第5話
貴子達とはじめて会ったのは、真一との三度目のデートの後だった。海辺のバーベキュー場で、火バサミを使って炭火を調整していた真一が突然、
「美奈子さん、次の休みの時に、僕の家族に会ってくれませんか」
と言い出したのである。
二度目のデートは美奈子のショッピングに付き合ってもらっていた。たまたま前を通りかかったアウトドアショップのショウウインドウを見た美奈子が、何の気なしに
「バーベキュー、いいですね」
と言った。遊園地や公園などにはしばしば連れて行ってもらったが、キャンプや海水浴などには行く機会はなかった。父は一人で自分を育ててくれたから、娘を遊びに連れていく先としては、あまり思いつかなかったのだろう。軽い思い出話のつもりで続けた美奈子に、真一は間髪を入れずに
「是非行きましょう、川口さん。僕、車は運転できないのですけれど、電車で行けるところもあると思いますから。ええと、その、み、美奈子さんって呼んでいいですか」
と申し入れた。少し声がうわずっている。姓でなく名前で呼びたい。それを言うタイミングを待っていたではないかと思われたが、美奈子はそれに気づかないふりをして、
「いいですね、バーベキュー。連れて行ってくれるんですか……真一さん?」
と答えた。もちろん、そんな風に呼ぶことが実は美奈子の方も平気ではなかったが、なんとか声をうわずらせるのはこらえて、平静を装ってみた。ただ、鼻がふくらんでしまっていることを自覚していたが、幸い、真一の方もそれに気づくゆとりはないようだった。
美奈子にとっては少し意外だったことに、色白で、どちらかというとインドア派に見える真一が、バーベキュー用のコンロを器用に組み立て、手早く炭火を熾しにかかってみせた。美奈子が自分も経験がないというのを棚に上げて、
「手慣れたものですね。真一さんって、アウトドアなんかあまりしないイメージがあったので、びっくりしました」
と言うと、真一はうちわでコンロの炭をあおぎながら、
「実を言うとね、僕も初めてなんだ。美奈子さんとバーベキューをするために、練習してきたんです」
と答えた。時折敬語が入り混じっているあたり、緊張感が伝わってくる。真一なりに親しく話そうと試行錯誤しているのがよく分かった。バーベキューの練習をするという話もあまり聞かないが、言われてみれば、はじめて十分と経っていないのにすでに汗まみれになっている様子が、不慣れであることを証しているようだ。それに、そう言えば真一が持ち出した一連の道具――コンロだとか火ばさみだとか――も、使い込まれたようには見えず、ほとんど新品のようだった。
「練習、したんですか」
「ええ、ベランダでね。さすがに火をつけるわけにいかなかったから、組み立ててセッティングするところまで」
入院していた時の真一は知的で落ち着いていて、患者として横たわっていたにも関わらず、頼もしい大人に見えた。ところが、退院してディズニーランドやショッピングモールで会った時には、どこか不器用で、頼りなげにさえ見えるところがある。
「かわいい」
自宅のベランダで一人、バーベキューコンロを組み立てる練習をしている真一を想像して、美奈子は思わず小さく噴き出してしまった。真一の方は、ややはにかみながら、苦笑いをしている。
「笑わないで下さいよ。……それにしても、炭ってなかなか思うように火がつかないもんだな」
そう言いながらも懸命にうちわを動かし続けている。
「本に書いてある通りに組んだんだがなあ」
「組んだって、コンロのことですか」
「いや、炭のことだよ。ただ積み上げるだけじゃだめで、空気のね、通り道を作ってやったらいいって書いてあったんだ。ほら、ここのところ、隙間があるでしょう」
真一がコンロの上の炭火を指さした。
「ふうん」
美奈子がそれを見ようとして膝をかがめ、言われるままに積み上げられた塊に顔を近づけると、同じタイミングで真一の方も顔を近づけた。ちょうど、炭火を前に、二人が頬を寄せ合ってのぞきこむようなかたちになったが、互いに申し合わせたように、気づかないふりをしている。そのくせ、少し勿体無いような気がして、そのままの姿勢で離れようとはしなかった。
ほんの数秒のことだろうけれども、二人にはずいぶん長い時間に感じられた沈黙があった。その後真一が、積み上げられた炭をまっすぐに見つめたまま、一言一言を確かめているようにゆっくりと、言った。
「美奈子さん、次の休みの時に、僕の家族に会ってくれませんか」
「え……」
美奈子には、何を言われているのかとっさには判断できなかった。
「カゾクニアッテクレマセンカ」
同じように炭から目を逸らせないまま、頭の中でしばらく真一の言葉を繰り返す。そのまま動けなくなってしまった二人はやはりしばらく、互いの頬を至近距離に感じながら、炭火の奥で燃えている、着火剤の火をのぞき込んでいた。
はじめにその均衡を崩したのは美奈子の方だった。体を起こして立ち上がり、半歩だけ、下がった。無意識に、手のひらで自分の頬を触ると、火に近づいていたためか、熱い。でもそれよりも内側から湧き出た熱の方が、頬を赤く染めていた。目だけは、火の方に固定されている。
「あの」
遅れて真一が立ち上がり、美奈子と向き合う形になった。美奈子は何か言わなければ、と思うのだが、それ以上に言葉は出てこない。
「すみません、突然。でも、本気なんです。僕とその、結婚を前提にお付き合いしてください」
一気に言い切ると、真一はそこで言葉を切った。今度は美奈子の目をまっすぐに見つめている。まさかそんな台詞を、自分の耳で聞くことになるとは思っていなかった。美奈子は答えることができないまま、体中が石になっていくのを感じた。望んでいなかったわけではない。でも、そんな言葉を受け入れる準備はまだ、できていない。それに、真一は家族に会ってほしい、と切り出したのだ。美奈子は自らの家族の姿を、意識の中に呼び起こそうとした。しかし、母の顔を美奈子は知らなかった。たった一人の肉親だった父の顔も、何故か霧の中にあってはっきりとした像を結んでくれない。真一の端正な顔が息をこらすようにして美奈子を見つめていた。
「いないんです」
「え……?」
「わたしには家族、いないんです。だから」
「だから?」
「真一さんの家族に、どんな顔をして会ったらいいのか、分からないんです」
今度は、真一の方が言葉を失う番だった。まだ、出会ってから日も浅い。病院にいた時には、勤務中の美奈子と個人的な話をする機会はほとんどなかった。こうして二人で会っていると色々な話はできるが、そうは言ってもまだ三度目である。美奈子の母が早くに亡くなったということを聞いてはいたが、それ以外にはどういう家族環境の中にあるかなど、何も知らない。真一自身も、会って欲しいとは言ったものの、どんな家族なのか、まだ何も伝えてはいない。少し早まってしまっただろうか。頭の端を、そんな思いがよぎったが、いや、決してそんなことはない、と打ち消す。いい加減な気持ちではないのだということを伝えておくべきだ、という思いは変わらない。結婚を前提とした付き合いを申し入れようとしたのだ。家族と会って欲しいというのは、直接結婚という表現を持ち出すよりも話しやすいだろう、というきっかけくらいのつもりだった。しかし、美奈子はむしろそちらの方に大きく反応している。少なくとも、話の切り出し方としては、まずかったということを認めざるを得ない。あたりは平日とはいえ、家族連れや若者たちのグループでそれなりににぎわっている中で、真一と美奈子の周りだけ、静まりかえっていた。
「すみませ……」
「ごめんなさい。真一さんが謝ることじゃないですよね。分かっています」
何をどう言ったらいいのか分からないまま口を開いた真一の、言葉を遮るように美奈子が続けた。
「私がまだ赤ちゃんの頃に、母は亡くなったんです。何故だか写真も残っていなくて。だから、母のことは、顔も知らないんです。よく面倒をみてくれていた祖父母も小学生のころに亡くなっていて、高校生になってすぐに父が亡くなってからはずっと一人でいたんです。その、うまく言えないんですけど、誰かと一緒に暮らすということが想像できなくて」
伏せられた美奈子の目は、真一の足下のあたりを向いているように思えた。
どうしたら、この人のことをを抱きしめてあげられるのだろう。真一はこれまで考えたこともない命題について、真剣にしかも唐突に考える必要に迫られた。結婚を申し込もうということはもちろん真剣に考えた結論だが、それは美奈子と一緒に暮らすことをシミュレートしたもので、美奈子の心の中にまで想像が及んでいたわけではない。形の上でのことではなく、美奈子自身とどう向き合えるのかという本質的な問いだった。
「うわ、真っ白」
甘酸っぱい沈黙を破ったのは、どちらでもなく、バーベキューコンロだった。真一がうちわの動きを止めたためか、着火剤の火が消えて白い煙が一気に吹き出してきた。
「すごい煙だけど、大丈夫かしら」
「多分、大丈夫だと思うんだけれど」
二人とも、口元を押さえながら煙に追われるように、数歩ずつ、後退りをした。真一が再びうちわを動かすと、白い煙はすぐに見えなくなり、替わりに淡いオレンジの炎が、ぽっという小さな音と共に現れ、炭の周りに張り付くように広がった。焚き火などで見る紅くて濃淡のある炎と比べて、淡い色が一様に見える。真一はそのまましばらく慎重に、ゆっくりとうちわで風を送り込みながら黙ってその火を見つめていた。なにか神聖な儀式を執り行っているかのように、二人は、コンロの前に神妙な面持ちで控えていた。
「急に燃え上がる炎よりも、つくのに時間はかかるけどこういう炭火の方が、長く燃えていられるんだろうね」
真一としては特別に意識したわけではないし、深く考えたわけではない。ただ、炭の上から立ち上がる炎を見ていて、自然と出てきた感想を口にしただけだった。しかし美奈子ははっとしたように、顔を上げ、真一の横顔を見つめた。
「急がなくても、いいということですか」
真一に魅かれていることは間違いないと思う。けれども、他の友人たちのように、自分のその気持ちに素直にはなかなかなれない。もし、失われることになれば、と考えてしまうと、どうしても一歩踏み出すことをためらってしまうのだ。急には燃え上がることができない。でも、時間はかかっても炭火の方が長く燃えていられると真一は言った。そんな自分のことを、真一は待ってくれるというのだろうか。
「急がなくても、いいさ。僕はこういうことが苦手で、どうも上手に持って行くことが出来ないんだけれど、だから突然な言い方になっちゃったのだけれど、慌てることはないとも思っています。ただ、いい加減な気持ではないということだけ、伝えておきたかったんだ。も、もちろん、君のペースに合わせるつもりです。君がいいと思えるまで、いつまでだって、待ちます」
さすがに真一も、様子を見て美奈子の気持ちが少し分かった。だから考えていることを、誠心誠意伝えるべきだと思った。しどろもどろになりながらも、真一は思いのたけを語った。
「……どんな方なんですか。真一さんの、家族って」
美奈子は再び炭火の方を見つめながら、言った。真一の誠実さは十分に伝わっている。一生懸命話している様子を見て、少しかわいらしいとさえ、思った。大丈夫。自分自身にこっそり、そう言い聞かせながら、美奈子は続けた。急がなくてもいい。そう言ってくれたのだから、じっくり考えてみよう。そして、真一の家族にも、会ってみよう。何かを決断するためでもなく、すでに決断したわけでもなく、ただ、会ってみたい。そんな風に、思った。
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