記憶喪失令嬢と公爵様の婚約生活

すず

1章 記憶喪失編

第1話 記憶喪失

「セシリア、体調は大丈夫なのか?」

「ルイス様。本を読んでいるだけですから大丈夫ですよ」

「それでも無理はしないでくれ。君にもしもの事があったら俺は生きていけない」


 ベッドサイドの椅子に座り、切なげな表情でこちらを見つめてくる美丈夫。彼はこのフェーンベルグ公爵家の若き当主である。


 そして、私……セシリアの婚約者でもある――らしい。




◆◆◆◆◆




――……寒い……。


 真っ暗な世界は、凍えるように寒かった。手足は冷えて何の感覚もない。身体中が寒いのに震えてはいなかった。


 上も下も分からない暗闇の世界。私はなぜこんな所にいるのだろう。自分の手足でさえも見えない漆黒の闇の中、辺りを見回しても何も見えるはずはない。


 何をするでもなく、ただ立ち尽くしていた。


 どのくらいそうしていたのか分からないが、なぜか動く気がしなかったのだ。ぼーっとする頭の中、暗闇をただ見つめて立ち尽くしていた。


「……………っ!」


 突然何かが聞こえた気がしてゆっくりと辺りを見回した。しかし、やはり何も見えないし誰もいない。


 何となく歩き出そうとした時、今度は間違いなく声が聞こえた。


「セシリア!」


 その声は男の人のもので、今にも泣き出しそうであった。


 セシリアとは誰の事だろうか。定まらない思考の中、ふと指先にぬくもりを感じた。寒い体とは相反して次第に指先が温かくなっていく。


「セシリアっ!」


 またも聞こえてきたのは、先程と同じ男性の声だ。とても必死な声で叫んでいる。


 こんな暗闇の中で誰かを探しているのだろうか。思わず声の聞こえる方へと踏み出した。それは先程歩き出そうとした方向とは真逆であった。


 真っ暗闇で果たして方向が合っているのかも分からない。この暗闇が身体に纏わり付いているかのように体がとても重く息苦しい。それでも一歩一歩ゆっくり進めば、次第に声が大きくはっきりしたものになっていった。


「セシリア……死なないでくれっ」


――死ぬ? この人は誰かを失いそうなのだろうか。


 暗闇の中、何かが見えないかと必死に目を凝らしてみる。すると先程とは違い、うっすらと何かが見えた。それでも視界は不鮮明でまるで黒い霧がかかっているようだった。


――あなたは誰?


 ほんの一瞬だけ見えた泣きそうな顔の男性。目が合ったような気がする。いや、彼は確かにこちらを見ていた。それが誰だったのかは分からない。もっとよく見ようとするも視界はまた真っ暗に塗り潰されて何も見えなくなってしまった。


「目を覚ましてくれ…セシリア!」


 もっと先へ行けばこの声の主がいるのだろうか。


 そう思い、聞こえる声だけを頼りに歩き続けた。進めば進むほど何故だか胸が痛い。息が苦しくて呼吸をするのすらツラくなっていく。それでもなぜか進まなければいけない気がした。


 男性の声はまだ聞こえる。『セシリア』と誰かの名前をずっと必死に呼び続けている。


 彼はこちらを見ていた。セシリアとはもしかして自分の事なのだろうか。そういえば私の名前は……思い出せない。


――セシリア……。


 ふとその名を口に出して呟いてみた瞬間、霧が晴れたように頭の中がハッとした。


 そうだ、セシリアとは自分の事だ。そんな事をなぜ忘れていたのだろう。そう気付いた瞬間、突然意識が朦朧とし始めた。


――待って、あの人が呼んでいるのに……。


 そう思ったがセシリアの意識はそこで途切れてしまった。

 

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