第3話

 小走りにナースステーションに戻ると、美奈子はボールペンでメモ書きをした自分の手の甲を見つめてしばらく呆然とした。

「真理子 百二十、八十か。真理子 百二十、八十……何これ、真理子って。ああそうか。花岡さんのお孫さんの名前。違った、弟さんのお孫さん。姪孫って言ったわよね。山田さんの姪孫。違った、花岡さんの姪孫。で、こっちが花岡さん‥じゃなくって山田さんの、血圧で、と。そうだ、記録書かなくっちゃ」

 独り言を言いながら、バインダーを持ち上げる。聞き取りをするはずだったサマリーは空欄のままだった。自分でも、動揺していることがはっきり分かる。とにかく、落ち着こう。深呼吸を三回してから裏返して日計表に血圧だけを書き込む。

「そうだ、体温計。あ、消えちゃっている。そりゃそうよね」

 メモリボタンを押すと最終で測った体温が表示された。少し、冷静さが戻ってきた。その調子。

「三十六度八分、か。ちょっと高いな。少ししてからもう一度測っておいた方がいいかな」

「川口さん」

「ひえっ」

 背後からいきなり声をかけられて、美奈子は今度こそ小さな悲鳴を止められなかった。同僚の高木真紀だった。

「大丈夫? さっきから何をぶつぶつ言っているの」

「あ、うん、なんでもない。大丈夫。あ、ねえねえ、姪孫って、知ってる?」

 とりあえず、動揺を隠そうとしてとっさに尋ね返した。

「てっそん? 何それ。聞いたことないなあ」

「兄弟の孫のことを、姪の孫って書いて、姪孫って言うんだって。男女問わず同じだから、不思議なんだけどね。逆にその子たちから見ると、大叔父とか大叔母っていうのよ。それは聞いたこと、あるでしょう」

「大叔父とかは聞いたことあるね。それがどうしたの」

「三〇三号室の山田さんに教えてもらったの。出版社に勤めてるんだって。だから日本語詳しくって。すごいでしょう」

 別に美奈子が威張ることでもない。ただ照れ隠しに言ってみただけだが、妙に浮かれた気分になっていて、その気分の変化に自分でも驚かされた。

「ふうん、なるほどねえ」

「ね、すごいでしょう」

「そうね。ちょっとこれは経過観察が必要ね。別の意味で」

 高木真紀は美奈子とは対照的な冷静さで、意味ありげな笑顔で美奈子の顔を見ながら言い放って離れて行った。

「別の、意味?」

 ナースステーションに残された美奈子は意味をとらえかね、バインダーを抱え込んだ姿勢でしばらくぼんやりと考えていた。


 真一の病気についてははっきりした診断がつかないまま日が過ぎたが、状態の方は、急激な変化はないものの、徐々に座っていることができる時間が増えて行った。とりあえず食欲が十分でないために、栄養補給の意味もあって点滴の指示だけは出ていたので、看護師たちは入れ替わり立ち替わりで真一の病室を訪れることになった。話しかければ誠実に応答するし、その端正な顔立ちも手伝って、病棟スタッフ達の間での評判は決して悪くはなかった。しかし、どちらかと言えば寡黙な方だったので、一同の関心は真一本人よりもむしろ美奈子の方に集まった。

「山田さんって、ちょっといいよね」

「でも、今風じゃないよね。ちょっと前のイケメンって感じ」

「川口さんって、山田さんのところに行く時には結構嬉しそうじゃない」

「そうそう、点滴のチェックに行く回数、多いよねえ」

「ねえねえ、山田さんのバイタル、代わりに行ってくれないかしら」

 といった具合である。当の美奈子としてはそんな自覚は全くなく、困ったものだとは思いながら、そのくせ、まんざらでもない。お互いにそんなことを言い合っているのがひそかな楽しみではあり、美奈子も他の仲間たちと一緒になって、たとえば高木真紀などのことをさんざんからかってきた。ただ、美奈子自身はというと、そんな経験は皆無だった。異性に関心がないわけでもなかったし、好みが変わっている、ということでもない。実際にいいな、と思う対象もいなかったわけではない。けれども、いざとなると気持ちが一歩前に出なくなってしまい、現実のものとして考えられなくなる。それはもちろん、職場でのことだけでなく、学生時代も含めて、これまでの生活の中でいつもそうだった。つまり、まともに恋愛をした経験が、ない。


「今日は入浴日ですが、山田さんはまだ介助浴も少し無理そうですね。清拭でお願いします。担当は……」

「すみません、私だと思うんですけど、今日退院予定の篠原さんのサマリーが少し遅れそうなので、できれば病室担当の川口さんに替ってもらえればありがたいんですけど」

 高木真紀がしれっと申し出た。申し送りをしていた主任は、疑う様子もなく美奈子に打診する。

「なるほど、昨日はバタバタしていましたからね。川口さん、大丈夫かしら」

「あ、はい。大丈夫です」

 美奈子は内心少々あきれながら、応じた。確かに、高木真紀はいつもなら要領よく前日には仕上げてしまっているはずの仕事を、後回しにしていた。別にさぼっていたわけでもないので注意を受けることもなく、自然に役割分担を変えさせてしまった。昨日はいやにはりきって、他のスタッフの仕事をフォローしていると思っていたら、これを狙っていたのか。このあたりの芸の細かさについては、病棟のスタッフの中でも高木真紀はずば抜けている。

 それにしても、清拭は他の処置よりも時間がかかるので、話を色々と聞かせてもらうにはいい機会になる。高木真紀のせっかくの「心遣い」をありがたく受けて、ゆっくりと話を聞かせてもらおう、と美奈子は思った。

「失礼します。山田さん、気分はどうですか。今日はお風呂の日なんですけど、山田さんはちょっとまだ無理そうだから、体を拭きますね」

「ああ、ありがとうございます。お風呂ですか、なるほど、それでなんとなく病棟の雰囲気が慌ただしいんですね」

「すみません、落ち着きませんね」

「あ、いや失礼。そんな意味じゃないんです。逆に仕事柄、慌ただしい雰囲気の方が、馴染みがあってね。むしろそっちの方が、落ち着くっていうか」

 失言したと思ったのか、真一は苦笑いをしながら答えた。そんなに気を遣わなくてもいいのに。その細やかさが美奈子にはなんだか可愛らしく感じられ、くすっと笑ってしまった。

「あれっ、何かおかしかったですかね」

「いいえ、大丈夫ですよ。出版社ってやっぱり慌ただしい感じなんですか? テレビドラマなんかで観るくらいなんですけど。これ、お顔はご自分で拭かれますか」

 美奈子はタオルを絞って、真一に手渡した。全く寝たきりというわけではないので、できるところは自分でやってもらった方がいい。真一はタオルを受け取って、顔をうずめながら言った。

「ええまあ、バタバタしているっていうところはそのままですねえ。特に締め切り前なんかはね。でもそういう意味では、看護師さんの職場も似たようなところ、ありますか」

 真一が顔を拭き終わると、美奈子はタオルを受け取り、体に毛布をかけて病衣を脱がせた。色白な顔以上に白い体は、意外と筋肉質で、がっちりしている。

「そうですねえ。私たちもあんまり静かな感じじゃあないですね。病棟の中だからうるさかったら叱られますけど。基本早歩きか小走りで、ばたばたっていうよりドタバタしてますね」

「あっはっは。ドタバタですか。いいですねえ」

 笑った拍子に力が入り、真一の体がぐっと引き締まるのが分かった。一瞬、真一の肢体が生々しく感じられる。美奈子は、顔に見入ってしまって仕事にならなかった初回の血圧測定を思い出し、小さく頭を振って、気をとられちゃだめだ、と自分を戒めた。

「えっと、めまいとか、大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます。それにしても、こうして誰かに体を拭いてもらうことなんて日頃はないので、なんだか、赤ん坊に戻った気分ですね。覚えてはいないけど」

「いつ頃のことまで、覚えてます?」

「そうですねえ。幼稚園に行く前くらいでしょうかね。多分近くの公園か何かだと思うんですけど、芝生の上に座っているのをなんとなく覚えてますね。写真があるんで、もしかしたら自分の記憶じゃなくて、その写真のイメージが残っているだけなのかもしれませんけどね。川口さんはどうですか。いくつくらいのことから覚えています?」

 スムースに運ぶ会話に安心していた美奈子の手は、質問を返されて止まってしまった。幼い頃の、記憶。父と一緒に、音楽を聴いている場面なのだが、何故か風景よりも曲の記憶だけが鮮明に残っている。カーペンターズの、イエスタデイ・ワンス・モアという曲だ。いくら音だけで、意味までは分かっていない記憶と言っても、曲として覚えているなんて、変だと自分でも思う。真一も写真のイメージが残っているのかもしれない、と言ったが、後に聞いたラジオか何かの音が上書きしているのだろう。でも、どう思い出してもそれが一番古い記憶で、それ以外は小学校に入学した後のものになる。

「おかしいでしょ。音楽を聴いていた記憶なんて」

 あまり他人に話したことはなかったそのことを、気が付くと美奈子は一所懸命しゃべっていた。

「いやあ、そんなことはないですよ。そのお、ロマンティックですね。お父さんと一緒に音楽か。お母さんも一緒なんですか」

「いえ、母は私がまだ赤ちゃんの頃に亡くなったんで、全く覚えてはいないんですよ。あきれたことに、父は母の写真を全然持っていなくて。それこそイメージも、ないんです」

 母のことに触れて、美奈子は我に戻った。体を拭き終えて、足の清拭に取り掛かる。

「すみません、無神経なこと、聞いちゃったな」

 心底すまなさそうに詫びるので、美奈子は少々気の毒になった。

「全然、気にしていませんから大丈夫ですよ。あれ、ずいぶん大きな傷があるんですね」

 かえって落ち着いて、足を拭いていると、太もものあたりに大きな火傷の跡に気付いた。

「ああ、それは子どもの頃にね。風呂上がりにふざけていてストーブを飛び越え損ねて」

「まあ、危ない。やんちゃだったんですね」

「そうですね。もうちょっとずれていたら、もっと大変なことになってたかもしれません。幸い、太ももに跡が残ったくらいで、何の後遺症もなく済みましたから」

 一通りの清拭を終えると、真一はすっきりした表情で美奈子に礼を言った。

「やあ、ありがとうございました。おかげさまですっきりしました。なんだか気分までよくなってきた気がしますよ」

「そうですか、じゃ、よかったです。次の機会にはお風呂に入れたらいいですね。あ、元気になって退院できてたらもっといいか」

 そう言葉にすると、なんだか少しだけ、さみしい気持ちになった。病院だから、毎日のように誰かが退院して、また誰かが入院してくる。その繰り返しのはずだし、まだほんの数日しか経っていないというのに。美奈子の顔にそんな気持ちが出ていたのだろうか。真一が例の滑らかな鼻梁を向け、

「あの、体を拭いてお世話をしてもらっている状態でこんなこと言うのもなんですけど、退院したら、一緒にディズニーランド、行きませんか」

 と言った。

「ディズニー、ですか」

 突然の話の展開に、美奈子はつい、呆けた顔になった。どうもこの人と関わっていると自分のペースを見失ってしまいそうになる。

「お好きなんじゃないんですか」

 真一が美奈子の胸元を指す。白衣の胸ポケットにはボールペンやメモなどが入っているが、そのどれもが、ディズニーのキャラクターものだった。確かに、美奈子はディズニーランドのファンで、何度も足を運んでいる。夢中になって色んなことを忘れることができるからだ。

「あ、ああ、これですか。あの、まあ土産でもらったりなんかしていて。でもあの、まあ、私も確かに好きですけどね。それにしても、よく見てますね。いや、そうじゃなくて、ええっと、片付けてきますね。失礼します」

 一方的にお世話をしている時には余裕があるのだが、自分の方に話題が向けられるとたちまち我に返ってしまう。仕事以外で異性と関わろうとするといつもこうだ。ここは一度退散して、看護師モードに戻さないと。美奈子はしどろもどろになりながら、真一の病室を後にした。


 ナースステーションに戻ると、高木真紀がパソコンにとりついていた。朝の申し送りで宣言した通り、担当患者の退院時サマリーを作成している最中だった。美奈子はできれば気付かれませんように、と思いながらそっと後ろを通り過ぎようとしたが、高木真紀は当然のことのように事務椅子ごと回転して、美奈子の方をまともに見た。

「どうしたのよ、真っ赤じゃない。熱でもあるのかな、川口美奈子さん」

 他に誰もいないこともあって、遠慮なくにやにやしている。気付かないどころか、美奈子が戻ってくるのを待ち構えていた節がある。

「べ、別に何も。ちょっとこの部屋、暑くないかしら。それはそうと、サマリーは間に合いそうなの?」

「うん、サマリーの方はあと一、二行ってとこね。別にこの部屋は暑くはないと思うけど。あなた自身の事情じゃないの。その様子だと、山田さんと何かあった?」

 と身を乗り出している。ついでに椅子を移動させて美奈子の押しているワゴンの進路をふさいでしまったものだから、美奈子としても立ち止まらざるを得ない。

「うん、ディズニーランドに行きませんかって誘われた」

 観念して白状する。高木真紀は目を見開いて大きく息を吸いこみ、思わず大声になりかけたのをかろうじて両手で口をふさぐ。

「やったじゃない。とうとう美奈子にも春が来たのね」

「いやあ、どうかな。どうなんでしょう。そんなにうまくいかないわよ。ただの社交辞令かもしれないし」

 美奈子は頭をかきながら口元がにやけてくるのを自覚した。この手のエピソードの主人公になった経験はない。だめだ、仕事中に何をにやにやしているんだ。そもそも、相手はまだ出会って数日しか経たない入院患者だし、そういった対象にはなり得ない。ただ油断しているところでいきなり誘いの言葉をかけられたので動揺しただけだ。というか、どうして自分に言い訳をしているんだろうか。美奈子は自分の混乱ぶりがおかしくなって、にやにやを通り越して、小さく吹き出してしまった。

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