第3話 自分を知りましょう


――君が嫌でなければ俺と婚約してほしい。

――これから共に過ごしてお互いを知っていこう。


 そうだ。

 あの日、戸惑う私に彼はそう言った。とても優しい人で、いつしか共に過ごす時間が幸せなものへと変わっていった。


 あの人は………。



◆◆◆◆◆



 セシリアはぼんやりと目を覚ました。何だか夢を見ていたような気がするが、目覚めと共に全てかき消えてしまった。


 閉じようとする瞼を何度も瞬きして外を見れば、太陽はすっかり高い位置にあった。時計を見ると針はもう昼の時間を示している。どうやら随分ぐっすり眠っていたらしい。


 昨日の夕方、ルイスと話しをしていたのだが、眠気に負けてしまい途中で休ませて貰ったのだ。体が治ろうとしているのだから気にしなくていいとは言われたが申し訳ない事をした。


 そんな事を思っていると、コンコンという乾いた木の音のあと、一人のメイドが入ってきた。随分タイミングがいいものだと寝ぼけ眼で感心する。


「セシリア様、おはようございます。メイド長のアメリアと申します。お支度のお手伝いに参りました」


 そう言って丁寧なお辞儀をしたのは、セシリアより年上で落ち着いた雰囲気の女性であった濃紺色の髪を後ろできっちりお団子にまとめ、サイドは少し髪を垂らしている。薄茶色の瞳は少しつり目がちだ。手には柔らかな湯気が立つたらいを持っている。


「お、おはようございます」


 寝たままでは悪いと思い慌てて起きようとすると、近付いてきたアメリアに軽く肩に手を当てて止められてしまった。


「まだ傷が塞がっておりませんので無茶はなさりませんように」

「すみません……」

「いいえ。具合はいかがですか? 体調が宜しければ、体をお拭き致しますが」


 アメリアの言葉にセシリアはすぐに頷いた。本当はお風呂に入りたいがこの身体ではまだ無理だろう。それならせめて拭くだけでもして清めたい。


 そんなセシリアの思いを察したのかアメリアはたらいのお湯に香油を垂らして準備を始めた。ハーブの清涼感ある爽やかな良い匂いが部屋の中に広がっていく。


 アメリアの手助けのもと身体を拭いてもらうと随分さっぱりとした。まだ身体が上手く動かないため、ほとんどアメリアに任せっきりとなってしまったのが申し訳ない。


「今後はエマという者がセシリア様のお世話を致します。彼女は元々セシリア様付きのメイドですので何なりとお申し付け下さい」

「はい。アメリアさんも忙しいでしょうに……手間をかけさせてすみません」


 手早くセシリアに服を着せるとアメリアは小さく微笑んだ。あまり表情が変わらないと思ったが、笑うと親しみやすい雰囲気がある。


「どうぞアメリアとお呼び下さい。セシリア様のお世話なら喜んで引き受けますわ」

「まぁ…ありがとう」

「エマでは手が足りない際は私が参ります。この後、すぐにエマが食事を持ってきますので身体はこのまま起こしておきますね。それでは、私はこれで失礼致します」


 そう言うとアメリアは退出していった。彼女は、とても生真面目なようだ。動きも話にも無駄がなくテキパキとしていた。


 ほどなくして、アメリアが言った通り一人のメイドが部屋へとやってきた。彼女はセシリアが最初に目覚めた時に見たあのメイドであった。あの見事なスタートダッシュが脳裏に浮かぶ。手には食事を載せたトレーを持っていた。


「セシリア様、お食事をお持ちしましたぁ~」


 彼女はサイドテーブルにトレーを置くと、ベッド横のイスに腰を下ろした。


「私はエマと言いますぅ~。セシリア様付きのメイドですので何なりとお申し付け下さぁ~い」


 にぱっと笑ったエマは、人懐こい子犬のようだった。アプリコット色の髪がカールのように緩く巻かれふわふわしている。焦げ茶色の瞳は大きくてどこか悪戯っ子のような雰囲気がある。間延びした話し方が特徴的ではあるが彼女にはよく似合っていた。


「ありがとう。これからお世話になるわ。よろしくね」


 そうして挨拶を済ますと、食事の時間となった。


 メニューは、怪我から目覚めて初めての食事という事もあり、胃に優しい薄味のリゾットが用意された。食べやすいよう具材も小さく刻んである。一口食べると優しい味が口いっぱいに広がった。


「お味はいかがですかぁ~?」

「とても美味しいわ。食べさせて貰ってごめんなさい」

「いえ、役得ですぅ~。……ルイス様に恨まれそうですがぁ~」

「……役得?」


 エマの後半の言葉が聞こえず首を傾げると、何でもないと言うように笑顔で返されてしまった。


 そして昼食を終えると、エマから話しを聞く事になった。記憶を失う前の自分の事・ここにいる理由・婚約の事……色々な話しをしてくれるらしい。


 本当はルイスが話をする予定だったそうだが、緊急の仕事のため朝から仕事に向かったそうだ。そういう訳でエマが代役を任されたらしい。ルイス様では話しが進まないので、とはエマの言葉だ。


「まずはセシリア様、ご自身の事はどのくらい覚えておいでですかぁ~?」

「……名前だけ。年齢も分からないわ」

「そうですかぁ……。セシリア様は、十九歳の伯爵令嬢ですぅ。二ヶ月ほど前にルイス様と婚約してこの屋敷へといらっしゃいましたぁ~。この部屋はセシリア様が暮らしておりましたお部屋ですよぉ~」


 簡潔で分かりやすい説明だが、改めて聞いても実感のない話であった。セシリアは部屋を見渡した。自分の部屋という感じはしないが、確かに内装や調度品から女性が暮らしていたと推測される。


 昨日、ルイスからは婚約者である事は散々聞かされている。怪我の事を聞いた直後も、婚約者という事を何度も強調されて説明された。困惑しながら聞いているうちに眠気に襲われてしまったのだ。未だに信じられないが、エマの話からもどうやら本当のようであった。


「ルイス様は昨日お会いしておりますねぇ~? あの方は国軍に勤めておられます。二十二歳の若さですがフェーンベルグ公爵家の当主でもあらせられますぅ~」

「お若いのにとても優秀な方なのね」

「はい~。国軍の仕事がお忙しいため、領地はルイス様のご両親が治めておりますが、公爵家当主としての手腕も素晴らしいですよぉ~」


 そう言われてセシリアは昨夜のルイスを思い返した。確かに文武両道といった感じでとても優秀そうな人だった。


「その上あの容姿ですのでぇ~、女性からの人気は非常に高いのですぅ~」


 続いたエマの言葉にセシリアは、またも納得した。あの容姿では社交界ではとてつもない人気であろう。それに加えて、公爵という身分もそうだ。セシリアの同意を察したのか、エマは少し身を乗り出して話を続けた。


「し・か・し! ルイス様はセシリア様へ一目惚れなのですぅ! それはもうセシリア様のみをふかーく愛しております!」

「えっと……家同士のお付き合いがあったのかしら?」

「いいえ、ルイス様の熱烈な一目惚れですぅ~」

「そ、そう…」


 熱く語り出したエマにセシリアは気圧されてしまった。しかも自分などに一目惚れなどと話についていけなくなりそうであった。


「何故というお顔ですねぇ~? セシリア様はご自身の美しさを分かっておられません。亜麻色の長く艶やかな髪、紫の瞳はまさにアメジストのような美しさ! 白くなめらかなお肌に、細くくびれた腰! 柔らかそうで男心をくすぐる悩ましいお胸! 所作は一つ一つが洗練され、儚げで清楚! 使用人にも優しくて…まさに女神ですっ!」


 エマの口から語られる『セシリア』に言葉が出なかった。女神とはどれだけ誇張すればそうなるのだろうか。記憶がないとはいえとても自分の事には聞こえない。いや、記憶があったとしてもそう思えない。


「あの……今のは私のこと…?」

「もちろんですぅ! セシリア様をお見初めになるなんて、ルイス様もお目が高いといった感じですぅ~」


 うんうんと頷くエマにセシリアは話しをまとめるように問いかけた。


「ええと……今の私は以前とは別人という事ね?」

「とんでもない! セシリア様は記憶を失われただけで何か変わったようには見受けられません!」

「そ、そうなの……?」


 エマのお世辞は嬉しいけれども、セシリアの心境としては記憶喪失で傷物の身である自分が公爵家当主であるルイスの婚約者だなんて烏滸がましいとしか思えない。


 公爵という爵位は貴族の中でも最上位だ。しかも若くして当主を務め、国軍に勤めているなど……伯爵家では釣り合いが取れない。


 そう考えたセシリアは自分の思いを口にした。


「あの……ルイス様は婚約について考え直してはくれないかしら?」

「なっ、なぜです!? まさか昨日しつこくて愛想が尽きましたかっ!?」


 目を見開いて驚くエマについ苦笑してしまう。ころころ表情が変わってとても可愛い。きっと記憶を失う前も、この傍付きメイドは心を和ませてくれていたのだろう。


「だってこんな傷物の婚約者など公爵様にはふさわしくないでしょう。ルイス様なら私なんかより素敵な女性がたくさんいるわ」

「そんなぁ……セシリア様はルイス様がお嫌いなのですかぁ~?」


 目を潤ませて見つめてくるエマの問いにセシリアは考え込んだ。婚約者だったのは理解したがセシリアとしては分不相応としか思えない。昨日記憶がなくても妻として迎えたいとは言われたがそれもルイスの気遣いからであろう。本来なら身分の低い方から辞退を申し出るのは失礼だがやむを得ない。


「とても優しい方だとは思うわ。ただ私ではふさわしくないというだけよ」

「…………お伝えは致しますぅ」

「ありがとう、エマ。私からもお会いした時に話してみるわ」


 その後、医師が訪れたので話しはここまでとなった。


 エマが『婚約破棄など認めません』『ルイス様の愛が重すぎるせいだ』『あの顔だけ野郎』などとブツブツ呟いているのには、診察中のセシリアには届いていないのであった。

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