその教え子のようだと思った。そう思いついてしまうとおかしくて仕方なくなり、美奈子を見てくすくすと笑った。

「どうしたの、真一さん。なにか変かしら」

 真顔で尋ねるために真一としては余計におかしくなる。

「いや、すみません。君がね、あまりにかしこまっているから。だって僕はこの格好だからさ、まるで美奈子さんが担任の先生で、僕が生徒みたいだなと思ってね」

「それって、私の方が年上に見えるっていうこと? ひどいわ。これでも色々迷ったんだから」

 照れくささを隠すために、美奈子はふくれてみせた。もちろん、単なる言いがかりである。確かに自宅を訪ねるのにこの格好では、何をかしこまって、ということになってしまう。多分真一と同じような服装が正解だったのだろうと考えて、それなら真一と事前に打ち合わせたらよかった、ということに今更ながら気付いた。

「大丈夫ですよ。うちの母親は細かいことを気にするタチじゃあない」

「大丈夫って、私が年上に見えるってことは否定しないの。全然細かいことじゃないと思うんだけど」

 ちょうど二人の前に電車のドアが開き、真一は美奈子を先に乗車させてからすぐに自分も乗り込んだ。真一はいつも、ドアの手前で美奈子が先に入るのを待ってくれる。こういう真一の細かな気遣いが、美奈子を安心させる。

「年齢のことじゃないよ。僕らの服装が違っているってところさ。もちろん、君の方が年上になんて、見えやしないよ」

 笑みを絶やさないまま、真一が言った。もちろん、そんなことは分かっている。冗談よ、と言おうとして、吊り革を持った真一を見た。その後ろで扉が閉まり、車窓の外の風景がゆっくりと流れ始めた。美奈子は吊り革の代わりに真一の腕をつかみ、その肩に額をあずけて束の間、目を閉じた。電車の揺れが伝わってきて、めまいを起こしているような感覚に陥る。動き始めるのだ。嬉しさと気恥ずかしさと、少しばかりの不安で胸が詰まり、すぐに目を開けた美奈子は言葉を出さずに真一の顔を見上げて小さく微笑んだ。

 町の風景の流れるのが本格的になり、かたんことん、という音が滑らかになっていくらも経たないうちに、身体の重心が反対方向に引っ張られ、減速に入ったことが分かった。都会のたった一駅なのでそんなものだろうけれど、そのささやかな二人の時間があっという間に終わってしまうことが、美奈子にはなんとなく勿体ないように感じられた。

 

 想像していたよりも広めの玄関は、そこだけ吹き抜けになっていて、高窓からの陽の光のおかげで明るく感じられた。

「ただいま、来たよ」

「おかえり、どうぞ上がってもらって」

 真一の明るい声に反応するように、奥から返事が返ってくる。落ち着いた女性の声だった。美奈子は一気に緊張が高まるのを感じたが、真一はさっさと靴を脱いで上がり、美奈子にスリッパを差し出した。

「さあ、どうぞ」

 美奈子の前に置かれたスリッパはフリルのデザインがついた淡いピンク色で、それなりに年季の入った調度の中でそれだけが真新しく見え、もしかすると今日のためにわざわざ新調してくれたのかもしれないと思われた。

「か、かわいいスリッパね」

 自身を落ち着かせようとしてコメントしてみたが、それが今日のために、つまり自分のために用意されたものなのかもしれないと思うと、余計に緊張が高まってしまう。

「そう言えば見慣れない気がするな。新しく買ったのかな。スリッパの柄なんてあんまり気にしてみたことがないからよく分からないけれど。まあ、とにかくどうぞ」

 考えてみれば、真一にとっては自宅であり、今日も美奈子と待ち合わせるためにここから出かけて、戻って来ただけである。美奈子はこの家の中で、自分だけが外からやってきて緊張している異質な存在なのだと感じた。しかし、だからと言ってここですねていても始まらない。思い切ってパンプスを脱ぎ、真一が置いてくれたピンクのスリッパに足を入れた。ここまで来たら、引き返すわけにはいかない。

 真一に促されるままに、玄関に続くドアから中に入ると、ダイニングテーブルが目の前にあり、大きなボウルを置いて何やらかき混ぜている女性の姿があった。柄物のブラウスにベージュのエプロンをつけているその女性は、

「いらっしゃい。手が離せなくて、ごめんなさいね」

 と言葉通り手を動かしながら、顔だけ上げて、美奈子を見た。

「母さん、こちら美奈子さん」

 真一はその女性に美奈子のことを紹介してから振り返り、

「美奈子さん、うちの母です」

 と言った。

「真一の母です。美奈子さん、来てくれて嬉しいわ。よろしくね」

 相変わらず手だけは動かしながら、貴子はにっこりの微笑んだ。

「あ、はじめまして、川口美奈子と申します。今日はあの、お邪魔します」

 美奈子は採用面接の時にもこんなには緊張することはなかっただろうと思いながら、深めのお辞儀をしてなんとかはじめのあいさつだけは済ませた。そして、貴子の笑顔を見て、この人はなんて柔らかに笑うのだろうと思った。

「真一、ちょっと悪いけれど、これお願い。母さん、サラダの方、やっちゃうから」

 貴子が真一にそう言ったのを受けて、美奈子は

「あ、私がやります」

 と申し出た。じっと座っているよりは何かしている方が気が楽、ということもあるが、貴子の放つ柔らかな雰囲気が、美奈子の緊張を自然に解いてくれたのかもしれない。貴子の方も遠慮する様子は見せず、

「あら、じゃあお願いしようかしら」

 と応じた。その気さくさが、美奈子にとって救いともなった。ジャケットを脱いでそでを少しまくると貴子の隣に立った。ボウルの中身はバラ寿司だったようで、酢飯の匂いが立ち上っている。

「これで軽くかき混ぜながら、うちわで風を送って冷ますの。大丈夫よね」

「はい、やってみます」

 素直に応じた美奈子は、貴子からしゃもじとうちわを受け取った。貴子はそれを託すと、美奈子の肩に軽く触れ、そのままキッチンの方に移動した。美奈子は貴子の手が置かれた肩のあたりがほのかに暖かくなるのを感じながら、ボウルにあるバラ寿司をあおぎ始めた。

「僕も手伝うよ。これはしゃけ寿司だな。ばあちゃん直伝の、お袋の得意メニューでね。結構、うまいんだ」

 真一が隣に来て、美奈子の手にあったしゃもじの方を受け取って、かき混ぜ始めた。それなりに慣れた手つきである。

「なんだか手慣れた感じね。そう言えば、真一さんってお料理なんか、するの?」

「いや、そんなには。目玉焼きくらいかな。しゃけ寿司を冷ますのは結構手伝ってるから、これだけは慣れてはいるかな。ただ、かき混ぜてあおいでるだけじゃ料理しているとは言えないけどね」

 貴子と笑い合いながら料理の手伝いをしている真一の姿を、想像した。それはごく自然に想像できたし、きっと家族とはそういう雰囲気なのだろう、と思った。同時に、真一が好きな料理ということなら、作り方を貴子に教えてもらわないとな、と考え、不意にこみあげてきた嬉しいような照れくさいような気持ちをどう処理したらよいのか分からずに、こっそりと顔を伏せた。


 そうこうしているうちに、玄関が開く音と共に、人が入ってくる気配がした。

「帰ったよ、やあ、来てたんだね、いらっしゃい。母さん、これでよかったのか」

 エコバッグから取り出したごま油を差し出しながら、ダイニングテーブルの横を通り抜けたその男性は、おそらく真一の父だと思われた。

「お父さん、ありがとう。これでいいわ。飲み物は冷蔵庫の一番下にしまっておいてね」

 貴子が応じる。飲み物の買い出しのついでに調味料も頼まれたというところか。残りのもの――全てビールだったが――をエコバッグから引っ張り出して冷蔵庫に放り込んだ後、やや所在なさげに両手をぶらぶらさせ、美奈子の方をちらちらと見ている。

「山田裕之、僕のおやじだよ」

 少し苦笑いをしながら真一が紹介してくれた。

「はじめまして、川口美奈子と申します。お邪魔しています」

 美奈子が応じる。貴子とのあいさつが済んで少し落ち着いたからか、あるいは父親の記憶はあってある程度イメージは持っていたからなのか、貴子との時よりは随分余裕を持ってあいさつができた。裕之は白いものこそ多いが、髪そのものにはボリュウムがあったので、真一さんもはげないのだろうか、でもおじいさんがどうだったのかが分からないわね、などと余計なことを考えて、我ながらおかしくなった。

「さっそく手伝わせてしまっているみたいで、悪いねえ」

 一応恐縮したように言うが、裕之の目は細められ、嬉しそうに美奈子を見ている。そのままキッチンとは反対側に置かれているソファに一旦腰かけて新聞を広げたりたたんだりしていたが、なんとなく落ち着かないらしく、

「さて、と。ちょっと僕は片付けなくちゃならないことがあるので、失礼するよ。後でまた」

 と言って奥の部屋に退散して行った。その様子を見送りながら、真一がおかしそうに

「あれでも、照れてるんだ。今日は休みだから、することなんて、ないんだけどね」

 と小声で美奈子に言った。キッチンの方で貴子が、うふふ、と笑うのが聞こえた。なんでもない日常の、なんでもないやりとりだが、美奈子は久しぶりにこういう空気に触れたな、と感じた。父が生きていた頃は、二人きりの家族ではあったが、似たような和やかなやりとりがあったものだ。それをほのかに思い出して暖かな気持になった美奈子は、ふとこみあげてくるものを感じてあわててうちわを振る手に力を込めた。こんな、なんでもない場面で涙ぐんでしまったら変に思われてしまう。だからそれを悟られないようにとこらえたのだが、すぐ目の前にいる真一は、寿司飯をかき混ぜるのに熱中しているのか、全く気付いた様子はなかった。

「さて、だいたいできて来たけれど、そっちはどう、真一」

「うん、もうそろそろいいんじゃないかな」

 キッチンから届いた貴子の声に、コンビネーションよろしく、真一が応じる。

「じゃあ、そろそろお父さんを呼んできてくれるかしら」

 言われた真一が、裕之のいると思われる奥の部屋に向かった。

「美奈子さん、悪いけれど、食器出すのを手伝ってもらえるかしら。」

 声をかけられた美奈子は、弾かれたように立ち上がった。真一が立ち去った後、一人残されてどうしようかと考え始めていたために、すべきことが与えられてほっとした、というところもある。貴子が自分のことをお客さん扱いせずに声をかけてくれたということも、単純に嬉しかった。

 貴子が取り出した食器をテーブルに並べていると、キッチンの方からじゅわじゅわっという音がしたかと思うと、香ばしい匂いが漂ってきた。そういえば、サケずしを真一と美奈子に任せた貴子はキッチンにいたが、何を作っているのかは分からなかった。音と香りに驚いた美奈子は顔を上げてキッチンの方をのぞき込んだ。それに気づいた貴子が、にっこり笑ってサラダボウルを持ち上げて見せた。

「これね。ごま油を熱して、サラダにかけるの。水分と触れて音がなるからびっくりしたでしょう。でもこれが、結構おいしいのよ」

「そんなやり方があるんですね、初めて見ました。でも、とってもいい匂いがします。おいしそう」

「こうやってね、ポン酢をかけたらできあがり。いつもはタコを入れるんだけれど、今日は他のもあるからちょっと簡単にカニカマでね。じゃあこれも、美奈子さんに取り分けてもらおうかしら」

 貴子はそう言って、サラダボウルを美奈子の方に差し出した。

「はい」

 と歯切れよく応えてそれを受け取った美奈子に、

「はい、これ」

 とトングが手渡される。貴子と真一のやりとりと同じように自分も応じられているということが、美奈子には無性に嬉しく心地よかった。ただ緊張しているだけだったら、こぼしてしまったらどうしようかとか、きれいに盛り付けなくては、などと気を遣い過ぎて、かえって粗相をしてしまいそうなものだが、その場にいることを嬉しく感じられた美奈子にとっては、その作業も楽しいものだった。食器を並べたり、サラダを盛り付けたり。そんなことをこんなに楽しいと思ったのは、いつ以来だろうか。家族、か。真一から会ってほしいと言われて戸惑った日のことを思い出した。来てよかった、と美奈子は思った。


「美奈子さんは看護師さんなんだってね」

 買ってきた缶ビールを開けながら、上機嫌で裕之が言った。美奈子が注ごうとしたのを、そんなに気を遣わなくてもいいから、と手で制して、自分でグラスに注ぎ、一気に半分くらいを飲み干す。口の上に白いあわのひげをつけて、

「ああ、うまい」

 と小声でうめくように言う。後味というかのど越しを味わっている様子の裕之に、美奈子が答えるタイミングを失っていると、

「僕が入院した時にさ、担当してくれていたんだ」

 真一が代わりに応えた。美奈子は真一の鼻梁に見入ってしまった時のことを思い出した。

「看護師と患者って、本当にあるんだねえ」

 裕之が妙に感心しながら、うなずく。昼から吞んだからなのだろうか、それとも元々そんなに強くない方だからだろうか、心なしか、すでに顔が赤い。

「で、どうだったの、こいつの第一印象」

 裕之が美奈子を見ながら、グラスで真一の方を指して尋ねた。

「姪孫っていう言葉を教わったんです」

 美奈子はあえて、見入ってしまった真一の顔ではなく、言葉のやり取りの方を紹介した。単純に、顔に見入ってしまったと言うことが照れ臭かったからである。

「てっそん? なんだい、それは」

「兄弟の孫のことをそう言うんだそうです。たまたま他の患者さんと私のやり取りを聞いていて、真一さんが教えてくれたんです。物知りなんだなあって、それが第一印象です」

「へえ、物知りか」

 裕之が今度は真一を見る。真一は少し照れ臭そうに鼻の頭を指先でかきながら、

「そんなこともあったねえ」

 と答えた。

「そんな言葉、どこで覚えたの? 聞いたこと、ないわよ、私も」

 貴子が心持ち首をかしげて、不思議そうに尋ねる。

「一応、出版関係の仕事をしているからね。とは言っても、しょっちゅう使う言葉じゃないから、僕もすらすらと言えたわけじゃない。実はさ、美奈子さんと花岡のおばあちゃんのやりとりを聞いていて、僕のところに来たら教えてあげようと思って、必死に思い出していたんだ」

「あ、花岡のおばあちゃんっていうのは、真一さんと同じ病室で手前に入院してらした方なんですけれど」

 突然名前が出てきたので、美奈子はとりあえず補足をした。姪孫のことについてはさらりと言ってのけていた印象があったが、実は懸命に思い出そうとしていたのだということを初めて知った。貴子が少し微笑みながらそういう二人の様子を見ている。

「息が合ってるじゃない、二人」

 と言いながら、大皿に盛りつけた料理を指した。

「これもよかったらどうぞ」

 美奈子が答えるよりも真一の方が早く、手を伸ばす。鶏のから揚げだった。

「好きなんだよな、これ」

 一切れをそのまま口に運びながら、嬉しそうに言った。美奈子も一切れ、自分の手元の小皿に載せてみる。

「どこにでもあるものだけれどね。それにお寿司にから揚げって、組み合わせがバラバラでごめんなさいね。せっかくだから、この子の好きなものにしてみたの」

 なるほど、そういうことか。美奈子は納得しながらそのから揚げを口にしてみた。思った以上に柔らかくて、肉汁が口中に広がる。

「美味しい、とても柔らかでジューシーだわ。どうやって味付けをしてるんですか」

「特別なことはしていないわよ。鶏肉をお酒としょうゆとしょうが汁につけこんで、キッチンペーパーでふきとってから片栗粉をまぶして油で揚げるの。代り映えはしないけれど、割と手軽にできて、しっかりおかずになるでしょう」

「お酒とお醤油と、しょうが汁、でしたっけ。しょうが汁って、市販のですか」

 美奈子は、小声でつぶやきながら、頭の中でそれを繰り返す。メモを手元に持っていないことを後悔した。貴子がその様子に気付いたのか、

「しょうがを擦って、絞るのよ。後でレシピをメモしてあげましょうか」

 と言った。

「いいんですか。是非お願いします」

 美奈子は声を弾ませた。母から料理を教わったという経験がない。料理だけではない。化粧やファッションのことから進路や気になる男子のことまで、母に教わったり相談に乗ってもらったりするということを友人たちから聞かされてきたが、どこか遠い世界の話だった。それがこんな形で実現するかもしれないということは美奈子にとって驚きだった。

 そう言えば、さきほどのサラダ。美奈子は自分で盛りつけたサラダを食べてみた。ゴマの薫りが口の中に広がる。

「これも、おいしい」

 思わず声に出た。玄関で、スリッパに足を入れることがためらわれるほどに緊張していたのがまるで嘘のようだ。おいしい食べ物は、気遣いや緊張を吹き飛ばしてくれるのだ、と思った。

「いけるだろ、これも。かにかまじゃなくてタコを入れるのも好きなんだけどね」

 真一が美奈子にならって、サラダで口をいっぱいにして、嬉しそうにしている。貴子がいつもはタコを入れるのだと言っていたので、それを裏付ける格好になった。こんなところにも、家族の息の合った様子が現れているのだと思うと、少しおかしくなる。

「美奈子さんは、料理なんかはするのかな」

 食べる話になっているのに合わせてか、裕之が再び加わってきた。

「いえ、私は料理はそんなに得意じゃなくて」

「ああ、忙しいしねえ。看護師さんって、夜勤なんかもあるんでしょう」

「ええ、夜勤明けの時なんかはなんにもする気になれないですけれど」

 答えかけて、美奈子はふと気付いた。忙しくて料理などする時間がない。事実そうだし、同僚たちとの会話の中でもやってられないよね、などという言い方がある種の習慣のようになっている。けれども、今のこの場で、それをそのまま出してしまっていいのだろうか。もちろん、具体的に結婚云々の前提でここに来ているわけではない。だからと言って、それを全く意識していないわけでもない。そもそも、家族に会ってほしいのだ、ということそのものが、真一のプロポーズだったのだから。そしてそれは、美奈子だけではなく、裕之と貴子も同じだろう。息子の嫁としてふさわしいのかどうか。そんなに意地悪な思いではないにせよ、意識していないはずもないだろう。居心地が良すぎて、つい馴染みの知己の中にいるような気持ちになってしまっていた。飾る必要がないということと、配慮をしないということとは別だ。

「あ、でも夜勤は月に何度かだけです。公休もあるから日中自由に動ける日もありますし」

 と、少し慌て気味に続けた。

「休みの日は何をしているの」

 貴子が引き取る。美奈子が慌てて取り繕おうとしたことは恐らく見抜かれている。その上での休日についての話題。これは助け舟を出してくれたのか、それとも本当のところを見極めようとされているのか。迷っても仕方がないのだが、美奈子が答えるのを少しだけためらっていると、

「野暮なことを聞くもんじゃないよ、ねえ。休みの日はデートだろうに」

 と裕之が横やりを入れた。美奈子の一瞬の沈黙を、照れだととらえたのだろう。見当違いもはなはだしいが、人の良さはにじみ出ている。何故かそれを真に受けて、

「いやあ」

 と照れている真一を見て、親子だなあ、と少しおかしくなってしまった。おかげで余裕を取り戻した美奈子は、

「と言ってもお休みの日を合わせるの、なかなか大変で。だから、一人の時は掃除とか洗濯とか、たまった家事をしていることが多いです」

 と答えた。こんなところで取り繕ったって、仕方がない。そう思えた。

「私はこの人と結婚してずっと専業主婦だったから想像できないけど、働きながら家事って、色々大変でしょう」

 貴子は形の良い眉を軽くしかめて言った。決して嫌味ではなく、本心で気遣ってくれているのが分かる。

「いえ、私、得意ではないけれど、家事は嫌いじゃないんです。父と二人っきりだったもので、子どもの頃から家のこと、していましたから」

 ほう、と裕之のため息が小さく聞こえた。ややうつむき加減なので、踏み込んではいけない話だと思ったのかもしれない。しかし貴子は続けた。

「お父様は、ご健在なの」

 真一が貴子の方を見て、小さく首を振ったのが分かった。真一もまた、気を遣っている。美奈子は真一の目を見て小さくうなずき、

「父は私が高校に入った頃に、亡くなりました」

 と答えた。大丈夫。その当時はもちろん悲しかったけれど、今の私にとって、父の死は触れられないようなものでも隠さなければならないことでもない。

「そうだったの。でも、とても立派なお父様だったのね」

 美奈子を見る貴子の目は柔らかく微笑んでいる。確かに立派な父だった。でもどんな人だったのかということについて、美奈子は何も話してはいない。どうしてそんなことを言うのだろう。やはり気を遣われてしまったのだろうか。貴子は美奈子の表情の中にそうした怪訝な感情を読み取ったのか、

「あなたを見ていれば分かるわ、美奈子さん。こんなに素敵な娘さんに育てられたのだから。子は親の鏡って言うでしょう」

 と続けた。他の人が言ったら、場合によっては単なる気休めか社交辞令にしか聞こえなかったかもしれない言葉だが、貴子の上品な唇から発されると、全てを受け留めてくれたのだ、という安心感が生まれてきた。

「ありがとうございます」

 美奈子は心から、そう答えた。自分ではなく、父がほめられたのだと感じることができ、嬉しかった。

「これ、本当においしいです」

 から揚げをもう一口食べ、美奈子は言った。レシピではなく、一緒に作りながら教えてもらいたいと思った。


 裕之と真一が、ソファにかけてテレビをつけた。昼下がりの時間帯なので、ワイドショーとか再放送のドラマばかりで、気に入った番組が見つからないのか、しばらくリモコンをもてあそびながらあちこちのチャンネルをうろうろしていたが、結局は適当なところで止めて、ワイドショーを観始めた。ただ、そんなには関心のない番組なのか、そもそもテレビを観ようという気分ではないからなのか、ただテレビの方を向いて座っているというだけで、観ている様子はなさそうである。真一にいたっては、美奈子と貴子の方が気になって仕方ないようで、そわそわとキッチンの方をのぞき見ていた。

 食事が終わると片付けをするために立ち上がった貴子が、美奈子に声をかけた。

「片付けてコーヒーにしようか。手伝ってもらっていいかしら」

 ここでも、お客様扱いではなく、手伝うことを自然に求められたことが、美奈子には嬉しかった。それ以上に、貴子と一緒にキッチンに立つということが、嬉しかった。

「じゃあ、私が洗っていくから、美奈子さんはすすいでいってもらっていいかしら」

 と言いながら、貴子は手早くやかんに水を入れ、コンロにかけた。食器を洗いながら、その後コーヒーを淹れる準備にも入っている。美奈子は、その段取りの良さにもまた、感心した。元々そんなに器用ではない美奈子は、看護師として働きながら、段取りよく動くということについて随分叱られもしたし、苦労もしていたので、自然と関心が向いてしまう。

 そんなことを考えている間に、貴子の方は、グラスから始めて次々に食器を洗っていく。すすぎを任された美奈子は慌ててそれにとりかかったが、洗い桶の中にはどんどん洗い終わった食器がたまっていった。それに、万一手をすべらせて落としてしまったりしてはいけないと思うので少々慎重になっており、その上、どうしたらこんなに手際よく洗えるんだろうと貴子の手元を見たりもしたので、余計に時間をくってしまう。美奈子がようやくグラスとサラダのボウルをすすぎ終えた時には、貴子の方はほぼ全部の食器を洗い終わってしまっていた。

「すみません、遅くって」

「いいのよ、勝手も違うでしょう」

 恐縮する美奈子に優しく答えながら、貴子はすすぎの終わった食器を拭き始めた。たまっていくことがなくなったので若干気持ちにゆとりのできた美奈子は、

「さすがに手際が違いますよね、私、全然追いつきそうにないです」

 と感想を口にした。率直なところ、あまりの手際の良さに舌を巻いており、子どものころから家事をしていた、などと言ってしまったことを後悔している。

「大丈夫よ。私なんて結婚するまではほとんど家の手伝いをしたこともなかったから、始めはもっとドタバタしていたわ。三十年近く毎日やっていればね、自然に慣れるものよ」

 三十年、か。自分が生まれる前から毎日。かなうはずもないな。私も、三十年したらこんな風になれるのだろうか。そんなことを考えて、美奈子は小さくため息をついた。そして、その三十年はもしかすればこの人たちの家族として過ごすことになるのかもしれないとも思った。

 だとすれば、どうしても聞いておかなければならないことがある。貴子は結婚してからずっと、専業主婦だったと言った。貴子は、そして裕之は、それが夫婦の在り方だと思っているのだろうか。この二人に関してはその姿がとても自然で、素敵だと思う。けれども、自分がどうするのかと言われれば別の話である。看護師という仕事を天職とまで考えているわけではない。しかし、父が残してくれたお金で専門学校にも行くことができて、取れた資格だ。そういう意味では、看護師免許は、美奈子にとってはただの生活の糧というだけではなく、父の形見のようなものでもあった。

「あの……」

 最後の皿をすすぎながら、美奈子は言った。

「結婚されてからずっと専業主婦と仰いました、よね」

「そうね」

 貴子は余計な言葉をはさまず、美奈子の続けるのを待った。

「やっぱりその、女は家庭に入るべき、と考えてらっしゃいますか」

 美奈子は自分の声が一気に硬度を増したのを自覚していた。もしかすれば、せっかくの暖かな時間が、それで終わってしまうかもしれない。けれども、いつかは尋ねなければならないことだ。答えを聞くことは恐ろしかったが、確認しないままでは、この先には進めない。そう思った。

 貴子の手が伸びてきて、水道の蛇口を閉めた。続けて固くなっている美奈子の手の甲にそっと触れ、それから、すすぎの終わった皿を美奈子の手から受け取った。

「美奈子さん。大切なことはね、何をするか、じゃなくて誰といるか、ということだと、私は思うのよ。それさえ間違えなければ、家に入ったって、働きに出ていたって、それはあなたたちが決めればいいことじゃないかしら」

 皿の水分をぬぐいながら、貴子はゆっくりと言った。この人は、私の迷いも含めて受け止めようとしてくれているのだ。おかあさん。そう呼べればいいな、と美奈子は思った。

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