第10話 公爵様のヤキモチ
ジーンが去って行った後、セシリアはルイスに突然抱き上げられて自室まで連れて行かれる事となった。無理をしてはいけないからと言われた上に、何となく断れない雰囲気があり下ろしてくれとは言えなかった。
部屋へ着くと、労るようにそっとイスへ下ろされる。間を置かずにメイド長のアメリアが紅茶を運んできてくれた。いつもはルイスの指示がないと退出しないで部屋の隅に控えているのだが、なぜかすぐに部屋を出ていってしまった。モーリスもエマもやってくる気配はない。
しんと静まりかえる二人きりの空間に、セシリアは気まずい思いに駆られていた。
勝手に部屋から出たことを怒っているのだろうか。だがエマは医師の許可があると言っていた。そんな事を止めどなく考えているとルイスが口を開いた。
「セシリア、俺達は婚約者なのだからそれらしくするべきではないだろうか」
「えぇと……」
言葉の意味が分からずセシリアが悩んでいるとルイスはニコリと柔らく微笑んだ。本日もルイスの笑顔は眩しい。見目麗しいルイスの微笑みにドキリとしたものの、何だか背後に黒いものが見えた気がした。きっと気のせいだろう。
「婚約者であれば先程のような挨拶は普通だろう。ジーンがする事なら俺にも許されると思うんだ」
この一言にセシリアは小さく首を傾げた。『先程のような挨拶』『ジーン』所々の単語を反芻し、ようやく思い至った答えに目を見張った。
「えっ…挨拶って…先程のおやすみのキスの事ですか!?」
「あぁ。この国では普通の事だから何も恥ずかしがる事ではないだろう?」
普通といわれればそうなのだが、幼いジーンにするのとは違い、成人男性……それも端正な目鼻立ちの美青年が相手では全く状況が違う。いまだ記憶が戻らないセシリアにとって、ルイスは『婚約者』というより『お世話になっている公爵様』なのだ。挨拶でキスをするにはハードルが高かった。
ところが、そんなセシリアの葛藤すらもお見通しのルイスは言葉巧みに語りかけてくる。記憶を失った今、セシリアの気持ちが己に向いていない事など承知の上なのだ。それでもセシリアは自分の婚約者だ。あんな小さなライバルに先を越されるわけにはいかなかった。
「あの挨拶は身内や親しい者なら、ごく当たり前にするだろう?」
「は、はい……」
「俺とセシリアは婚約者だよね?」
「えっと……は、はい……」
妙な気迫を感じ取り、ここで否定するわけにもいかずセシリアはとりあえず頷いた。ルイスの笑顔が有無を言わせないものであったのも頷いた理由の一つだ。
「それなら俺達は家族と言えるはずだ」
「はい……」
「家族であるなら何の問題もないだろう?」
「………」
ルイスからの理路整然とした話の流れに、純朴で素直なセシリアは『そうかもしれない』などと思い始めてしまった。こうなるともう主導権はルイスのものである。
「それに婚約者とはいずれ夫婦となる間柄だ。それならば挨拶のキスくらい当たり前だろう」
「……は…い…?」
フウフ……ふうふ……。セシリアは混乱する頭でその言葉を繰り返す。思い当たる言葉はあるが中々に理解が追いつかない。
「あぁ、それとも夫婦であればこちらの方がいいかな?」
ルイスは美麗な笑みを浮かべ己の唇をとんとんと指差してみせた。釣られるようにルイスの弧を描く唇に視線を向けたセシリアは、すぐに言いたい事が分かり顔を赤らめ大いに動揺した。
「い、いいえ! 頬でお願い致します!」
「そうか? それでは頬でお願いするとしよう」
「え……あれ?」
セシリアが上手く丸め込まれたことに首を傾げるが時既に遅し。ルイスの巧みな話術にかかれば素直なセシリアなど手玉に取ることは容易いのだ。
こうして玄関ホールでの朝晩のお出迎え+挨拶のチークキスが新しい習慣となった。
ルイスとしては愛しい婚約者のお出迎えとキスが約束され、大層ご満悦であった。記憶喪失前に遡っても、ルイスから頬にキスをする事はあってもセシリアからして貰った事はないのだ。騙した感は否めないが嬉しいものは嬉しい。
ジーンについては大人の男性として寛大な心を持って目をつむることにした。何といっても相手は子供なのだ。
ようやくヤキモチからの嫉妬を抑えたルイスは、ふとある事を思い出した。それはセシリアが玄関ホールで出迎えてくれた事だ。今更ながらだが部屋から歩いて来たのだろうかと気になった。
「そういえば……玄関ホールまでは階段があったが、大丈夫だったのか?」
「あ、はい。思っていたより大丈夫でした」
突然変わった話にセシリアは頭を切り替えた。
一度も休むことなく自室から玄関ホールまで行けたのはセシリアにとって喜ばしい事であった。それを思い出して少し興奮気味になる。
「部屋から休まずちゃんと行けました。階段も一人で降りられました。エマの手助けもなしにですよ!」
「そうか、リハビリを頑張っていた成果だな」
嬉しそうに報告するセシリアを見てルイスは目元を和らげた。……が、内心ではいつもの如く残念なくらいにセシリアの可愛らしさに骨抜きになっていた。
――はぁ……今日もセシリアが愛らしい。よほど嬉しかったんだな。笑顔が輝いている……可愛い……。
もちろんセシリアの手前、見た目は誰が見ても見惚れるような麗しい笑顔を保っている。しかし、続くセシリアの言葉にルイスの表情は崩れる事となる。
「最近はジーンが遊びに来てくれるのです。きっとそれが良いリハビリになっているんだと思います」
「へぇ……どんな遊びをしているんだい?」
ルイスは再燃し始める嫉妬心を堪えながら尋ねた。
実はルイスの元にはジーンがセシリアと仲良くなっている事は報告されていない。報告する程ではないと判断されたのか……もしくはルイスが子供にまでヤキモチを妬くのを危惧したのか。とにもかくにも、今初めて聞いたのだ。
実際は、使用人一同の総意で『ルイス様のやきもちが面倒そう。それで婚約破棄となったら目も当てられない』という事になっていたとは露にも思わないだろう。
「たまに追いかけっこをしたり……ほとんどは本を読むことが多いです。膝の上に乗せて本を読むのですが、いつも目を輝かせて話を聞いてくれるんです」
「……へぇ」
ルイスは笑顔が引き攣りそうになったのを何とか堪えた。それでも思わずワントーン低い声が出てしまった自覚がある。
セシリアの膝の上など羨ましい限りだ。むしろ自分がセシリアを膝に乗せて抱きしめたい。後ろから抱きしめたらきっとセシリアは真っ赤になることだろう。そんなの可愛すぎてつい意地悪してしまいたくなるではないか。
ルイスは妄想に走りそうになったところを、気合いで逸れた思考を元に戻した。
セシリアが楽しそうならジーンと会うなとは言えない。相手は子供だと何度も言い聞かせる。上位貴族の一員として感情を取り繕う術がこんな所で役に立つとは思わなかった。
「楽しそうに過ごせているようで良かったよ」
「はい、皆さんのおかげです」
表面上では笑顔を保ちながら、ルイスは先程の出来事を思い出した。セシリアと抱き合ったジーンは確かにこちらを見ていた。あからさまに牽制してくるとは、幼くとも男という事だろう。
ルイスは小さなライバルの勝ち誇った笑みを思い出して抑えたはずの対抗心を再燃させた。そもそもジーンは『セシリア姉さま』と親しげでもあった。よほどセシリアと会っているのだろう。
ヤキモチが膨れ上がったルイスは、大人げもなくセシリアを独占する方法はないかと思案し始めた。ある程度歩けるようになった今、非常に残念だが二人きりでのリハビリは必要ない。買い物など街に出掛けるにはまだ体力的に無理だろう。
それならば………一つの案がルイスの脳裏に浮かんだ。
「経過も順調そうだし、今度屋敷の中を案内しよう」
「えっ! よろしいのですか? ぜひ、お願いしたいです!」
ルイスの誘いにセシリアは目を輝かせた。元々、屋敷内に興味が湧いていたセシリアには、願ってもいない誘いであった。
ルイスはセシリアの嬉しそうな顔に満足げな微笑みを浮かべた。さっそく明日と言いたい所だが隊長会議が入っていたことを思い出す。休んだらそこそこ
「仕事が休めそうにないから案内するのは週末まで我慢してくれ」
「はい! 楽しみです…!」
嬉しそうな笑みを浮かべるセシリアにルイスも相好を崩す。
「それまでは無理をしないようにね。それじゃあ、おやすみ……愛しい人」
立ち上がったルイスは、身をかがめるとセシリアの頬に口付けた。
不意を突かれた事もあるが、さっそく有言実行でおやすみの挨拶をしてきたルイスにセシリアの心臓は大きく跳ね上がった。しかも『愛しい人』と耳元で囁いてくるではないか。ルイスの低くて心地良い声が耳から離れなくなる。
だが、セシリアの動揺とはうってかわり、当のルイスは至って普通である。やはりこのくらいの挨拶は普通なのだろうか。恥ずかしいのは自分だけなのだろうか。ぐるぐると考えた挙げ句、セシリアは意を決した。
「……お、おやすみなさいませ」
羞恥心を必死に抑え、お返しのキスを待つルイスの頬へとそっと唇を寄せる。触れるだけですぐに離れたが、それでも恥ずかしくてルイスの顔が見れなくなる。
熱くなる頬を押さえながら俯いたままでいると、頭上からふっと笑う声が聞こえた。思わず顔を上げたセシリアは息を飲んだ。
目の前には、ルイスが麗しい程の微笑みを浮かべていたのだ。愛しい者を見るような甘く蕩ける瞳、艶のある笑顔。
「それじゃ、良い夢を」
柔らかな笑みをたたえたままルイスは去っていった。セシリアはドキドキとうるさい心臓を押さえそれを見送った。
ルイスと入れ替わるようにアメリアが食器を下げにきたが、セシリアは落ち着かない心臓を何とかしようとしていた。
――ルイス様の笑顔……破壊力が凄いです……。
結局、寝る支度をしにきたエマとの会話も上の空となり、この日は中々寝付けない事となるのであった。
翌朝、寝坊をしてお見送りが出来なかったのは言うまでもない。
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