傀儡の愛楽
灰緑
第1話
生まれてからわたしは、おおよそ朝七時に、決められた場所から起きて、舞台の準備をしてもらっていました。
もちろん、寝る前にしっかりと絹の布で顔を拭いてもらい、左右対称を確認してから、仰向けで寝かせていただいて、だから、ちっとや、そっとのことじゃ、肌は傷つかない。
鮎喰川に近い、国府町和田に舞台屋敷があったので、皆が湿度に気を使い、管理を万全にしていたのです。
でも洪水のような荒ぶる天災は、未熟な土地だったものですから、大雨が降るとよくよく起こってしまって、芝居が人々の心を癒す祈りの儀式に姿を変えれ
ば、出向いた渓谷の野舞台で、豊かな樹木の恵を影としてこの身に浴びながら、あるいは、差し込む太陽の光が頬を暖めながら、わたしは生き生きと、まさに生(せい)を演じた。繰り返し、繰り返し、演じた。
そういうときは、しばらくの休養が必要で、じっと動かないで肌を労わり、次の生を伝える舞台に備えたものです。
そしてあの日は、十分な休養が明けての、舞台の初日でした。
「なんと綺麗な肌で。俺は、溶けてしまいそうだ」
檜で作られた舞台の上にいるわたしに、ぐっと前かがみで近寄って、大きな声を出しちゃいけない場所だから、余計に小さくささやくんだもの、空気に乗せられたその緩い言葉に、心串がぐらりと揺れました。
京の香りがする肌の塗りは、富さんからきつく言われて、皆が細い筆先で手よりも心を震わせ、そして気がつけば息をも止めて、極めた念を込めた訳ですから讃えられるべき珠玉でした。
「まさに、至宝とはこのことだ」
向かいにいるあなたに、まさにそう言われたとき、思わぬ天恵として、わたしの玉(ぎょく)が火焔に包まれたのです。
それからあなたとは、ときどきに仕事の合間に会うことがありました。
お屋敷の居間に下がり、あかりが薄い場所で休憩をしていると、何度か聞いたあなたの声がわたしにまで淡く届き、開いた扉の向こう側には、残香に似た雨後の光が漂っていました。
それを思うと、あなたは光に抱かれていた。わたしは光になりたいと思った。
渇愛のような声は、耳を澄ませばそれなりに聞こえてきました。
「それにしても、あの娘は、いい肌をしているねぇ」
出会った日の感動が青い飛沫を散らす荒波のように押し寄せたかと思うと、その次には、あなたを撫でた風が、夏らしくいろんな匂いを背負って、すうっとわたしを通り抜けていきました。
嫌いな夏虫たちのやかましい鳴き声も這い寄り、耳にへばりつきました。
「目の付け所っていうのかい、さすがだねぇ。放浪の絵師さん。まあ、富さんは、そこにこだわる人だから凄いんだよ」
「ああ、本当に。匠っていう性分だからできる執念だ。こりゃ、盗まないと」
迸る眼力で、わたしの肌を舐めるように見つめていた理由を知ったとき、あなたが着ている藍色のお召し物は、少しばかり懐がはだけていて、陰薄の胸元に煌めく水滴は、男性の液というだけで、わたしの喉は焼けるようでした。
ところがそれからしばらくして、あなたは風が無いのに蝋燭が消えるように、どこかにいってしまった。
秋口の空は随分と機嫌が悪く、癇癪と滂沱を起こした日々が長く続いたせいでしょうか。
ふと現れてくれるのではないかと、風通しがいい場所であなたを待ったものです。ですが、髪が絡まるのをそっとほぐしながら外を見つめていても、決まって現れるのは、あなたと三言程度を交換した久さんでした。
「女性は肌だけではいけんぇ。その目よ。ぐっと何かを掴み取る目力が必要だ。俺は天狗様になって、眼力を埋め込みたいんだ」
そのように、ぶつぶつ言っては他の女性たちに向き合っていました。だからでしょう、彼が好きな女性たちは、輝く硝子玉の星を二つ抱きかかえていました。
あなたと次に出会ったのは、大きく関東が揺れた翌年、東京にある百貨店の最上階でした。見たところ、ずいぶんと背が高くなっていて、身に付けていた背広は、獣の油が強いようで光沢が目立ちました。
悠悠としたわし鼻が支える双の硬水の瞳は、最初に見初めてくれたときと同じように、無骨な手吹き硝子を隔てても、わたしを見つけてくれたのです。
手吹きの歪みがあなたの瞳孔の形をぼやかしていましたが、影響を受けない無形の視線は、ぐっとわたしの瞳と絡まったのです。
わかっているくせに、小恥ずかしいのでしょうか、あなたは再び「ずいぶんと綺麗な肌をしているんだな」と、あるいはわたしを喜ばそうとしてくれたのかも知れません。
絹製と分かる赤い襟締めを整える仕草を繰り返しながら、肌を見つめ続けていましたが、「お客様、いかがでしょうか」と、この場所にわたしを連れてきた方の現金な言葉が聞こえると、あなたは大理石の床を歩いて離れていきました。
たくさんの男性と女性が入り乱れる最上階は、虫たちの狂騒よりもずっと陰湿な音で満たされていましたが、それでもわたしは、耳を尖らせ、さらには澄ませて、聞き分ける思いがありました。
「想像以上に、綺麗な肌をしているんだね」
「もちろんですとも。さすが、お目が高いですなぁ」
黒い和服を着たその方が、大袈裟に褒めるものだから、機嫌を直したわたしは、ほんのりと内心で頬を薄桜色に染め上げました。
ですが「ねえ、あなた。そんなにいいものかしら。それ」と、豪奢な京風の織柄をこれみよがしに撒き散らす、西洋人に届かない鼻先を天井に掲げる若いご婦人が、あなたの隣にいたのです。
「ああ、そうだよ。玉眼は、僕は好きではないからね。肌は富の作が比類なく一番だ」
あなたの具体的な言葉を聞いたご婦人は、ぷいと興味を投げ捨てれば、きらびやかな喧噪がお好みのようで、見栄が渦巻く声の海に その身を落としていきました。
あなたは西洋人そっくりに肩を竦ませ、硬い踵を床に落としながら再びわたしに近づいてきました。
ちょうどそのとき、天井近くの採光の出窓から、甘い薄光がわたしに向けて線を引きました。
わたしの頬を照らす陽は、近づくあなたに一層の肌艶を見せたのでしょう。その硬水の瞳は黒色をことさらに深め、あなたは壮健な顔をわたしに近接させたのです。
しばらくの濃密な視線の絡まりは、寄り添いを願うわたしに恒久を思わせ、ウナズキの糸を引いて顎をくいっと下げました。その意ではないのに、緊張がアオチを起こしてしまうほどでした。
午後の中心を過ぎた黄昏時は、神羅との境界線を薄めるときなのでしょう。
線を引いていた薄光は、そのとき、いよいよご慈悲の光柱となったのです。
導光が、わたしをそっと抱え、下方にあなたを見つめながら空へと、そして三度目の逢瀬を願いながら、迦陵頻伽(かりょうびんが)の鳴き声を追ったのです。
「伊佐森さん、その絵、上手ですね」
どうにも自分を抑えきれず、わたしは銀座SIXのスターバックスであなたに話しかけました。もちろん、まったくの初対面ではないですし、この時代の分別も備わっていますから、同じ演劇サークルの仲間という範疇でのことです。
ついに訪れた三度目の出会いから一週間が過ぎた今日、わたしたちは親交を深めるため、そして、来月に予定されている公演に向けての準備のために、ミーティングなるものを、していました。
二回生のあなたは、几帳面な顔つきの部長の演説に片耳だけを器用に寄せながら、しかし顔はテーブルと水平に近く、もくもくと、えんぴつで絵を描いていました。
B3の脆くも濃い色合いは墨のような質感で、だからその用具を選んだのですね。はっとしてあなたが注文したものを見ると、アイスコーヒーでした。
「夕子さん……ですよね」
尋ねるような語尾に相変わらずの恥ずかしさが滲んでいました。
だから「はい。霧川夕子です。覚えて……いませんか」と、今度はわたしから身体を前かがみにして、近寄りました。
「そんなことないよ。今年の、新入生だよね」
あの懐かしい硬質の瞳が、舞台の段差も、硝子の壁もない空間の近距離で、ついにわたしに向けられました。
立派なわし鼻の下で唇は恥ずかしげに歪み、だからわたしは布を引きちぎるほど嬉しくなったのです。
「絵の勉強を、したことがあるのですか?」
「あぁ、これね、お恥ずかしい……」
「そんなことないです。とっても上手」
「はは、ありがとう。来月の公演のポスターに使う予定なんだ」
「いいと思います」
「家系に芸術関係の人が多いんだ。特段に絵の勉強をしてないんだけどね」
「そっかぁ。絵師さんだったよね。あのときも」
「あのとき……って、あ、絵師って、なんか、今っぽいよね」
「伊佐森さん。わたしを、描いてくれますか」
最初からわたしはそのつもりで今日、あなたに向かったのです。あなたの返事は、はっきりと聞こえませんでした。
ですがわたしの瞳ではなく、白肌を取り憑かれたように見つめる瞳力に、むしろ狂った感動を覚えて、当然のように予定を伝えました。
「明日、スケジュール、空いています」
あなたは藍色のTシャツに、やっぱり当然のようにジーンズを履いて、世界もあの日々の気候を呼び覚ませば、夕立を演じた空気は幾ばくか汗ばんでいました。
鋭利を気取ったえんぴつが、つま先で白床を駆け抜ける音は、電気を消した午後四時の大学の教室に響き渡り、離れた場所にあるこの別棟は、二人だけのお屋敷のようでした。
イーゼルをどこかから持ち出したあなたは傾注の眼差しで、最初に出会ったあの日以上の濃度で、わたしの肉の輪郭を捉えようとしていました。
洋の服を着ていたわたしですが、それでも過去を思えば、自然としぐさは和風であり、まとめ上げた髪が湿度に泣き落とされ、飛び出した後れ毛を元に戻す手先を、むしろ丁寧に見せつけたのです。
そのとき、あなたの瞳の奥底に男の汗を感じ、それこそが性を伴う極みに近い傾心だと分かったとき、わたしは心底、この瞬間に感謝しました。
絵の具が飛び散っている、経年のイーゼルに立て掛けられたスケッチブック、滑らかに描かれた曲線と構図の整地さに、意味など無い。
喜びに震える鼓動に従い、正中線を正してわたしに向かうあなたの姿勢こそが真球の理であり、そしてわたしも、どろりと傾注したのです。
背後からわたしを包む西日が影を作り、それを見やると、おっといけない、安堵のいたずらで角出しの二本がうっすらと小山となっていて、慌てて引糸を緩めたのでした。
わたしのような白壁に、黒い額で拘束されたあなたの絵を飾ってあります。
ちょっとやり過ぎかもしれないけれど、誰もがこの家に来たときに、リビングに入って最初に目にすべきだからです。
あなたが描いた七年前のわたしは、今や妙年であり、それでも、れっきとした女の旬でしょうけれど、あのときは忘れがたく、見せびらかす瞬刻の極みなのです。
そして、あなたは知らないでしょう。こうして結婚した今でも、わたし以外の偏りの眼差しが、あなたに向けられていることを。
今のときは、指輪など護符にはならないのです。だからこそ、あの絞りきった傾注のあなたを、あなたに思い起こさせるのです。
「ねえ、夕子、あの絵、外さない? ちょっと恥ずかしいよ。俺」
全くあなたは、分かっていないんだから。
「そう? わたしたちの思い出じゃない」
「そうだけどさ……」
「それより、いつきさん。呑気に朝ごはんを食べていて、いいの? 昨日の夜、面倒とか言って、今日からの出張の準備、してなかったじゃん」
「あっ! いけね、そうだ」
朝ごはんの濃い味噌汁を乱暴にこぼしながら飲み干し、ワイシャツに飛ばなかったからいいものの、クローゼットがある寝室に、あなたは駆けていきました。
数多の歓楽が色づく西への出張に、ちょっと灰色が浮かぶのですが、万が一の角出しはきっと怖いと思うのです。
だからくれぐれも、わたしのことを忘れずに、そして、あの絵を思い出してくださいね。
あなたはまだ縮緬ばりを装うには早い年頃ですし、万が一の場合は、ガブって噛んじゃうから。
あらいけない、わたしは阿波の出だった。
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