第17話 予感
「
この日の用事を済ませて、滞在先までの帰路を歩いていた見世物小屋の主人を呼び止めたのは、月子の父、
「ああ、旦那さん。お世話になってます。そちらもこれから、ご帰宅ですか?」
「ええ。今夜は村の
健三は悟と並び立つと、ピンと背筋の伸びた彼を横目で観察した。五十を折り返した健三は、悟よりも若いはずだった。しかし隣を歩くこの男は、とてもそんな風に見えないのだから不思議である。顔に刻まれる皺は極端に少なく、年齢相応に
「寄合? つい先日もありましたね。この時期こんなに集まりがありましたっけ」
毎年同じ時期に滞在しているので、村の行事や習慣についても覚えがあるのだろう。
小首を傾げる悟に、健三はため息混じりに説明した。
「……世間はきな臭くなってるでしょう。ここらは都会から離れているから、変化は感じにくいけれど」
「ああ」
「帝都はどんな様子なんですか」
健三が足を止めたので、悟も立ち止まった。
見世物小屋の主人は、健三が欲しがっている情報がどういう類のものなのか、察しがついていた。悟は一座を率いて各地を移動するが、拠点を置くのは東京なのだ。留守にする時間のほうが圧倒的に長いが、自宅も東京にある。
「昨年、不祥事件があったでしょう」
悟が言うのは、昨年七月に発生した、陸軍青年将校達による二・二六事件のことだった。
「あの事件の後、僕たちもすぐにまた巡業に出てしまいましたけどね。流石にしばらくは、物々しい雰囲気だったようですよ」
「食い逃げ解散も、ついこの間のことだ」
食い逃げ解散とは、三月の終わり、軍の圧力で突如衆議院が解散した出来事である。
「政治情勢に疎い僕でも、陸軍の政治権力が増長しているなぁというのは分かります」
悟は穏やかな顔で謙遜した言葉を使ったが、健三は緩く首を振った。この座長は決して世情に疎くはない。敏すぎるくらいだろう。
だからこそ健三は悟の意見を聞きたかったのだ。末娘の月子は見世物小屋一座の来訪を毎回楽しみにしているが、彼女とは別の意味で、健三も悟がもたらす生きた情報を待ち望んでいるのだ。
「……この村は今のところ平気だが、他人事ではないのです。兵に志願する若い衆が増えれば、食い扶持は減っても豊かになるわけでもない。負担は増えるばかりだ」
六年前の世界恐慌をきっかけに、富豪と庶民、都市部と農村というありがちな構図で経済格差が拡大していた。
貧しい農村出身の軍人が増えたのもこの頃からだ。
「軍事蜂起の恐ろしさを目の当たりにしたものだから、政府は軍に強気に出られなくなってしまったのでしょう。正直に僕の見解を申し上げると、おそらく軍主導の政治体制は、しばらく続くのではないかと思いますよ」
再び歩み始めた二人だったが、健三の足取りは重たかった。
「気分の悪いお話をしてしまいましたね」
「いえ、そんなことない。いつもあなたが各地の話を運んでくれるから、私共は助かっているんだ。どうですか、今夜。寄合に顔を出してはもらえないだろうか」
「喜んで」
にっこり笑った悟の顔は、どう見ても初老を過ぎた男のものではなかった。
長い付き合いになる上、その付き合いの中で不利益を被ったことは一度もない。それなのに底しれぬ不気味さを感じてしまう自分の心に、健三は密かに罪悪感を覚えるのだった。
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