第2話
本当なら自分自身の母親に頼りたいところだが、それはかなわない。美奈子の母は、美奈子がまだ赤ん坊の頃に亡くなったと聞かされていた。だから、母の面影は残ってはいない。祖父母は健在だが、高齢の上、他府県に住んでいるため、急には来られない。祖父母と一緒に美奈子を育ててくれた父の陽平は、美奈子が高校生の頃に病気になり、半年あまりの闘病生活の後に、病院で息を引き取った。
当時の美奈子は、父の死をどう受け止めてよいか分からず、何一つ手につかないままで幾日かを過ごした。しかし、闘病生活の中で父と美奈子を支えてくれた看護師長に励まされ、また、亡くなった母の代わりにずっと美奈子の世話をしてくれていた祖父母に支えられて、なんとか立ち直ることができた。そして、その看護師長の影響を受けて、看護師の道を選ぶことにしたのだった。
不幸中の幸いというべきか、父の生命保険などがあったおかげで、美奈子は特に進路に影響を受けることなく、希望の通り、看護専門学校を卒業して、看護師として働き始めることができた。その美奈子が配属されていた病棟に入院して来たのが真一だった。
「……じゃあ、担当は川口さんということで、お願いします」
主任の、きびきびとした声に、美奈子は我に帰った。
「えっ、すみません、今の聞き落としちゃいました。も、もう一回、お願いしていいですか」
慌てて聞き返す。他のことを取り止めもなく考えていたために、申し送りをうわのそらで聞き流してしまっていた。自分の名前を呼ばれて慌てて我に返ったが、何を言われていたのかを完全に落としてしまっている。後で申し送り簿を読み返すにしても、何の担当かも分からないのでは、たどり様がない。いい加減に聞き流したままにすると命に関わることになるので、叱られることを覚悟しての質問だった。
「山田真一さんの担当のことですが、大丈夫ですね」
硬さを増した主任の声に怯えながら、
「え、ええ、山田さんですね。大丈夫です、分かりました」
と思わず答えてしまった。聞き落としていた、というよりも、別のことを考えていたので、右から左に抜けていた、という方が正確だった。ぼんやりと考えていたのは、看護師の同期の高木真紀の誘いで参加した、昨夜の合コンのことだった。積極的に話しかけてくれるメンバーが一人いて、それなりに魅力を感じなくもなかったのだが、初対面の男性との会話に馴染めず、そっけない応答のままで、一次会で帰ってしまった。いつもそうなんだから。そんなんじゃいつまで経っても彼氏できないよ。朝すれ違いざまに高木真紀から言われた言葉を思い返し、確かにその通りなんだけどな、などと考えているうちに、主任の声が遠のいてしまっていたのだ。それにしても、山田さんって、誰だ。大丈夫です、とは言ったものの、ちっとも大丈夫ではない。申し送りが終わり、それぞれが動き出した中で申し送り簿を見直そうとしたが、主任の険しい目線が突き刺さってきたので、病室と氏名だけを確認して、そそくさとナースステーションを出た。幸い、本日の業務は自分の担当病室のルーティンが中心になっている。入院時サマリーが巡回用のカーデックスに挟んであるので、これを見ればとりあえずの経過は分かる。ただ、最低限の情報しかかかれていないはずで、聞き取ることができるなら、空欄を埋めて完成させる必要もある。
「ええっと山田さん、だったわよね。昨日までは四人だったから、夜勤帯で入院して来たってことよね。他の人の検温チェックをしてから話しに行ってみよう」
頭の中で段取りを考えて、美奈子は担当病室の三〇三号室の入り口を小さくノックした。個室ではないので扉が閉まっているわけでもないのだが、入室の際の美奈子の、なかば癖のようなものだった。そうすることで気持ちが引き締まるような気がする。
「おはようございまあす。花岡さん、よく眠れましたか。お熱計りましょうね」
一番手前に寝ている老婦人のベッドに近寄り、カーテンを開けて、用意してきた体温計を渡しながら話しかける。高齢のためか少々耳が聴こえにくいらしく、美奈子はいつも意識して少し大きめの声でゆっくりと話すようにしていた。それを合図に、他のベッドでもカーテンの向こうで身じろぎをする気配がした。
「おはようさん。熱はないと思うよ。今日はな、孫が見舞に来る言うてんねん」
「あら、お孫さんいらしたんでしたっけ。おいくつですか」
確かこの人は、独身だったんじゃなかったっけと思いながら、美奈子は応じた。カルテの家族関係を図示するエゴグラムの欄にぽつんとひとつだけ書かれていた、女性を表す◎が妙に寂しそうに見えたのでよく覚えている。大阪出身だという花岡信子はこの病室で一番入院が長く、毎朝検温の度に熱はないと思う、と言っている。そのくせ、ぜえぜえと息は苦しそうで、起き上がることもしづらい様子だ。
「まあ、孫言うても弟の孫やけどな。うちは子どもおらへんさかい」
「弟さんのお孫さんですか。どう呼ぶんでしょうね、そういうの」
血圧計のカフを腕に巻きながら考えたが、思いつかない。聴診器にとくん、とくんという信子の心音が伝わってきて、やがて聴こえなくなる。
「百の六十ね。お熱の方はどうですか。ピピって鳴りました?」
読み取った血圧をバインダーに書き込みながら、尋ねる。美奈子は血圧を図るときに聴こえる心音が好きだった。なんとなく、胸に耳を当てているような、安心感がある。
「まだ鳴れへん。ええっとあんた名前、なんて言うたかな。そう、川口さんや。ちょっとそこの、引き出し開けてくれるか」
体温計を腋に挟んでいるためか、あごで枕頭台を指す。日頃の療養態度は決して真面目とは言えないが、こう言う時だけは慎重で、少しでも動かすと正確に計れないと思っている節がある。
「ここ、開けるんですね」
と言いながら美奈子が引き出しを開けてやると、カラフルな冊子が一冊、入っていた。
「これ、ですか」
他に入っているものはないためにそれを取り出してみると、漢字ドリルだった。小学校低学年向けと書いてある。
「これ、お孫さんにあげるんですか?」
「ちゃうがな、それはうちのんや。うち、学校行かれへんかったから漢字書かれへんやろ。そやから、勉強してんねん」
言われてみれば、孫にプレゼントするには少々汚れていて、折り目などもついている。
「その中にな、ちいちゃい封筒がはさんであるやろ」
美奈子がページをめくると、半分くらいまで、震える字で枠いっぱいに書き込んで練習をした後がある。その最終のページにポチ袋が一つ、確かに挟んであった。
「その封筒にな、孫の名前、書いたってほしいねん。うち、練習はしてるけど、まだ孫の名前は書かれへんから」
「いいけど、私、そんなに字、上手じゃないですよ。お孫さん、お名前は?」
「まりこって言うねん」
「まりこちゃん、どんな字書くんですか」
「しんりのこって書く言うてたわ」
しんり‥真理よね。美奈子は手の甲にボールペンで、真理子、と書いてみた。
「これでいいのかな。そうだ、私がお手本書きますから、それを見ながら自分で書いてみたらどうですか。おばあちゃんが書いてあげた方が、真理子ちゃん、きっと喜ぶと思いますよ」
お手本なんて、ちょっと偉そうかな、と思いながら、美奈子は言った。
「そうか、そうやな。ほんだら、その漢字ドリルの空いてるところに書いといてくれるか。それ見て書いてみるから。その代わり、後で見てな。間違うてないかどうか」
「もちろん。じゃあ、どこに書いたらいいですか」
尋ねながら、まだ練習をしていない白紙のページの欄外に真理子と書き込む。ほぼ同時に、電子体温計のピピっという音が聞こえた。
「失礼します。山田さん、山田真一さん、ですね。開けてよろしいですか」
花岡信子からはじめて、同室の他の入院患者全員の朝のルーティンを順に済ませたあと、美奈子は一周回って、一番手前のベッドサイドカーテンの手前で声をかけた。いつものことながら、初対面の患者のベッドサイドカーテンを開ける時には緊張する。我ながらおかしいとは思うが、看護師のくせに、人と接することそのものに、強い緊張を感じてしまう。特に異性の場合はそれに加えて現実的にも戸惑う要素がある。もちろん、返事を待ってから開けるのだが、当人は意識していなくても、こちらとしては時に目のやり場に困る格好に遭遇することがあるからだ。何年経っても、慣れられないでいた。
「はい、どうぞ」
カーテンの向こう側から、少々かすれた声が返ってきた。美奈子がカーテンを少しだけ開けて、頭だけ差し入れて一旦中を確認する。
「おはようございます」
「……おはようございます。お世話になります」
山田真一は、ベッドの上に横になったままで少しだけ頭を動かし、顔を美奈子の方に向けて答えた。起き上がることが難しいようだ。美奈子は改めて、クリップボードに挟んできた、入院時サマリーを見直した。
山田真一、二十七歳。昨夜、駅の改札口付近で突然倒れ、救急搬送。救急車が到着する頃には意識は戻っており、応答もできた。念のためにとった頭部CTでも異常は見られなかったが、立ち上がることができなかったため、そのまま入院となった。
「私、山田さんの担当になった川口って言います。ご気分はどうですか」
「川口さん、か。よろしくお願いします。昨夜ほどじゃあないんですが、まだちょっと起き上がろうとするとめまいがして」
言いながら顔を起こそうとするが、すぐにまた枕に沈んだ。言葉通り、めまいが続いているようだ。
「無理しなくていいですよ、そのまま横になっていてくださいね。ちょっとお熱を測りましょうか。失礼しますね」
不思議なもので、カーテンを開けるまではあんなに緊張していたくせに、いざ伏せっている姿を目の前にすると、そんな気分は吹き飛んでしまう。病衣の胸元をくつろげて体温計を差し入れた。普通の対人関係ではありえない接触度だが、何の感情も起きてはこない。このあたりは看護師の習性のようなものかもしれない。続いて血圧計のカフを腕に巻く。
「てっそん、て言うんですよ」
されるままになりながら、ふいに真一が言った。
「え? てっそん?」
美奈子は思わず手を止めて、聞き返した。耳に聞き覚えのない単語だった。
「兄弟の、孫のことです。さっき、向かいのおばあさんと話しておられたじゃないですか。いえ、盗み聞きしようと思ったわけじゃないんですけど、聞こえちゃってたので、気になって」
ああ、さきほどの、花岡信子の弟の孫の話。美奈子は少し考えてからようやく思い当たり、真一の言おうとしたことを理解した。
「へえ、初めて聞きました。どんな字を書くんですか」
「姪の孫って書くんですよ。男女問わず同じなので、不思議ですけどね。逆にその子たちから見ると、大叔父とか大叔母っていうことになります。だからその表現に合わせると、大甥とか大姪とも言うんです」
「なるほど、それなら聞いたことがあります。意味はよく分かっていなかったけど。山田さんって物知りなんですね」
美奈子は素直に感心した。
「いや、そんなことはないですよ。ただ仕事がら言葉には色々と気を遣うもので」
「仕事って何をなさってるんですか」
「出版社に勤めてるんです。基本は営業なんですけど、小さなところなんで、校正なんかもしないといけないことがあって」
「出版、ですか。すごいですね」
これまで周りにはあまりいなかった種類の人間だった。そういえば色白で目鼻立ちも整った理知的な顔をしている。美奈子は滑らかな曲線になっているその鼻梁に、束の間、見入ってしまった。
「あの、川口さん」
「はい」
「血圧、測るんですよね」
「あ、はい、すみません」
カフを腕に巻いている途中だったことに気付いて慌てて作業を再開したが、顔に見入ってしまっていたことに気付かれたのではないかと思うと、ばつの悪さに耳まで真っ赤になっていくのを止められなかった。聴診器から聞こえてくる、いつもは安心できるはずの心音が妙に生々しく感じられて、なんだか直接胸に耳を押し当てているような錯覚に陥る。体温計を差し入れる時には何の意識もしなかった胸元が、すぐ目の前に迫ってくるような気がした。
「あれ、あ、しまった」
全身を耳にするようにして真一の心音を聞いていた美奈子は、それが急に小さくなり、聞こえなくなってから、水銀計の目盛りを見損なっていることに気付いた。
「すみません、もう一回」
そう言いながら、再度ポンプを操作して、カフに空気を送り直す。今度は水銀計の目盛りから目を離さず、というよりもそれ以外を見ないようにして測り直し、読み取った数字を口もとだけでつぶやいてバインダーにではなく手の甲にメモ書きした。計測終了を示す体温計の電子音が鳴ると、のどの奥がぴくっと痙攣する。もう少しで声を出すところをかろうじて抑え、体温計を受け取ると、数字を書き写すのも忘れてそのまま病室を後にした。背中から、微かにくすり、と笑う息遣いが追ってきたが、構ってはいられない。入院時サマリーの空欄を埋めるために話を聞くという段取りなど、頭からきれいさっぱりと消えていた。
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