爪
塩海苔めい
爪
潮風と太陽は、少し浴びる分には心地よいものだけれど。
もし
それくらい、凪は有り余るくらい充分に潮風と日差しの恩恵を受けている。
肌は真っ赤に日焼けして、ニキビやそばかすがさらにその赤さに拍車をかけている。
水色のランドセルについた鈴のチャームが、凪が動くたびに甲高くうるさい音を立てている。
凪は、全速力で走って観光客の間をうまくすり抜けてゆく。
前は見なくても大丈夫。
道は分かってるし。
カップルの間を抜ける時,危うくぶつかりそうになった。
男がチッと舌打ちして、凪に侮蔑の目線を送る。
「やぎした歯科」と書かれた三本目の電柱で左折して、住宅街に入る。
掲示板のあるところを右。
ちょっと進んだら左折して、郵便局を通り過ぎる。
そしたら信号を渡って海岸に出る。
海岸といっても、観光客が行くのは島の反対側の砂浜。
こっちはゴツゴツした岩たちが協力して海を切り取っている、無機質な海岸だ。
柵で遮られているが、岩たちは今日も動かず黒いまま。
凪は安心感を覚えながら、その横を走って通り過ぎる。
あと五分くらいしかない。覇気のないサンダルの足音と、喉の渇き。
自転車が欲しいな、と凪は思う。
凪の家は海岸線沿いにある。
近道をして、しかも走ったから、間に合うかもしれない。
ドアを開けて流れ込むように中に入ると、「ただいま」と元気よく叫んだ。
「おかえり、凪。今日も行くの?」
「うん。じゃあ渡、行ってきます。」
「こら、お母さんと呼びなさい。」
凪はランドセルを床に投げ捨てて、勢いよくドアの外へと飛び出す。
渡は彼女を声だけで追いかけると、少し呆れたように微笑んだ。
さらに走る。
右側に見える岩がもっと大きく、もっとゴツゴツしたのに変わってくる。
それと同時に、海面も濁りのあるような、そんな色へと変わってきて、凪の焦りは最高潮に達する。
疲れた。
でも足は絶対に止めない。
頭を上下に揺らしながら、ただがむしゃらに走る。
左側に、階段が見えた。
車は来ていない。
渡って、急な石段を駆け上がる。
前につんのめって転びそうになったけれど、なんとか堪えて片手をついた。
疲労が凪の足を掴んで、駄々を捏ねているみたいに言うことを聞かない。
頭も暑さで鈍ってくらっとする。
頑張ろう、あと少し。
上がった先の開けた人気のない道路を横断して、細まった路地を抜ける。
すると、急に開けた景色が現れた。
眩しくて嬉しくて、凪は思わず目をくしゃっとさせる。
間に合った。
凪が見たかったのは、ここからの景色だった。
凪は一人でよく探検をしているのだが、ここはその時に見つけた場所だった。
ここからは、自分のいる町が一望できた。
木々が上と左右を遮って木の葉を揺らし、その切り取られた景色はさながら絵画のよう。
海は今まさに沈まんとする夕陽を照り返してキラキラと輝き、空も茜と紫がうまく混じり合って、複雑で魅力的になる。
少しだけ見える砂浜には、テントを畳んで帰ろうとする人たちが小さく見えた。
凪はその美しい景色を全身で感じながら、奥にある小さな水道の蛇口を捻って水を含む。
「ぷはぁ」
息切れとため息とが重なり合って変な声が出た。
でも、ここは凪だけの秘密の場所。
誰にもそんなこと気にされない。
凪が寝転がると、背高な草花が汗だくのタンクトップと首元をくすぐったく撫でた。
心地よい風が吹き、凪は満ち足りた気持ちになる。
どれくらい経ったのだろう。
凪はゆっくりと起き上がって、ハッとした。
あたりが明らかに暗い。
鈍くなっていた頭を働かせて、左手についていた腕時計を目の前へ持っていき、右上のボタンを強く長押しする。
すると緑を帯びた背景に、無機質なデジタル文字が二〇時三八分を示していた。
「え。やばい。やばいやばいやばい。」
冷や汗が止まらない。
凪は、たとえ日没を拝んでも、夕食の始まる二〇時までには帰ると渡と固く約束しているのに、どこを見渡しても、街灯のないここは墨を塗りつぶしたように真っ黒。
唯一、星と月だけが凪を励ますように夜空を彩っている。
慌てて立ち上がった凪がその場を後にしようとした時、強い潮風が吹く。
髪たちが意思を持って凪の頬にきつく当たる。
すると、ガサゴソと茂みの中から何かが動く音を聞いた。
凪の荒れた唇がこわばる。
やがて現れた人影は、立ち尽くす凪の左腕の方まで歩いてきた。
その人影も、凪がいることに驚いたようだった。
「……あなた、誰。」
消え入りそうなか細い声が、風を伴って響く。
「あ、えっと、その」
凪は頭が真っ白になってどもるばかり。
その人影は腕を組んだ。凪より背がずいぶんと高い。
「ここ、私の家の敷地なんだけど。」
「え」
その時、月光が凪たちに差し込んだ。
凪は少女を見た。
肌はフランス人形のように真っ白で、端正な顔立ちをしている。
痛みを知らない艶やかな黒髪がかかった、怯えたように輝く漆黒の瞳。
柔らかい白のワンピースにカーディガンを合わせた大人っぽい服装だった。
美人ではなかったが、少女はどこか子供時代をすっ飛ばして、生まれたときからそのままの姿であったような不思議な雰囲気を纏っていた。
「あ、えと、勝手に入ってしまってごめんなさい、私……知らなかったんです。あと、あまりにもここからの景色が綺麗で、つい。」
少女は面食らったように目を見開く。
そして腕を後ろで組み直して、小さく口の端を上げると、凪の近くへ数歩歩み出た。
「ここ、素敵な眺めよね。分かるわ。あなた、名前はなんと言うの。」
「凪です。あなたは……。」
「高瀬美里よ。まさか私以外にもここが好きな人がいるなんてね。凪さんはこの辺に住んでるのかしら。」
美里と凪は少し話をした。
美里は中学生だと言った。
東京に住んでいて、この別荘には毎年避暑にやって来るそうだ。
「でも、もうこの別荘は古くなったし、売り払うの。お父様がそう仰ってたわ。だから今日は最後。この景色にお別れを言いに来たの。」
「え、そうなの。残念だな。」
凪が素直にそう口にすると、美里は少しだけ笑顔を見せた。
凪は思わず美里の両手を取る。
細い美里の手は、小学生の凪でも容易に握りつぶせそうなくらい頼りなかった。
「また美里さんに会いたい。もっとお話ししたいです。」
「……私も凪さんに会いたいな。来年、必ず来るからね。」
美里はそう、力強く言った。凪も頷いた。
…あれから十五年が経って、凪は二十六歳になろうとしていた。
ここ数年、目まぐるしく過ぎる毎日の中で、ふと美里のことを思い出すことがあった。
だが、どう頑張っても凪は美里の顔を思い出すことができなかった。
夏の熱気と潮風にあてられて見た幻覚だろうか、それともそれらが陽炎のように美里という存在を覆ってしまっているのだろうか。
小さい頃のことなので家に帰ってからのことは記憶からすっぽり抜け落ちている。
だが多分、凪はこっぴどく渡に叱られたのだろう。
その代わりに鮮明に思い出されるのは、美里の爪だった。
ピンク色と紫色という摩訶不思議な色をした爪が交互に並び、それぞれについた五粒の白い玉が月光を照り返して、凪の手に優しく食い込んだ。
ずいぶん後に、それをネイルと呼ぶことを知った。
凪はその縁もあってか、一昨年晴れてネイリストとなった。
そして東京のショッピングセンターにあるこぢんまりした店で働いている。
美里は決して私のことを覚えていないだろうし、別に会いたいという気もなかった。
ただ、凪の心の根底には、いつも夏の匂いにあてられて輝く美里の爪があった。
爪 塩海苔めい @konaai
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