第4話

 真一の方も、しどろもどろになって退室していった美奈子の態度どう捉えたらよいのか分からなかったらしく、その後美奈子に積極的に話しかけてくることはなかった。美奈子ももちろん自分の方からその話題を持ち出すことはなかったため、そのままで時間が過ぎ、相変わらず倒れた原因は不明のまま、状態が回復したということで真一はとりあえず退院することになった。

 その日は、美奈子は遅出勤務だった。出勤した時には、タイミングによっては、真一はもう退院しているかもしれない。それでもどうしようもないし、第一、医療職として患者が軽快して退院することは喜ぶべきことである。どこか強引に、ざわつく気持ちを抑え込んでわざとゆっくり、出勤時刻ぎりぎりに、ナースステーションに入った。

「結局どうなったのよ、ディズニーランド」

 申し送りが終わってそれぞれが動き出したタイミングで、高木真紀が近寄ってきて、軽く肩をぶつけながら小声で聞いてきた。どうせそういう追及を受けることが予想できたので、あれ以降はこの友人からも少し距離をとっていた。

「どうもなっていないわよ。なるわけ、ないじゃない」

 真一の退院については申し送りの中で報告されていた。サマリーを整えたりしたのも美奈子自身なので、当然把握している。高木真紀の予想通りの追及に軽く眉をひそめながら、美奈子は病室に向かった。朝のルーティンは一通り終わっているので、個別の処置の時間になる。受け持ちの三〇三号室に向かう。一番手前の、真一のベッド。きれいに片付けられて、シーツなども外してある。退院の準備ができていても本人が荷物の整理のために残っていたりすることもあるが、当の真一の姿はなかった。枕頭台の周りにも忘れ物ひとつなく、むしろ昨日までそこに寝ていたという痕跡すら残っていない。ちょっとくらい何か忘れていてもいいのに、などと少々乱暴なことを考えながら、もしかして顔を見ることができるかもしれないという淡い期待が外れてがっかりしている自分に、今更ながら驚いた。

「誰や。川口さんか」

 背後で、花岡信子の声が聞えた。カーテンを閉じて仰向けに寝ていたので、病室に入ってきた足音だけが聞えて、美奈子のことが見えなかったのだろう。

「あ、はい、おはようございます。花岡さん、具合はいかがですか」

 美奈子はとっさに看護師の顔を取り戻して、信子のベッドに向かう。カーテンを少しだけ開けて覗き込んだ。

「あのお兄ちゃん、退院していったで、ついさっき」

「ええ、そうですね。すっかりお元気になられて」

 花岡さんも、と言いかけて、相変わらず息苦しそうにしている信子に無責任な声かけは止めよう、と思いとどまった。

「……ちょっと来てくれるかな」

 枯れた手首が持ち上げられて、人差し指だけの手招きが見えた。少し体調が良くないようで、起き上がれない。

「どうしましたか」

 美奈子は柔らかく言って近寄っていくと、手首だけが別のもののように回転し、手招きしていた人差し指が枕頭台の方に向けられた。

「すまんけどな、その引き出しを開けてくれるか」

「真理子ちゃんでしたっけ。また面会に来てくれるんですか」

 姪孫……弟さんのお孫さんだったよね、と思い出しながら、美奈子は言った。

「ちゃうちゃう。その手前に、鍵置いたあるやろ」

 確かに引き出しの中には、例の漢字ドリルの手前に、一見して鍵だとは分からないほどに様々なキーホルダーが集められたものがある。

「これ、ですか」

 持ち上げてみると、雑多なキーホルダーが十個くらいぶら下がっていて、その中に二本ほど、小さな鍵がこっそりのぞいている。

「これだけキーホルダーがついてたら、なくすことはないですね。ちょっと重いけれど」

「よう見てみ」

 どうやら、それでどこかの鍵を開けてほしいという話ではなさそうである。取り上げて、信子の顔の前近くまで持っていって、一緒に覗き込んだ。木彫りのものやプラスチック製のプレートや金属製のオブジェ的なものまで、色々と入り混じっている。中に、ゴム製の、ミッキーマウスのマスコットがあった。

「あ、ミッキーですね。誰かのお土産ですか」

「うちが、でずにいらんどで買うてきたんや」

「でずにい……ああ、そうか。へえ、花岡さん、ディズニーランドに行かれたんですか。あ、そうか。真理子ちゃんと一緒ですね」

 結構子煩悩、じゃなくて孫煩悩。いや、姪孫煩悩? なんだな、とごく最近仕入れた語彙を用いて頭の中で感想を巡らせた。なんだか、そのやりとりから随分時間が経った様な気がする。

「ちゃうで。うち一人で行ったんや。もう何回か行ったで」

「一人で、ですか。元気ですよねえ」

 美奈子は信子が一人でディズニーランド内をうろうろしている姿を想像した。この人だったら、意外とミッキーのカチューシャなんかを頭につけて楽しんでるのかもな、とも思う。

「いつか、なんて思ってたらなかなか行かれへん。それにうちはな、来年も生きてるとは限れへんやろ。そやから、行きたいて思ったところへは、すぐ行くようにしてるんや」

 いつの間にか信子の乾いた手が、美奈子の手に重ねられていて、目はキーホルダーではなく美奈子自身のことをじっと見つめている。それから信子は、キーホルダーからミッキーマウスのマスコットを取り外すように美奈子に言った。

「あの兄ちゃんに、渡したげてや」

 そのままマスコットを美奈子に握らせて、信子は言った。

「あんたもな、後悔せんように、行く時は行かなあかんで」

 まさか、信子からそんなことを言われるとは思ってもおらず、美奈子はしばらく口をぽかんと開けて呆けた顔をさらしていたが、話は終わったとばかりに目を閉じて、振り払うように動いた信子の手首を見て、我に返った。「花岡さん、ありがとう。これ、お預かりしますね」

そのまま信子のミッキーマウスを握りしめてナースステーションに戻ると、

「すみません、あの、山田さんに忘れ物、届けたいんですけど、まだ下におられますよね」

「ついさっきあいさつしておられたから、もしかしたらまだ一階についてないくらいじゃない? どっちにしても受付で清算があるから、間に合うと思うわよ」

 高木真紀がにやにやしながら、そう答えた。構っている余裕はなく、美奈子は踵を返して駆け出した。


「お返しにって買ってきたぬいぐるみ、結局渡せなかったのよね」

 美奈子は腕の中で泣いている赤ん坊をあやしながら、カウチソファに置いてあるミッキーマウスを見て言った。あの時、会計を済ませて病院の玄関に向かっていた真一になんとか追いつき、信子から託されたミッキーマウスのマスコットを手渡した。駆けてきたせいで上がった息のためか、それとも緊張のためなのか、しばらく何も言えずに立っていた美奈子を見て真一はにっこりと微笑み、手渡されたマスコットを顔の高さまで持ち上げて言ったものだ。

「いつにしましょうか」

 その後、互いの仕事の都合でなかなか日程が合わず、しばらくしてからようやく実行できた初デートだったが、二人が信子への土産のつもりで買ったぬいぐるみは、信子の最期の時には間に合わなかった。結婚し、新居に移ってからも、そのミッキーマウスはビニールのカバーに包まれたままで、飾ってある。

傍目には独り言のようにしか見えないが、美奈子としては腕の中の真一に向かって話しかけているつもりだ。我ながら不思議な感覚ではあったが、話しかけていると、だんだん真一にしか見えなくなってきた。


 貴子は待つほどもなく、夫の裕之と二人で大量の荷物を持って、現れた。まだ開店していない店もあるくらいの時間だというのに、一体どこで買ってきたのか、美奈子が要望した新生児用の紙おむつと粉ミルクの他に、ベビー服からお尻拭き、それに哺乳瓶やそれを煮沸消毒するための器具に至るまで、大きな紙袋にたっぷり二つ分はあった。

「ごめんねえ、待たせちゃったわね。とりあえず目につくものは買ってきたけど、落ち着いてからまた買いに行けばいいからね。どれどれ、まずはおばあちゃんに顔を見せてちょうだい」

 と、玄関先で靴を脱ぐのももどかしそうである。


「こんにちは、おばあちゃんですよう。まあ、お父さんの赤ちゃんの時とそっくりですねえ」

 買い出してきた荷物を美奈子に手渡し、引き換えに赤ん坊の体を抱き上げると、手慣れた手つきであやし始めた。小一時間近くはぐずぐずと泣き続けていたので少々疲れ始めていたのか、真一と思われる赤ん坊はほどなくすやすやと寝息をたて始めた。

「あら、寝ちゃったのね。おむつだけ、しときましょうねえ」

 貴子はそう言ってソファに腰掛けると、裕之に目で合図して持参した荷物の中から紙おむつを取り出させた。

「あ、お義母さん、私が」

 美奈子がその紙おむつを受け取って貴子と入れ替わる。仕事柄、大人用の紙おむつは見慣れているが、子供用の、それも新生児用のものとなると、事情が違う。サイズ感だけで既に可愛らしさがある。タオルに生理ナプキンをつけて巻いたのは我ながら良いアイデアだと思ったのだが、本物の紙おむつを前にすると何とはなくバツが悪く、特に義父には見られたくないと思って慌てて丸め、ついでにそれでお尻の周りを軽く拭いてやった。おむつをつけ終わるとすかさず貴子がおくるみを差し出す。このあたり、さすがに貴子はよく見ている。義父のの裕之は貴子の指示に従って、買い物袋の中身を取り出しては開封し、テーブルの上に並べている。貴子のように器用ではなかったが、どこか浮き浮きと楽しげな様子を見せている。

「で、名前はもう決めたのかい?」

 裕之がソファの上を覗きながら、少し遠慮がちに言った。本当は赤ん坊に触りたいのだが、貴子の許可を得ずに近づくと叱られると思っているようだ。貴子の方も、それを分かっていて、あえて無視しているのだろうか。これまでの子育ての中での経験からそういう距離感ができてきているのかもしれない。

「ええと、そのお、しん‥たろうなんてどうかなって」

「どんな字を書くんだい」

 美奈子はとっさに思いついた名を言ってしまったが、裕之は嬉しそうに目を細めている。貴子の方も、ソファの赤ん坊から目を上げて、やはり美奈子を見つめている。

「真一さんの‥真です」

 今更引けなくなってしまって、美奈子は続けた。口にしてから、真太郎か、と頭の中で繰り返すと、なんだか本当にそんな気がしてきた。

「それで、真一はどこに行っちゃったの? 子どもを放ったらかしにして」

 貴子が、形の良い眉をかすかにしかめる。確かに、この状況で夫が不在にしているというのは尋常ではない。とは言え、突然新生児が現れたので何の準備もできていない、という状況の方が既に事件である。

「ええ、あの、私も何も聞いていないんですけど、急に仕事でも入ったのかなと思うんですけど」

「仕事か。じゃあ仕方ないか」

 裕之の方は仕事ということで素直に納得したようだが、貴子の方は表情の険しさをかえって増している。

「変ね。仕事だからって、何も言わずに出て行くなんて、真一らしくないわ」

 その通りである。仕事に限らず、真一が何も言わずに出かけることなんて、なかった。出張先で予定が急に変更になっても、必ず連絡はこまめに入れてくれていた。ただし、もしソファの上で寝ている赤ん坊が真一なのだとしたら、連絡の入れようもない。

「それにしてもこの子、産着くらい着せてもらえなかったの? どこの産院だったの?」

「え、産院ですか。いえその、そんな準備はなかったので、おうちで」

「うちで? でも、生まれたばっかりじゃないわよね。沐浴もして、綺麗になってるじゃない」

 まずい、追い詰められている。いくら看護師として学んだとはいえ、実際に子育てをしてきた目はごまかせない。

「そのう、ですね」

 美奈子はタジタジになりながら、言葉を探したが、うまく見つけられない。

「とにかく。何か着せてあげなくちゃね」

 貴子はダイニングキッチンに行き、テーブルの上に並べたものの中から産着を取り上げた。特にリクエストをしたわけでないのに、買い物の中にそれが入っているというところはさすがベテラン、というところだろう。

「本当は一旦洗濯してから着せてあげたいんだけどね。着替えがいるだろうと思って買ってきたんだけど、まさか裸でいるとは思わなかったから」

 とげのある言い方だが、それは仕方ないだろう。ただ、今朝目が覚めたら隣に寝ていたという状況だけに、美奈子としてはどうすることもできない。そういう意味で自分の怠慢を責められているという気にはならないので、どこか冷静に聞いていられる。貴子はそのままソファの赤ん坊のところに戻り、お着替えしましょうねえ、とささやくような声で話しかけながら赤ん坊のおくるみを解いた。

「あら、この子」

 赤ん坊の両足をさすっていた貴子が、内股を見て、手を止めた。その手がそっと、右足にある、笹の葉の形をした火傷の跡に触れる。

「これ、火傷の跡よね。それも随分前の。生まれたての赤ちゃんに、古い火傷の跡があるなんて……」

 どう反応していいのかも分からず、美奈子はただ息を呑んで立ち尽くした。貴子はこれを、どう見るのだろう。もちろん美奈子の責任はこれっぽっちもないのだが、事態の異様さがじわじわと足下からはい上ってくる気配がする。

「見覚えがあるわ、この火傷」

貴子が一旦言葉を切って、その跡をじっと見た。そっとその指で触れる。そう時を置かずに貴子は顔をあげた。その目は赤ん坊に注がれ続けている。

「似てるなんてものじゃない。この子……真一なのね」

 そんな馬鹿なことが。あまりの事態に、現実感が持てなかった美奈子だが、義母の口から改めて言葉にされると、その事実がくっきりと意識されてきた。それにしても、あり得るとかあり得ないというような疑問を持つよりも、目の前にいる赤ん坊が真一だと認めることが先に来た。母親だから、だろうか。

「お義母さん……」

「その様子だと、美奈子さんにも何が起こったのか分からないってことね」

「実は、朝目が覚めたらこうなっちゃてて。何をどうしたらいいのか分からなくって」

 それまで抑えてきた感情が色んなところから吹き出してきた。目が覚めてから、まだほんの数時間しか経っていない。けれども、目の前で起こっていることの異様さと心細さ、それに現実に泣き続けている赤ん坊にどうしてあげたらいいのかも分からない不安。それになんと言っても、一番頼りたい相手が話すこともできないという孤独感が、奇妙なことに義母貴子の登場で感じた安堵感と同時に美奈子の頭の中を埋め尽くした。それらが液体になって盛り上がり、美奈子の頬を伝って流れ落ち始めると、止められなくなった。貴子が側に来て、そっと背を撫でる。

「大丈夫よ、大丈夫。私がついてるから」

 誰かと言葉を交わすことがこんなに安心できるのか、ということを美奈子は久し振りに実感した。そして、父が亡くなった時、付き添ってくれた看護師長を思い出した。そう言えばあの時、看護師を目指そうと決めたのだった。

 とりとめもなくそんなことを考えながら、しばらくそうやってはらはらと涙を流していたが、落ち着いて来ると、これからどうしたらいいのだろう、という当然の疑問が浮かんできた。そもそも、これはどういう現象なのだろうか。病気の類なら医療機関に相談するのが筋だろう。しかし、体が縮むとか、人格が退行するといったことではなく、文字通り、大の男が新生児になるというようなことが、あるとは思えない。夫がいなくなって、代わりに赤ん坊が現れた、というだけなら少々ミステリアスなにおいはあるものの何らかの事件とも考えられるが、本人が変身してしまったというのでは、警察に相談したところで取り扱い様もないだろう。それ以外だと時間を逆行したとか何らかの超常現象とか、そういう非現実的なことしか思い浮かばない。美奈子は、途方に暮れた目で、赤ん坊になった真一を見た。いつの間にか着替えは終わっていて、ベッドの上に寝かされている。少し落ち着いたのか、泣き止んで手足をじたばたしている様子が見えた。

 貴子が美奈子の視線を追うように、ベッドの上の真一を見て、小さくため息をついた。

「確かに、どこにどう相談したらいいんでしょうね。そもそも誰も信じてはくれないだろうけれど」

 それはそうだ。美奈子だって、まだ現実のこととは信じきれない。まだ、眠ったままで夢を見ているのではないか、とどこかで疑っている。美奈子が答えにつまっていると、貴子が言った。

「美奈子さん、とりあえずこの子は、私たちが連れて帰るわ。このままじゃあなたも困るだろうし、かといって、真一だと分かっていてよそ様に預けるなんてできないから」

 はっとして、美奈子は貴子に目線を戻した。仮にこれが真一の姿だと信じてもらえるところがあったとしても、それが病気としてであれ、超常現象としてであれ、あれこれと調べるために、実験台にされるかもしれない。逆に、真一以外の赤ん坊だと言えば、その素性が全く分からないわけだから、事件として扱われ、取り急ぎどこかの施設に引き取られることになるだろう。いずれにしても、ここにはいられない。誰に相談するとか頼るとか、の前に、真一なのだ。

「お義母さん、私……私がみます」

 気づいた時には言葉になっていた。

「でも、一時的なことじゃないかもしれないのよ。元に戻れたらいいけれど、このままだったら」

 貴子はそこで言葉を呑んで、ベッドの上で横たわって手足をジタバタさせている真一の姿に目線を固定させたまま、黙り込んでしまった。このままだったとしたら。貴子には、もう一度繰り返されることになるのかもしれない、「我が子」真一の子育てを想像することができないようだった。

 美奈子にもやはり、これから続いていくことになるのかもしれない夫の「子育て」を想像することができない。それでも。それでも美奈子には、真一という温もりを手放すことはできそうにないと思われた。

「どんな姿だって、真一さんは真一さんですもの」

 自分に言い聞かせるように、美奈子は言った。背中に当てられていた貴子の手が両肩をつかみ、抱き寄せられたかと思うと、美奈子はそのまま貴子に抱きしめられた。

「大丈夫、大丈夫よ。私がついてるから」

 そのままつぶやくように繰り返す貴子の言葉を聞きながら、この人の手はなんて暖かいのだろう、と美奈子は思った。

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