第20話 お菓子作り
あの日以来、ルイスの帰宅は深夜になった。
セシリアの記憶も戻ることはなかった上に、あの日感じた事も翌日にはきれいさっぱり忘れてしまっていた。それでもあのレシピ本だけは未だにセシリアの部屋にある。
国軍に勤めているルイスが今回のように帰宅が遅くなるのはたまにあるらしい。事件でもあれば何かと忙しくなるのだろう。あの若さで公爵家当主も継いでいるのだから余計多忙そうだ。
規則正しい生活が染みついているセシリアは夜更かしが苦手であった。一度エマの目を盗んでこっそり夜更かししようとした事がある。ルイスの帰りを待って消灯後も起きてみたが、いつの間にか寝落ちしてしまった。
そんな訳で夜に会えない分、いつもより早起きをしてダイニングへ行くようになった。ダイニングで本を読みながらルイスを待つという事をしていたのだ。
最初の頃は、ルイスと朝食を一緒に取れていた。いつも通り朝のお見送りもしていた。しかし数日前、意気揚々とダイニングへ行くと、モーリスから『ルイス様は、しばらく国軍宿舎に泊まられるそうです』と申し訳なさそうに告げられた。多忙すぎて帰宅出来なくなったらしい。
そのため、ここ数日はセシリア一人での朝食となっている。広いダイニングでとる一人の食事はとても寂しい。いつもならルイスと話しながらの食事のため、しんとした空間が落ち着かない。セシリアは日に日に元気がなくなっていった。
そんなある日、見かねたノーマンがシェフ自らデザートを配膳しながらセシリアに声をかけた。
「セシリア様、今日は菓子でも作りませんかい?」
本来であれば貴族令嬢がキッチンへ立つ事はあり得ない。しかし、セシリアはフェーンベルグ公爵家へとやってきてノーマンやエマとお菓子作りをする事が度々あった。手作りのお菓子をルイスや使用人の皆が美味しいと食べてくれ、ますます楽しくお菓子作りをするようになっていたのだ。
記憶喪失後は、お菓子作りをする事はなかったが、セシリアを元気づけようというノーマンの配慮であった。
「お菓子作り……?」
「最近レシピ本を見てらっしゃるとか。どうせならたくさん作ってルイス様のとこに届けて貰いましょうぜ」
ニカッと歯を見せて笑うノーマンの提案にセシリアは輝かんばかりの笑顔を見せた。お菓子作りは(記憶喪失のセシリアにとっては)初めてだが、料理長であるノーマンの指導があるなら心強い。上手く作ってぜひともルイスに食べてもらいたい。
「はい! ぜひお願いします!」
ノーマンの誘いに嬉々として応じたセシリアを、使用人一同は微笑ましく見守った。こんなに嬉しそうなセシリアは数日ぶりである。
食後に一度部屋へ戻り、汚れても大丈夫な軽装へと着替える。エマがどこからか準備してくれたエプロンを着用したら準備万端だ。元気がなかったのが嘘のようにやる気満々でキッチンへと足を運んだ。
「仕事中でも片手で食べやすいようクッキーにしましょう。色んな型があるんでどうせなら可愛いヤツにしましょうぜ」
そう言って広げられた型は、星、鳥、花、ウサギ……見てるだけでも楽しくなるほどの品揃えだった。さりげなく大小のハート型が混じっているのはノーマンによる『セシリア様を公爵夫人にお迎えし隊(命名エマ)』作戦だ。
「……たくさん作ったら皆にも配れるかしら?」
セシリアの何気ない一言にノーマンは面食らった。記憶喪失前、初めてノーマンとお菓子作りをした時も皆に配りたいと言っていたのだ。変わらないセシリアの優しさにノーマンは自然と笑みを浮かべた。
「そりゃ、ありがたい。よっし、それじゃいっぱい作りましょうぜ。セシリア様はそこの卵をじゃんじゃん割って下さい」
セシリアがひたすら卵を割っている間にノーマンは大量の小麦粉をふるいにかけていく。セシリアが卵を割り終えると、かき混ぜるのはノーマンが請けおう。その間にセシリアは砂糖を計るのを任される。さりげなくセシリアに力仕事をさせないあたりは流石であった。
生地が出来上がったら、型抜きだ。そこでも、さりげなくノーマンがアドバイスがてら『セシリア様を公爵夫人にお迎えし隊(命名エマ)』作戦を繰り出す。
「ハートを入れたらルイス様喜びますぜ~。きっと仕事の疲れも一瞬で癒やされますよ」
「それなら皆にも入れたいわ。いつもお世話になっているもの」
「んじゃ、ハート多めにしましょうか。皆も喜びますぜ」
ノーマンとしては、セシリアのルイスに対する扱いが、『お世話になっている』からのハートというのには同じ男として同情を抱かずにはいられなかった。
――ルイス様、あんなにアピールしてんだけどなぁ……。
当のセシリアを見れば、せっせと型抜きに勤しんでいる。セシリアを公爵夫人として迎えるにはまだまだ道は遠そうだ。
そうして大量のクッキー(ほぼハートだけ)を型抜きしたら後は焼くだけだ。
焼き加減を見るのはセシリアの仕事だ。もちろん火傷したら大変なので取り出すのはノーマンが行う。焼き上がれば、また次を焼きと何度も何度も繰り返していく。作業台には出来たてのクッキーがどんどん増えていった。キッチンも甘く香ばしい匂いで満たされていく。
大量にあったクッキーを全て焼き終え、セシリアはノーマンの助言でルイス用に一番焼き色の良いものを選別していた。余熱が取れたものからラッピングしていく。中身のハートが分かるよう透明な包装を準備したのは、ノーマンからルイスへの
ノーマンが皿洗いをセシリアが使用人用に包装していると扉をノックする音が聞こえた。入ってきたのはモーリスであった。
「失礼します。セシリア様、よろしければ今から直接ルイス様へそちらを届けに行きませんか?」
ちょうど最後の一つを包み終えたセシリアは、突然の提案に手を止めた。
「……良いのですか?」
屋敷を出てもいいのだろうか。ルイスの職場に訪れてもいいのだろうか。そんな意味も込めてモーリスへと尋ね返す。出来る執事は、そんなセシリアの意図も読み取りニコリと微笑んで見せた。
「もちろんでございます。セシリア様もしばらくルイス様へ会えておりませんでしょう」
ルイスに会いたくて早起きしてはダイニングで待っていたことを使用人一同は分かっていた。ルイスが帰れなくなってからは、見るからに寂しそうにしていたのも知っている。それが恋愛感情ではない事だけが残念でならないが。
セシリアはルイスに会えると聞いて嬉しさを露わにした。はじけんばかりの笑顔は眩しいくらいだ。それを肯定と取ったモーリスは言葉を続けた。
「流石にそのままではいけませんので、お着替えをなさってきて下さい。エマに手伝いを言い伝えてありますので」
「分かりました! ノーマンさん、すみませんが準備してきますね」
「おぅ。持っていきやすいようにバスケットに入れておきますぜ」
「ありがとうございます!」
それはもう嬉しそうに破顔して、退出していったセシリアを見送った後、ノーマンはモーリスへと声をかけた。その顔はなぜだかとても渋い。
「おいおい、セシリア様を外出させていいのかよ……」
セシリアの体調面はほぼ回復しているので問題ない。ノーマンが言いたいのは安全面の事であった。もちろんモーリスとてそこは考慮してある。
「セシリア様に会えずルイス様の機嫌が最悪なんですよ。私が行けない代わりにエマを行かせるので安全は保障出来ます」
「うん、まぁ……それなら大丈夫か」
「あ、そちらのお菓子とサンドイッチは部下の皆様にお持ちするので別にして下さい」
セシリアの手伝いをしながらノーマンはサンドイッチやマフィンも作っていた。元々ルイスの差し入れと合わせて部下の人達にも渡そうと思っていたのだ。
「そんなにルイス様の機嫌は悪かったのか?」
「それはもう。今朝方、訓練場にいた方達をいたぶりながら撃滅したそうです」
モーリスは、着替えを持っていった際にルイスの部下達に助けを求められた事を説明した。実際ルイスにも会ってきたが、それはもう非常に機嫌が悪かった。
「あー……魔王降臨ってか。つーか、そんなルイス様にセシリア様を引き合わせて大丈夫なのかよ?」
「………一応セシリア様に嫌われるような事はしないかと思いますが」
「感極まって我を忘れたりとかしねぇか……?」
二人の間に微妙な沈黙が落ちる。
「「 ………… 」」
ノーマンとモーリスはルイスの機嫌云々よりもセシリアの方が心配になってきた。あんなに嬉しそうにはしゃいでいたセシリアを機嫌最悪の魔王へ差し出してもいいものか……。考えれば考えるほど、
ちなみにちゃんと手は動かしているので、ルイス用と部下用の差し入れはバスケットに詰め終わっている。
「これで婚約破棄まっしぐらなんて笑えねぇぞ」
「同感です。エマにも注意を促しておくことにします」
しばらくして身なりを整えたセシリアがキッチンへと戻ってきた。随分早いのは、エマが高速で準備を手伝ったのだろう。セシリアの背後でドヤ顔をしている。
「お待たせしました!」
セシリアは、よほどルイスに会えるのが嬉しいのか、はしゃいでいるのが隠しきれていない。二人は純粋に喜んでいるセシリアを見てより一層心配を募らせた。
「セシリア様、何かあった際は大声を出すんですぜ!」
「絶っ対にエマから離れないで下さいね!」
「……? はい、分かりました」
そうして、セシリアは男達の心配をよそにエマに付き添われて初外出をする事となったのである。
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