思い出は47センチ

鍵崎佐吉

47cm

 二日酔いの頭を抱えて空になったコップとスナック菓子の残骸をぼんやりと眺めていると、何かがわずかに床で光ったような気がした。まさか、と思って俺は重い腰を上げ、じっと目を凝らす。そこにあったのは一本の輝く糸、俺が恋い焦がれてついに届かなかったものだった。


 出会いは大学二年の春だった。学術的な興味というよりは単純に教授と気が合いそうだったからという理由で選んだゼミに彼女はいた。当たりさわりのない自己紹介をしてゆっくりと席に着いた彼女の、少しはにかみながら髪をかき上げるしぐさに俺は見惚れた。美しく滑らかなその長い黒髪は薄汚れた青春を謳歌する跳ね上がりどもの中で、磨き上げられた黒曜石のように輝きを放っていた。


 俺は床に落ちていたそれをゆっくりと拾い上げる。喜びと虚しさのせめぎ合いの中で、緩やかに湾曲を描くそれを慎重に引き延ばす。細くしなやかで繊細な、彼女の一部だったもの。失くしてしまわないようにしっかりと指でつまんだまま、俺は洗面台でそれを軽く水洗いする。そしてハーモニカを奏でるように、右から左へゆっくりとそれを舐めた。


 ろくに恋愛経験のなかった俺には彼女にアプローチをする勇気などなかった。それでも一年かけて、ようやく友達と言える所まではこぎつけた。俺と男友達、彼女とその女友達、同じゼミの四人でカラオケに行ったり居酒屋で駄弁ったりする日々が続いた。おとなしそうに見えた彼女も、身内の前では意外とよく喋る方だとわかった。

 ついでに彼女は巨乳だったので、一度酔ったふりをしてバストサイズを聞いてみた。彼女は笑いながらIカップだと教えてくれた。Iってなんだよ。でかすぎんだろ。その豊かな胸を彼女の長い髪で隠している、そんな光景が脳裏に浮かんだ。


 引き出しから物差しを引っ張り出して、俺は彼女の髪の長さを測る。30センチ物差しでは足りない。やや苦戦しながらどうにか測ってみるとだいたい47センチあった。

「……47センチ」

 俺は声に出して言ってみる。それはIカップと同じく、魅惑の響きを放つ数字だった。47センチ。長すぎんだろ。それは彼女が生きてきた時間そのものであり、拘りと執着の集大成でもあった。俺も散髪が面倒でだらだらと髪を伸ばしていた時があったが、それでもかなりのわずらわしさを感じていた。彼女はその数倍の手間をかけてなお、ゆっくりとこの艶やかな一筋の宝物を育んできたのだ。興奮するなという方が無理な話だった。


 はっきりと自分の趣向を認識したのは彼女と出会ってからのことだ。といってもきっかけは彼女ではない。単位のために取った歴史の授業で、無理やり髪を剃られる売春婦の映像を見たのがきっかけだった。侵略してきた敵国の兵士をもてなしていた彼女たちは、戦争が終わると売国奴として同胞に糾弾された。

 それは直接的な暴行よりもよっぽど凄惨な暴力だった。俺は激しい憤りを覚えると共に確かに興奮していた。美しいものだから人はそれを壊そうとするし、容易く壊れてしまうからこそそれは美しい。画面の向こうでうなだれる名も知らない女の顔が彼女と重なった。


 いっそ食べてしまおうかとも思ったのだが、もう二度とこれが拝めなくなるというのはやはりもったいない気がしたので保存することにした。キッチンからジップロックを持ってきてその中にそっと彼女の髪を入れる。綺麗な弧を描いて丸まったそれはまるで黄金螺旋のようだ。毛先に向かって徐々に金色に染まっていくその一筋の光を俺はそっと指でなぞった。


 四年生も半ばに差し掛かり、卒業の二文字が視界にちらつき始めても、彼女との関係になんら進展はなかった。とにかく俺は自分の欲望を彼女に悟られたくなかったのだ。恋の成就なんかよりも、それがもう見られなくなってしまうリスクの方が重大だった。

 就活もひと段落したところで、久しぶりに皆で飲み会でもしようという話になり、俺の家に集まることになった。他の三人は実家暮らしなので宅飲みをするなら必然的にうちになるのだ。予感というほどではないが、なんとなくこれが最後になるんじゃないかという気はしていた。


 数か月ぶりに会った彼女は変わっていた。あの艶やかな黒髪は根元からグラデーションを描くようにダークブラウンから金へと染められていた。俺が問うよりも先に彼女は俺に聞いた。

「どう? 似合うかな?」

 半瞬の内に俺の心は暴風雨に晒され、それでもどうにか彼女に気取られない速さで返事をした。

「良いと思うよ」

 彼女は少しはにかむように微笑んだ。

 広告業界に就職が決まったから、思い切って派手目にしてみたのだそうだ。その判断が正しいのかどうかは俺にはわからないが、彼女がもう俺の手の届かない場所に行ってしまったのだということははっきりと感じていた。

 どれだけ変貌しようとも確かに美しかった。だから俺には触れられないのだ。その後のことは酔っていたのであまり覚えていない。


 それは届きもしない恋の亡骸だった。そう思いたかった。

 俺はそれを引き出しにしまい込んで二日酔いの体を再びベッドに沈めた。

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思い出は47センチ 鍵崎佐吉 @gizagiza

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