目覚めの朝に

十森克彦

第1話

 朝、目が覚めると、隣で寝ていた夫が赤ん坊になっていた。それは、出逢いだったのだろうか。それとも別れだったのだろうか。


 カーペンターズの、「イエスタデイ・ワンス・モア」がオーディオから流れた。毎朝、起きる時間にタイマーをセットして寝るのだが、目覚まし時計と違うのは、目が覚めても止めてしまわずに、一曲そのままベッドの上で聴いて過ごすことだ。美奈子の年代にとってはずいぶん古い曲だが、これが一番落ち着く。穏やかな気持ちで一日を始められるのだ。幼い頃、父がよく聴いていたので、その影響だと思われる。父と祖父母と、幼い自分と。満たされていた記憶とつながるパスワードのような効果があるのだろうか。

 もちろん、今が満たされていないというわけではない。今はもういなくなってしまった両親の代わりに、巡り合った新しい家族。昨夜も確かめ合ったぬくもりの余韻を安らかな時間に重ねながら、隣に寝ている夫を起こさないように静かにベッドを抜け出した。久しぶりの休日だから、ゆっくり過ごして、気が向いたら公園にでも散歩に出かけようと話していた。

 簡単に洗面を済ませて洗濯機を回してから、夫がまだ起きてくる気配がないので、もう一度ベッドに戻った。眠いわけではないが、一人で起きていてもつまらないし、寝ている夫の隣に潜り込んでぼんやりしているのも悪くない。どんな顔をして寝ているのかしら、といたずら心を持って毛布をそって持ち上げた美奈子は、そこにあるはずの夫の姿が見あたらないことに初めて気づいた。

「真一さん、いつの間に。トイレにでも行ったのかしら」

 すぐ隣の洗面所にいたのだから、起きてきたら気づかないはずはないのだけれど。かすかな胸騒ぎを覚えながら、毛布をさらにめくりあげた美奈子は、小さな悲鳴を上げて、すぐにそれを元に戻した。夫の真一が寝ていた胸元あたりに、枕くらいの大きさの盛り上がりがある。

「な、なに?」

 そのままの姿勢でほんの少しためらった後、今度は慎重に、毛布を持ち上げる。どちらかというと小柄な美奈子の手のひらに、包んでしまえるほどの小さな頭部。その頬にぴったりくっつけるようにして握りしめられた小さな手。見間違いではなく、そこに寝ていたのは、赤ん坊だった。しかも恐らくは生まれてまだ数日と経っていない、新生児のようだ。

「どういうこと? この子、いつの間に……真一さん、そうだ、真一さん、どこにいるのよ。この子、どうしたの? 冗談にもほどがあるわよ」

 思わず、声を荒げて室内を見回したが、夫からの応答はない。代わりに、声に驚いたらしい赤ん坊の顔がゆがんだ。身じろぎをし、握っていた手を差し出すよう伸ばして開き、

「えああ、えああ‥」

 泣き声を上げ始める。

「ああ、ごめんね、びっくりしたよね。よしよし、大丈夫よ、大丈夫」

 あわてて、赤ん坊の方に目線を戻して、胸をとんとん、と軽くたたく。本格的に泣き出す前だったのか、とりあえず一旦落ち着き、すやすやと寝息を立て始めた。

「いい子ねえ、よしよし。そのままね。そのまま。それにしても、あなたはどこから来たのかな。ママはどうしたのかな」

 新生児に触れるのは、看護学生の頃の産科実習以来だった。しばらくうっとりとその寝顔に見入っていたが、はっと我に帰る。

「いやいや、そうじゃなくて、何よ、この子。なんでここに赤ちゃんがいるのよ」

 誰かの子を預かるような話があったか、あるいは真一が連れ帰ってきたか。美奈子は懸命に記憶をたぐってみるが、思い当たることは何も出てこない。少なくとも、昨夜眠るまでは、気配すらなかったはずだ。夕食の時に二人でビールを少しだけ飲んだが、記憶が飛ぶような量でもない。夫はどこにいるのだろうか。ここにこの子を寝かせたのは夫以外にはあり得ない。美奈子は、立ち上がって家中を探して歩いた。とは言っても、夫婦二人で暮らしている二LDKのマンションなので、ベッドルームと隣り合った和室が一つ。それにダイニングキッチンとトイレと洗面所、それに続くバスルームしかない。クローゼットも含めて、夫の姿はどこにもなかった。玄関を見るが、靴も昨夜のままで、出かけた様子もない。念のために靴箱まで開けてみたが、そう多くはない夫の靴はどれもそろっていて、裸足で出かけたのでなければ、屋内にいるとしか考えられなかった。バルコニーをのぞいてもそこにいた気配すらなく、第一、内側から鍵がかかったままで、まるで密室のトリックのようだった。

「何なの、どういうことなのよ、もう」

 訳がわからず、頭をかきながらベッドルームに戻ると、赤ん坊がもぞもぞと動き始めている。近寄ると、口をへの字にして、今にも泣き出そうとしている。手足をバタバタさせ始めたかと思うと、見るまに顔を真っ赤にして、

「へああっ、へああっ……ほわあっ」

 と先ほどよりもはっきりと泣き始めた。息を吐き切ってはくちびるをけいれんさせ、精一杯吸い込んでまた声を出すということの繰り返しになっている。本格的に泣き始めたようで、少々のことでは泣き止みそうにない。

「ああ、泣き出しちゃった。よしよし、大丈夫よ、どうしたの」

 話しかけながら歩み寄る。おむつかしら。そう思って抱き上げようとした。あら、この子。そこではじめて、赤ん坊の様子をまじまじと見た。ベビー服を着ていない。薄い布で雑に包まれているだけだ。そして、身を包んでいるその布には見覚えがあった。

「真一さんの……」

 ブルーと白のストライプ。それは確かに、夫のパジャマだった。少なくとも、昨夜就寝した時には間違いなく真一が身につけていたものだ。一番上を除いて、ボタンも全部止めてある。真一は、何となく首元が窮屈な気がするからと、一番上だけボタンを止めない。そんなところまで再現しているなんて、いたずらにしてもやり過ぎじゃない。美奈子は、だんだん腹が立ってくるのを自覚しながら、おむつを確かめるために、夫のものであるはずのパジャマの前をはだけた。

 おむつは、つけていなかった。つまり裸の状態で、夫のパジャマにくるまれていたことになる。しかもご丁寧なことに、お尻のあたりには夫のトランクスとパジャマのズボンまで、置いてある。 生後間もないであろう新生児を、おむつもつけさせないでこんな格好で置いておくなんて。まだおしっこは出ていないようだけれども、このままだと確実にシーツが濡れてしまう。

「真一さん、どこにいるの。このままじゃベッドの上がびしょ濡れになっちゃうわ。ふざけてないで、出てきてよ」

 すでに確認したはずの室内を見回しながら、硬い声で言った。感情を抑えてはいるものの、早く出てきてくれないと、爆発してしまう、という自覚はある。もっとも、真一が出てきたところで今さらとどまれるとも思っていない。ひとしきりぶつけてやろう、と待ち構えたが、やはり何の反応もない。美奈子と、赤ん坊の二人分の息遣いだけが、この室内にある気配の全てに思えた。

 なにが起こっているのかは分からないが、とりあえずこの部屋にはこの赤ん坊と自分の二人きりしかおらず、このまま放っておくとシーツをびしょ濡れにされてしまうだろうということだけは、はっきりしていた。少しだけ考え、美奈子は自分の生理用ナプキンを取り出した。十分吸収できるだけの容量はないだろうけれど、大きさだけはこの子にとっては十分だと思われる。我ながらいいアイデアだ、と妙なところで納得しながら、それをハンドタオルに貼り付け、応急処置的なおむつとしておしりを覆うために、赤ん坊の足を持ち上げた。その時、赤ん坊の内股が目に留まった。右足の中ほどに、大きな火傷の跡がある。笹の葉のようなその形には、見覚えがあった。

「真一……さん?」

 子どものころ、風呂上がりにふざけていて、ストーブを飛び越えようとして火傷をした跡なんだ。真一がそう言っていたのを、はっきり覚えている。あざか何かだと、偶然の一致ということもあるだろうけれど、どう見てもこれは火傷の跡のひきつれだ。生後間もない赤ん坊の体に、ついているわけがないものだった。

「真一さんなの? なに、どういうことなの」

 思わず赤ん坊の足をつかむ手に力が入る。

「へああっ、ふわあっ」

 泣き声は一段と大きく、テンポも上がり始めた。

「ご、ごめんね、よしよし。お腹空いているのかしら。でもおっぱいは出ないのよ。ミルクもないし、どうしたらいいんだろう」

 とりあえずナフキンを貼り付けたタオルを巻いて、そのまま抱き上げた。予想よりずっと軽くて思わずバランスを崩しそうになりながら、なんとか腕に抱く。夫が出かけた形跡もないし、着ていたパジャマもそのまま。それにこの、内股にある火傷の跡。それらが示しているのは、この子が夫の真一その人に他ならないということだ。そんなこと、ありえない。でもここに、赤ん坊がいることだけは疑いようがない。夢を見ているとしか思えないが、ベッドの上でカーペンターズを一曲きっちり聞き終えたことをはっきりと覚えている。それ以上、考える余裕はなかった。それよりも今は、確かに自分の腕の中で泣いているこの子をどうにかしてあげなくてはいけない。それ以外のことは後回し。美奈子はそう判断し、差し当たってすべきことを考えた。おむつもミルクも、何もない。かといってこの状況で外に買いに出るわけにもいかない。だれかに協力をしてもらわないと身動きがとれない。こんな状況で、赤ん坊のことで助けを求めることができる存在。美奈子に思い浮かぶ相手は、一人しかいなかった。

「よしっ」

 すぐに携帯電話を取り出し、メモリを呼び出す。

「もしもし、あ、お義母さんですか、美奈子です。はい、朝早くからすみません。あの、ちょっとご相談というか、お願いしたいことがありまして」

「おはよう、美奈子さん。どうしたの。今日はお休みの日よね」

 美奈子の切羽詰まった様子を感じとったのか、真一の母、貴子が怪訝な声で応じた。でも、遠慮してはいられない。

「あの、実はですね、赤ちゃんが」

「えっ」

「ええ、ですから赤ちゃんが、ですね」

「美奈子さん妊娠したの? おめでとう、よかったじゃない。それで、いつなの」

 当然そういう反応になるだろう。真一と結婚して、二年。先日も、一緒に食事に行った時に、そろそろじゃないの、と言われたところだった。真一と美奈子も、そのつもりでいた。

「ええ実はそのう、もう生まれちゃったんです」

「……えっ?」

「ですからそのう、もう、生まれちゃったんです」

 普通だったら、ふざけているとしか思われないだろう。しかし、美奈子に抱かれた赤ん坊は、胸元で確かな泣き声をあげている。きっと貴子にもその声は聞こえているはずだ。電話の向こうで息を呑んでいる気配が伝わってきた。

「生まれたって、あなた。そんな様子、なかったじゃない。先週うちに来た時にも……」

「すみません、隠していたわけじゃないんです。あんまりお腹も大きくなかったので、実は私自身も気づいていなくて。急に産気づいてから、分かったんです」

 とっさに、嘘を言った。確かにそんな事例がないわけでもない。しかし、ろくに知識もない未成年ならともかく、二十代も半ばのれっきとした成人で、しかも美奈子は看護師である。そんなことはあり得ないが、他に言い様がない。朝目が覚めたらいつの間にかそこに寝ていました、と言っても事件になるし、ましてそれが夫の変わり果てた姿ではないだろうかなどとは、口が裂けても言えない。

「それで、相談があるって言ったわね。どちらにしても、今からそちらに行くわ。孫の顔も見せてもらわないとね」

 話が早い。普段なら、姑に今から来ると言われると困るものだが、今回ばかりはその機動力がありがたい。

「すみません、助かります。それであの、ご迷惑ついでにお願いしたいんですけど、おむつと粉ミルクを買ってきていただけないでしょうか」

「いいけど、真一は何をしてるの? それくらいはあの子が動かなくちゃ……」

 そこまで言って、何らかの異変を察知したのか、貴子はそれ以上追求せず、

「分かったわ、とにかくすぐに向かうから」

 と言い、ついでに必要なものは、と確認して電話を切った。美奈子は繕っても仕方がないと思ったのでこの際、何の準備もないので、何が必要なのかさえ分かっていないのだということも白状した。少なくとも一人分の子育てを立派にしてきたのだから、その経験に頼るしかない。

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