第19話 小さな変化


『セシリア…誰よりも君を愛してる』


 彼はこちらが恥ずかしくなるくらい、いつも愛の言葉を囁いてきた。蕩けるような瞳は甘さをたっぷりと含んでいて、その瞳で見つめられるとドキドキした。ふわりと笑う笑顔には溢れんばかりの愛がこもっていて、彼の気持ちが嘘ではないことが伝わってきた。


 呼び捨てで名前を呼んでほしいと何度もお願いされた。公爵家の方を呼び捨てなど、私には畏れ多くて断った。その都度、子供のようにふてくされた顔をしていたのは何だか可愛らしかった。


 屋敷の人達も皆優しく、ここで過ごす日々はとても楽しかった。


――この人達と……彼とこれからも共に過ごしていけたのなら何て幸せだろう。




◆◆◆◆◆




――夢を見ていた。とても懐かしくて心が温かくなるような夢だ。


 セシリアは朝の支度を手伝いに来たエマをぼーっと眺めていた。まだ夢から覚めないセシリアをよそに、よく動くエマはてきぱきと窓のカーテンを開けていた。差し込む朝日は眩しいくらいに部屋の中を一気に明るくしていく。


「今日も良い天気ですねぇ~。綺麗な青空ですぅ~」


――彼女は、いつも元気で可愛らしい。ちょうど異母妹と同じ歳だったはずだ。


「セシリア様ぁ~?」


 振り返ったエマに、セシリアはハッとした。異母妹とは誰だろうか?寝起きでぼーっとしてしまっていたようだ。慌ててエマに言葉を返す。


「ごめんなさい。少し寝ぼけていたみたい」

「お疲れですかぁ~? 朝食はお部屋にお持ちしましょうかぁ~?」

「いいえ、大丈夫よ。本当に良い天気ね」


 心配そうにこちらを見てくるエマにニコリと微笑みかけ、セシリアは窓辺へと足を運んだ。エマが言ったように、空は綺麗な水色をしていた。爽やかな風がセシリアの亜麻色の髪を撫でていく。


「セシリア様ぁ~、本日のお洋服はこちらにしましょう~」


 エマが用意してくれたのは淡いクリーム色の普段着用ドレスだ。胸の傷跡が隠れるようなデザインのもので気遣いを感じられる。シンプルで動きやすそうな所がセシリアの好みであった。


 私服をほとんど持っていなかったセシリアにルイスはたくさんの服や小物、アクセサリーを用意してくれた。セシリアを飾るその全てがルイスからの贈り物である。しかし、今のセシリアはそのことも覚えていない。


 着替え終える頃には、寝起きのもやもやとしていた頭もすっきりしていた。いつの間にか夢の内容も、エマを見て感じた事も既に忘れていた。


 朝食の支度がされたダイニングへと向かえば、今日も朝からきっちりと身だしなみを整えたモーリスが出迎えてくれる。


「おはようございます、セシリア様。ルイス様もすぐに参りますので先にお席へどうぞ」


 そう言ってモーリスは柔らかな笑みで挨拶をした後、イスを引いてエスコートしてくれた。セシリアも挨拶を返し席へと着く。


 モーリスが紅茶を淹れてくれる頃には、ルイスもダイニングへとやってきた。


「おはよう、セシリア。今日も可愛いよ」


 差し込む朝日に照らされたルイスの銀髪はキラキラと輝いて美しい。朝から完璧な美貌のルイスは、いつぞやの宣言通りおはようの挨拶とばかりに頬へキスをしてきた。


 セシリアとルイスの朝はいつもこんな感じだ。朝一番の顔合わせで熱烈なラブコールをされる。これに否定的な言葉を返してしまうと、二倍にも三倍にもなって返されてしまう。その際、甘さは倍以上になるから恐ろしい。


 ニコニコと何かを待つルイスにセシリアも座ったままながら、ルイスの頬へとキスを返す。人前では恥ずかしいという抗議をすれば二人きりにされ、余計甘美な雰囲気にされるのでこちらも要注意だ。


 セシリアからキスをされ、嬉しそうに蕩けるような笑顔を見せたルイスに頭の中で何かが引っかかった。


――あれ、この笑顔……前にもどこかで……。


 ルイスの笑顔は毎日見ているがいつもと違うような感じがした。懐かしいような気持ちと愛しいような気持ち。なぜそう感じるのか……自分ではよく分からない気持ちにセシリアは内心首を傾げた。


 ルイスが席へと着くと朝食が配膳される。本日のメニューは、ふわふわのオムレツに新鮮な朝採れ野菜のサラダ、温かなオニオンスープに焼きたてのパン。バターや数種類のジャムもある。


 少食のセシリアには一つ一つが少なめに準備されている。栄養バランスを考えて全てを食べきれるようにと料理長・ノーマンの配慮だ。ちなみにルイスの嫌いなナスは出ていない。


「そうだ。今日からしばらく帰りが遅くなると思うから出迎えは大丈夫だ」

「まぁ、お仕事が忙しいのですか?」

「あぁ、少しな。でも優秀な部下達がいるから大丈夫だ」


 セシリアの心配そうな顔にルイスは安心させるように笑いかけた。


 ルイスに優秀な部下と評された彼らは、きっと今頃背筋に悪寒を感じている事だろう。第四部隊から捜査権をもぎ取……譲り受けたため、少し忙しくなったのだ。


「セシリアの寝る時間には帰って来られないだろうから先に寝ててくれ。エマ、セシリアが夜更かしをしないように気を付けてやってくれ」

「かしこまりましたぁ~。お帰りにならなくともセシリア様はお任せ下さぁい」

「……お前はもう少し言葉を選べないのか」

「オハヤイオモドリヲオマチシテオリマース」

「棒読み過ぎるだろう」


 ルイスとエマのやりとりは主従関係というより兄妹のようであった。ルイスの後ろに控えているモーリスは『またか』という顔をしているが止める気配はない。ジーンの時もそうだったが、身分関係なく言い合える様は家族のようだ。微笑ましい二人のやりとりにセシリアも思わずクスクスと笑ってしまった。


 楽しい食事の後、ルイスはこのまますぐに出掛けなきゃいけないそうで、玄関へと直行した。セシリアもお見送りをするべく共に玄関へと向かう。


「はぁ…セシリア……君と会う時間が減るなんて……何とか早く帰れるように頑張るよ」


 玄関でセシリアを抱きしめたルイスは行きたくないとばかりに溜め息をついていた。しばしば見送りの際、こうして抱きしめられるのでいつの間にかセシリアも慣れてしまっている。


「ルイス様、お仕事とはいえあまり無理はなさらないで下さいね」

「セシリア……(可愛い! 優しい! 可愛いっ!)」

「「「 ………(うわぁ、すごいデッレデレ)」」」


 あいかわらずルイスの心の声はセシリアへのぞっこん度合が凄まじい。見た目には世の女性を虜にする美麗な微笑みにしか見えないが、その心の内はセシリア以外にはダダ漏れである。もちろん使用人達は主人の残念具合に呆れるものの顔には出さない。


 そんな中、何も気づいていないセシリアは中々離れようとしないルイスの様子から、よほど仕事が大変なのだろうと心配を募らせていた。少しでも元気づけるにはどうしたらいいのだろう。何か自分でも出来る事はないだろうか。


 考えた末にセシリアは、ある行動に出た。


 ルイスの腕の中に抱きしめられたまま、少し背伸びをしてとルイスの頬へ自分からキスを贈る。今朝、朝の挨拶をした時のルイスの嬉しそうな顔が頭に焼き付いていたからだ。


「………ルイス様、いってらっしゃいませ」


 ルイスは一瞬何が起きたのかすぐに理解できなかった。頬に残るのはセシリアの柔らかな唇の感触。そして自分の腕の中には恥ずかしいのか俯いてしまっているセシリア。


「セシリア……!」


 ようやく事態を飲み込んだルイスは、あまりの嬉しさからセシリアを抱きしめる手に力を入れた。


――可愛い過ぎる! 何なんだこの可愛い生き物! あぁ、もう俺の婚約者が世界一可愛いっ!


 もうルイスの頭の中は『可愛い』しかない。仕事のことなど頭から飛び抜けてしまっている。


「ルイス様、そろそろお時間です」

「………」


 モーリスの声をルイスは聞こえないふりをした。あと少しセシリアを堪能したい。むしろこの幸せな状況に水を差さないでほしい。


「ルイス様、お仕事に遅れてしまいますのでお早く」

「…………」

「あの…ルイス様? お時間に遅れてしまいますよ?」

「セシリア……はぁ…離れがたいが行ってくるよ」


 ルイスとモーリスの静かな攻防はセシリアの困惑した声で打ち崩された。ルイスは、モーリスの再三の督促は無視したくせに、セシリアの言葉でようやく動き出した。モーリスが胡乱な目を向けてくるが無視だ。


 ルイスは先程のお返しとばかりにセシリアの頬へキスをすると渋々ながらようやく離れた。しかし、その顔には行きたくないと書いてあるのが見て取れる。


「ほら、とっとと仕事へ行って下さい」

「おい、モーリス……扱いがひどくないか?」

「主人の時間管理も私の仕事です」


――あら……この、やりとり……前もどこかで……?


 二人のやりとりを見ていたセシリアは心のどこかで引っかかりを覚えた。懐かしいような気持ちだが、それが何かはよく分からなかった。


 ルイスを見送った後は、いつものように遊びに来たジーンと本を読んだりして過ごした。


 午後はジーンがお昼寝をすると帰って行ったので蔵書室に来ていた。前に案内された時よりももっと詳しくどんな本があるのか見学しに来たのだ。


 一つ一つの棚をじっくり丁寧に見ていると、以前見つけたお菓子のレシピ本が目に入った。お菓子など作った事はないが何かに吸い寄せられるように手に取る。分かりやすい図解のレシピで完成図も美味しそうに描かれている。ぱらぱらとページをめくっていくと不思議といくつかのページに目がいった。


――何だろう……懐かしいような……?


 不思議な気持ちを覚えるも心当たりはない。本を閉じ、棚へ戻そうとするもなぜか後ろ髪を引かれる思いがした。結局、気になってレシピ本を部屋へ持っていく事にした。


――今日は不思議だわ。


 朝から時々感じる不思議な感情。自分の気持ちではないような……でもどこか懐かしい気持ち。首を傾げながらも深くは考えなかった。


 ルイスのいない夕食を終え、就寝前にレシピ本を眺めているとまたも不思議な感覚に陥った。レシピ本を一生懸命読み込む自分がいたような。前にもこんな風にこの本を読んだ事があったような……。


「これは……忘れてしまった記憶なのかしら……」


 そう思うも不思議な感覚はすぐに消えてなくなってしまう。本を閉じ布団に横になったセシリアは今日一日の出来事を思い返してみた。


 そういえば朝から何だか変だった。でも今はもう何を感じたかよく覚えていない。


――もしかして記憶が戻ってきている……?


 この記憶が戻ればルイスとの関係は変わるのだろうか。

 明日目が覚めたら全てを思い出しているのだろうか。

 そうしたら今の生活は変わってしまうのだろうか。


 漠然とした不安が募る中、セシリアはきつく目を閉じた。まぶたの裏に今ここには居ない、頼れる優しき人を思い浮かべ眠りへと落ちていった。

 

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