第2話 ここはどこでしょう

ピチチチッ。


 歌うような可愛らしい鳥の鳴き声が響き渡る。その声に誘われるように目を覚ませば、陽の光で部屋が明るく照らされていた。重い瞼も何度か瞬きを繰り返せば、ようやく目が開き視界がはっきりしていった。


――なんだろう……身体が重い……。


 起き上がろうとしても何故だか身体が言うことをきかない。まるで自分の身体ではないような違和感を感じる。不思議に思いながらも無理に起きるのを諦めて首を少し動かせば、周りの景色が目に入った。


 サイドテーブルには包帯やタオル、誰かが居たのか椅子も一つある。反対側を見れば、大きな窓からはよく晴れた青空が見えた。木の枝にはオレンジ色のまん丸とした鳥が数羽止まっている。先程の声はこの鳥達だろう。


 そして自分はどうやらふかふかのベットに横になっているようだった。いつ寝たのだろうか全く思い出せない。


 そんな時、静かに扉をノックする音が聞こえた。


「セシリア様……?」


 ふと聞こえた声の方へ顔を向ければ、黒いお仕着せに身を包んだ女性が部屋の入口に立っていた。彼女と目が合うとよほど驚いたのか手に持っていたタオルをバサリと落としてしまった。


「ル、ルイス様ぁぁーー!」


 彼女は落としたタオルをそのままに、見事なスタートダッシュでどこかへ走って行ってしまった。セシリアは落ちたままのタオルをぼんやりと眺めていた。


――ルイス様? 誰だろう?


 そう考えたのも束の間、すぐに慌ただしい足音が近付いてきた。先程の女性だろうかと開け放たれたままの扉を見ていると、一人の男性が物凄い勢いで部屋へ入ってきた。男性があまりの勢いで近寄ってくるのでセシリアは目を丸くして驚いてしまった。


「あぁ…セシリア……良かった……」


 男性は、美しい銀髪にとても整った顔をしていた。セシリアを見つめる瞳はアクアマリンのように澄んだ青色で吸い込まれそうなくらい美しい。凛々しくも色気をはらんだような美丈夫であった。


 よほど急いで来たのか少し髪は乱れていて、服も胸元のボタンがかけられていない。もしかしたら着替えの途中だったのかもしれない。


「……っ」


 セシリアは声を出そうとしたが上手くいかず息だけが吐き出された。なぜだか胸にズキリと鋭い痛みも走った。それでも何とか声を絞り出そうともう一度息を吸った。男性もそんなセシリアに気付いたようであった。


「セシリア、無理はいけない」

「………れ…」

「ん?」


 いつの間にか部屋の入口には多くの人が集まってきている。誰もがセシリアの声を拾おうと息を飲んだ。セシリアはかすれた声を振り絞るようにもう一度口を開いた。


「あなた…は……だれ?」


 途切れ途切れながらも発したセシリアの一言に部屋中の空気が凍りついた。当のセシリアはたった一言に息が切れそれどころではない。


「セシリア……」

「………?」


 目の前の男性はこちらを呆然とした表情で見ていた。セシリアはそんな彼の様子にますます困惑する。


――彼は誰? ここはどこなの?



◆◆◆◆◆



 医師の診察を受けたセシリアは、大怪我からの記憶喪失だと診断された。


 診察中、医師の質問に頷いたり首を振ったりして答えていくうちに、銀髪の男性の表情は暗いものへと変わっていった。


 どうやら日常生活など習慣的な事は記憶があるものの、己のことも含めて人間関係全般がきれいさっぱりなくなっているらしい。


 医師からは、何かの拍子に思い出すこともあれば、一生思い出さないこともあると伝えられた。合わせて怪我の事もあり、しばらくは絶対安静だと告げられた。


 診察が終わり医師が銀髪の男性と話している頃には、セシリアはまたうとうとと眠りについてしまった。


 そうして次にセシリアが目を覚ました時にはすでに夕暮れであった。まだカーテンがされていない窓からは、きれいな夕焼けが見えた。横になったまま薄暗くなっていく部屋をぼんやりと見ていると、猛烈な喉の渇きを覚えた。


 首だけ動かしてサイドテーブルを見れば水差しとグラスが目に入った。寝ている間に準備してくれたのだろう。


 喉を潤すために体を起こそうとするも、力が入らず中々上手くいかない。それでも朝に目覚めた時よりは多少体が動くようであった。起き上がろうと何度も四苦八苦するうちにすっかり息が上がってしまう。もう一度挑戦しようと腕に力を込めた時、部屋の扉が静かに開いた。


「セシリア!」


 そこにいたのは、あの銀髪の男性であった。セシリアは彼の声に驚き手を滑らせてしまった。幸いふかふかの枕が受け止めてくれたが胸がとても痛い。痛さと苦しさから荒い息をついていると男性はセシリアの元へと走り寄ってきた。


「セシリア、何て無茶を!」

「……おみ…ず……飲みたくて…」


 心配そうな表情に罪悪感を覚えながらも、途切れ途切れにそう伝えると男性は驚いた表情をしていた。そしてすぐに壊れ物を扱うかのようにセシリアをそっと抱き起こしてくれた。背にクッションをいくつも置いてそこにセシリアを寄りかからせた。


「苦しくないか?」

「……は…い…」

「ほら、無理はしないでゆっくり飲むんだぞ」


 男性は水を入れたグラスを支えてゆっくりと水を飲ませてくれた。少しずつ水を飲むと喉が潤っていく。それと共に体が目覚めていくような感覚も感じた。セシリアがほぅっと息をつけば男性は目元を柔らかくさせて微笑んだ。


「ありがとうございます」

「いや。それより起きたのなら少し話をしても大丈夫か?」

「はい……」


 話と言われてセシリアは無意識に身構えた。不安そうなセシリアに男性はどこか切なげな表情を浮かべている。


「まずは改めて自己紹介だな。俺はルイス。ルイス・フェーンベルグだ。この家の当主でもある」

「フェーンベルグ様?」

「……ルイスでいい」


 どこか拗ねた表情のルイスに、セシリアは戸惑いを覚えた。


 記憶のないセシリアにとっては初対面のルイスを名前で呼ぶことには抵抗がある。今いる部屋だけを見ても彼が貴族であるのは明らかだった。そんな屋敷の当主であるなら上流階級だろう。それを名前で呼ぶなんて畏れ多い。


 セシリアが悩んでいるとルイスは遠慮がちに言葉を続けた。


「君は自分の名前以外何も覚えていないとの事だが…その……君は俺の婚約者だ」

「…………え?」


 ルイスの一言にセシリアはたっぷり間をあけて考え込んでしまった。ようやく出た言葉も間の抜けたものだった。


――婚約者?  私が彼の??


 ルイスは戸惑った顔でこちらを見ていた。


 夜空に輝く月のように美しい銀髪、澄んだアクアマリンのような瞳は男性的で鋭いながらも色気を含んでいる。鼻筋はすっと通っていて涼やかで凛々しい顔つきだ。女性なら誰しも目を奪われる容姿をしている。


 そんな彼が自分の婚約者とは何の冗談だろうか。セシリアはそんな思いでおそるおそる口を開いた。


「あの……何かの間違いでは…?」

「………」

「……あ、あの?」


 黙り込んでしまったルイスにますます不安が募る。もう一度声をかけようとした時、壁際から声が聞こえた。人の気配を感じなかったセシリアは思わずビクリと肩を震わせた。


「ルイス様、いつまでそうしているのですか。セシリア様が困っておいでですよ」

「あ……えっと……」

「突然割り込みまして失礼致しました。私は当家にお仕えするモーリスと申します。以後お見知りおきを」


 優雅な一礼をしたモーリスはルイスと同じくらい……もしくはそれよりも少し上の年齢に見えた。ダークグリーンの髪はぴっしりなでつけられ、黒の執事服がとても似合っている。まさに出来る男といった風貌であった。


「はっ! すまない…ちょっと現実逃避を……。セシリア、君は俺の婚約者だ。俺がそう望んだ。間違いなどではない!」

「……えっと…」

「記憶がなくて不安だとは思うが、俺は君を心から愛している」


 ルイスはセシリアの両手を掴み熱い視線をセシリアへ向けた。そんな必死なルイスとは真逆に、セシリアは情報整理が追いつかずどうしたらいいのか分からないでいた。


「セシリア、一緒に思い出していこう。記憶が戻らなくても俺は君を妻にしたい」

「……あの…」


 ルイスはセシリアの返事を待つようにじっと見つめてくる。ルイスの熱い告白にセシリアは戸惑うばかりであった。


 婚約者だったと言われても何一つ思い出せない。セシリアとしては初対面でいきなりプロポーズされているようなものだ。


「……とりあえず……実家に帰ってもよろしいでしょうか?」

「……えっ?」


 まさかの実家に帰りますという答えにルイスは麗しい顔を唖然とさせた。プロポーズをしたのにフラれたようなものだからだ。


 あからさまに気落ちしたルイスを見て、セシリアは説明するように慌てて言葉を付け足した。それほどまでにルイスの落ち込みぶりがすごかったのだ。


「あの…このまま……ここでお世話になる訳には…。なので実家に戻るのが良いかと思いまして……」

「君はここで療養してくれ。その怪我で移動は無理だ」


 セシリアとしては初対面の相手に迷惑をかけたくないという気持ちがあっての発言だった。しかしルイスの言うように体が言う事を利かないのも事実であった。


「……では、体が動くようになるまでお世話になってもよろしいでしょうか?」

「いや、ずっといていい」


 安心させるためか優しく微笑んだルイスにセシリアは苦笑するしかなかった。体が動くようになったら実家に戻ろう…そう心に決めた時、ふと疑問が浮かんだ。


「あの…ところで私はどこか怪我をしたのでしょうか?」

「………君は……胸を刺されたんだ」


 ルイスの答えにセシリアは己の胸へと視線を下ろした。胸元は、ガーゼで覆われていて傷は見えない。しかし目覚めてからずっと痛みを感じている場所でもあった。

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