第28話 それは突然に

「セシリア様、おはようございます。昨夜の夜会はお疲れ様でございました」


 夜会の翌日、ダイニングへ朝食をとりにやってきたセシリアを笑顔で迎えたのはモーリスであった。


 今日のセシリアは、いつもの時間よりやや遅く朝食の席へとやってきた。夜明け前には起きたものの、ルイスと顔を合わせるのが気まずくて、うだうだと悩んでいるうちにいつもの時間を過ぎてしまったのだ。


 意を決してダイニングへとやってきたのはいいものの、肝心のルイスの席は空であった。食器の準備もされていない。


「あの……ルイス様は?」

「ルイス様は急な仕事が入りまして、既に出掛けられました」


 モーリスの答えを聞いたセシリアは、見るからにホッとして力を抜いた。そんな分かりやすい反応にモーリスは内心焦りを覚えた。


――これは本当にまずいかもしれない。


 昨夜のルイスの言葉が脳裏に蘇る。絶対に何かしでかしたのは間違いない。モーリスとしても婚約破棄は避けたいのだ。女嫌いになってしまったルイスがようやく結婚する気になったのだ。この機会を逃しては、公爵家存亡の危機である。それに、本当に婚約破棄などとなったらルイスが激しく落ち込むのが目に浮かぶ。


 モーリスは、今こそルイスの右腕としての真価を発揮するべく己を奮い立たせた。


「ルイス様から言伝ことづてを預かっております。『夜会で疲れているだろうから、今日はゆっくり休んでくれ』との事です」

「ありがとうございます。でも……ルイス様だってお疲れではないのかしら。朝早くからお仕事に行かれるなんて」


 セシリアの言葉にモーリスは『おや?』と面をくらった。先程の様子から、ルイスを避けていると思ったからだ。素っ気なく返されるものだと思ったが、セシリアはルイスを心から心配しているようであった。どうにもルイスを嫌っているという感じは見受けられない。それならばとさらに探りを入れてみることにした。


「夜はいつも通りの時間にお戻りになる予定ですよ。ルイス様はセシリア様とのお時間を大切にされておりますから」

「そ、そうですか」


 若干動揺はしているものの、やはりセシリアからはルイスを嫌っているという雰囲気は感じ取れない。しどろもどろになっているところを見ると、顔を合わせるのが恥ずかしいというところだろうか。


 ニコリと爽やかな笑みを浮かべたモーリスは、ノーマン渾身の朝食を配膳した。


「さぁ、朝食に致しましょう。本日のメニューはパンケーキでございます。お好みでベリーソースやシロップをどうぞ」


 どうやら主人が心配していた事態は杞憂で済みそうだ。セシリアに嫌われたと嘆きながら仕事へ向かった主人は、この報告に安堵するだろう。モーリスはひそかに満足気な笑みを浮かべた。


 まさか今晩、事態が思わぬ方向に動くなど予想もつかなかったであろう。




◆◆◆◆◆




 セシリアは一人になりたくて読書をするという名目で部屋へと籠もることにした。ルイスの帰宅までに平常心を取り戻さなければいけないからだ。


「どうしましょう……」


 本でも読んで落ち着こうと思ったのだが、うっかりアメリア推薦である例の恋愛小説を読んでしまった。気持ちを落ち着かせようとしたのに、ルイスからの熱烈な言葉が物語のセリフと重なってしまう。これではだめだと仕方なくしおりを挟んで本を閉じた。


 こんな時にジーンが遊びに来てくれれば気が紛れるのではないかと思うも、小さな友人は現れそうにない。


 何とか別のことを考えようとして、とある令嬢のことを思い出した。ルイスとの出来事がインパクトがありすぎて、今の今まで忘れてしまっていたあの令嬢の事だ。


「あの方……ルイス様はイザベラ嬢と呼んでいたかしら? 私のことを知っているようだったわ……」


 昨夜、夜会で話しかけられた令嬢の姿を思い浮かべる。


 キャラメル色の髪にブラウンの瞳。こちらを見る厳しい顔つき。嫌われているという事がはっきりと伝わってきた。


『本当は私がルイス様と婚約するはずだったのよ!』

『何であんたみたいな傷物の女っ』


 夜会で言われたイザベラの言葉を思い出す。敵意剥き出しの言葉が胸に刺さるが、ふとある事が気になった。


「あら……そういえば何で私が怪我をしたことを知っていたのかしら」


 ルイスの親戚縁者なのだろうか。いや、そのような感じではなかった。もしかすると自分が知らないだけで、怪我のことはかなり大事おおごとになっていたのだろうか。でも彼女は自分の事を知っているような雰囲気でもあった。


「私の知り合い……? だから怪我のことも知っていた……?」


 セシリア自身、忘れがちになっていたが記憶喪失中なのだ。自分が忘れてしまっている可能性は大いにある。


 友人・知人・親戚……それとも家族……?


『なんで私じゃないのよっ』


 突然頭の中に、何の前触れもなくフラッシュバックのように一つの光景が浮かんできた。イザベラがヒステリックに詰め寄ってくる姿だ。あの夜会の時とは違う服装……そう、あれは別の場所でのことだ。


『なぜお姉様なのっ!? こんな女が選ばれるなんてっ』


 それはあまりにも突然であった。


 今まで欠けていたものが埋まるような、そんな感じがした。記憶がない自覚はあまりなかったが、ようやく取り戻したという不思議な感覚。あまりに突然過ぎる出来事にセシリアは宙を見つめたまま動きを止めていた。


「……………イザベラ……あの子は……私の……」


 異母妹いもうと――と口にしたつもりの言葉は声にならずに消えていった。


 異母妹いもうとは自分の事をとにかく嫌っていた。前妻の子だから仕方ないと思っていた。継母ははも自分を嫌っていたからだ。そのため、なるべく顔を見せないように部屋から出ないようにして生活していた。


 父は母が亡くなった後、悲しみを振り切るように仕事に没頭した。忙しくあまり家の事には関与しなかった。継母ははが私の社交界デビューをさせなくとも、異母妹いもうとが私を叩こうとも何も知らなかったのだろう。


 次々と鮮明に思い起こされる情景は、苦しいものも嬉しいものも様々なものがあった。失っていた記憶がセシリアの意思とは関係なく次々に思い起こされていく。


『今日から君の婚約者となったルイス・フェーンベルグだ。これからよろしく』


 ルイスが自分の手を取り見惚れるほど美麗な笑顔を浮かべる。あの日、初めての顔合わせでそのままフェーンベルグ邸へと居を移す事になった。婚約話が来ていることも全く知らなかった。急いでまとめた荷物は母との思い出のほんの僅かな品だ。


『お菓子作りに興味があるって聞いて……いつか俺にも作ってくれるか?』


 あぁ……あのレシピ本は、ルイスからのプレゼントだ。エプロンもその時に貰った物だ。ノーマンに教わりながら初めて作ったお菓子はパウンドケーキだった。それを木漏れ日溢れるサロンで一緒に食べた。少し焦げてしまったが、美味しいと言って残さず食べてくれた。


『セシリア……死なないでくれっ』


 あぁ……あの時、真っ暗闇で聞こえた声はほかならぬルイスのものだ。あの声が自分を死の淵から引き戻してくれた。


 今さらながら、どれだけルイスに支えられていたか身に染みて分かった。目覚めた後、記憶のない自分にいつも優しく寄り添ってくれた。あんなにも自分の事を想っていてくれたのに婚約破棄などと酷い事を何度も言ってしまった。


 いつの間にかセシリアの頬には涙が伝っていた。


 昨夜ルイスへの恋心を自覚したが、本当はそれよりももっと前からルイスに恋をしていたのだ。優しくて温かくて時々子供のような人。


 止まらない涙を拭う事もなくセシリアは記憶の奔流に身を委ねた。


『……私は元々暗殺者だったんです。本当はこのような所にいる身分ではないんです』


 エマがそう話してくれた事があった。エマが望んで暗殺者になった訳ではない。話してくれてありがとうと抱きしめたら、さらに泣きそうな顔をしていた。


『セシリア様、こちらでの生活には慣れましたか?』

『セシリア様がいらっしゃって屋敷が明るくなりましたわ』

『セシリア様は好き嫌いがないから作り甲斐があるなぁ』


 フェーンベルグ家の人は皆優しくて毎日がとても楽しかった。ここは身分関係なくみんな仲が良くて一つの家族のような温かな場所。屋敷の主であるルイスがモーリスやエマと軽快なやりとりをする事も見ていて楽しかった。


『セシリア、君が俺に心を寄せてくれるその時までずっと待つよ』


 強引に婚約を結んでしまったから。そう言っていたが、もうあの時には既にルイスの事が好きだった。ただ恥ずかしくてそう伝えられなかった。あれが私の初めての恋だ。


 そしてあの事件が起きた。


 王都の端にある孤児院へ行く事になり、お菓子を持っていこうとしたのだ。そのために包み紙を購入しようと街へと出掛けた。


 共に出掛けたメイドが道を聞かれている間、セシリアは男に声をかけられた。『向こうの路地裏で異母妹いもうとが呼んでいる』、そう言われて疑いもせずに男について行ってしまった。すぐ戻ると伝えて、メイドの返事も待たずにその場を離れたのだ。案内された路地裏には、マントを頭から被った人物がいた。イザベラの事だから王都の下町に出るのが嫌で顔を隠しているのだと思った。その人物へ近付いた途端、ドンッという衝撃と共に胸に激痛が走った。


『あーぁ、こんな美人を殺せだなんてもったいねぇ』

『実の姉を殺せとか……女のヒステリーってこえー』


 激痛が走る胸元からは赤黒く生ぬるい血が溢れ出ていた。去っていく二つの足音が、そう話していたのを薄れゆく意識の中で確かに聞いた。


「私は……あの子に殺したいほど憎まれていたのね」


 全てを思い出したセシリアは、一人きりの部屋で声を押し殺して泣いた。突然記憶が戻って色んな感情が混ざり合い、ただ泣く事しか出来なかった。


 とめどなく溢れてくる涙を手で擦り、しゃくり上げながら子供のように泣き続けた。


 どのくらいそうしていただろうか。ひとしきり泣いたセシリアは、決意を込めた目で外を眺めた。


 外では今日も可愛らしい鳥がさえずっている。


「ルイス様が戻られたらお話をしなければ……」

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