【禁室 五】

 ぴちょん、と何処かで雫が垂れて、冷たいタイル張りの床に跳ね落ちた音がする。

 昴流は膝の上に乗せた弁当箱をぼんやりと見下ろしながら、静かに耳をすませていた。

 ぴちょん、ぴちょん、ぴちょん。

 ピアノの鍵盤を一つ一つ丁寧に叩くように、美しい音色を伴った水の塊が、此処彼処で音を奏でる。

『此処は落ち着くだろう?』

 脳に直接語りかけるような、或いは落ちる雫の中に潜むような、不思議な声が浴室に響き渡る。

 昴流はゆっくりと視線を上げて、浴槽に沈むようにして体を収めるその人を見た。

 神崎すばる。五人の【カンザキスバル】の中で、一番昴流に――昴流の式神もどきに――近いひと。名前以外、殆ど共通点のないスバル達の中で、唯一、全てのスバルに近いひと。

 男とも女ともとれる容姿、声、魂を、昴流はじっと視つめていた。

「すばる、君はいつも此処にいるけれど、それは何故?」

 くすくすと笑うすばるに、昴流は顔がぽっと火照るのが分かった。幼い子どものような質問の仕方だったと思う。

 しかし、水のように揺蕩い揺らめくすばるはそれを指摘することなく、反響するような声で『最初に言った通りかな』と言った。

『落ち着くんだ。羊水に浸かってた頃を思い出す。きみはそう思わない?』

 昴流は頭を横にふった。時に人は、母親の胎内で育まれていた頃のことを覚えていることもあるそうだが、生憎昴流にはその記憶はない。

 それどころか、母親との優しい思い出すら、遠い昔のことのように感じるのだ。

「俺は……覚えてない」

 だから、昴流は正直にそう答えた。何故かすばるの前では、見栄を張ったり取り繕ったりしようとする気持ちを抱くことなく、常に素直な心で対峙することが出来た。

 一方、すばるは透き通った水面のような笑顔を浮かべると、『人間って昔のことはすぐに忘れるものね』と柔らかな声色でそう言った。

『特に、辛くて苦しくて厭な記憶は』

 ぴちょん、とまた何処かで、天井から垂れた水滴が弾ける音が聴こえた。浴室の丸窓の外へ視線を向けると、降り積もった雪が一面を覆い尽くしていた。しんしんと降る粉雪と、崩れた雪だるまの残骸、雪と同じくらい真っ白な石造りの地蔵、そして枯れて痩せた木々を見ていると、身体の芯から凍えるような心地になる。

 昴流は窓から視線を引き剥がすと、浴槽の中で溶けて沈むすばるを見つめた。

「すばるにも……思い出せないことは、あるのか?」

『そんなに永く生きてないから。思い出す以前の問題さ』

 子どもにも大人にも見えるすばるの瞳が、優しく細められる。慈しむような色を乗せた眼球に射抜かれた昴流は身を縮こませて、最後の一つである弁当箱を抱え直した。

 一方、すばるは謳うような声色で、言葉を続ける。

『ぼくはきみたちと違うことが多いんだ』

 たしかに、と昴流は内心頷いた。すばるは明らかに、昴流を含めた他のスバル達とは一線を画している。何が、と問われると具体的な答えはないのだが、敢えて言うならば、成り立ちからして異なるように思えた。

 しかし、昴流はその考えをおくびにも出さずに、無邪気な表情を装って首を傾げると、「そうなの? 例えば?」と、やはり幼い子どものような口調で訊ねた。

 すばるは微笑む。昴流の内心の思惑を全てお見通し、と言わんばかりに。

『おれには幼馴染みなんて居ないよ』

 心臓が、ドクリ、と厭な音をたてた。ドッと冷や汗が吹き出し、昴流の背中をびっしょりと濡らしていく。

 幼馴染み――六連のことだ。朱春、修晴、栖刃琉には確かに存在した、共通の友人。家族と同じくらい近しい者。しかし、すばるの世界には存在しないらしい。

 何故、と訊ねようとして、結局昴流は疑問を全て飲み込んだ。形のあやふやな、水の中でしか生きられないすばるを見て、思い当たる節があったのだ。

 代わりに、昴流は話題を変えることにした。小さく溜め息を落として、「俺は、何で思い出せないんだろう」と呟く。

 黴どころか、水滴の一つもない、ピカピカに磨かれた浴室の床を見つめる。様々な色タイルをぎっちりと均等に配置した床に、ぼんやりとした昴流の影が写っていた。

「そんなに、厭な記憶だったのかな」

 母親とはぐれた迷子のような声色だ、と昴流は自嘲した。俯いた頬に、細い黒髪がバサバサと当たる。

 すると、ざぶん、という水の音と共に、昴流は冷たく濡れたナニカに両頬を挟まれた。そのまま、ゆっくりと顔を持ち上げられる。すばると瞳が合って初めて、昴流はすばるが態々浴槽から身を乗り出して、昴流に触れてくれたことに気がついた。

 ゆらゆらと、形の定まらないすばるの掌に、昴流の体温が移ってほんのりと温かくなっていく。

 溶け合う体温に目を細めた昴流をじっと見つめたすばるは、ふと首を傾げると、どこかからかうような口調で昴流に向かって訊ねた。

『わたしには訊かないの?』

「えっ……、何を?」

 突然の切り出しに、昴流は動揺した。すばるが何の話題に転換したのか、すぐには思い至らなかったのだ。

『皆には訊いて回ってるんでしょう。【特徴】のこと』

 ぱちり、と昴流は瞳を瞬かせる。すばるの言葉をゆっくり噛み砕き、理解すると、「ああ」と吐息混じりの溜め息にも似た言葉を漏らす。

 そうだった。昴流はそれも、眼前で悠然と微笑むすばるに訊きたかったのだ。

「すばるは、どんな【特徴】を持つ【カンザキスバル】なの?」

 すばるは昴流の瞳の縁を、水に溶けた指先で撫でた。睫毛と目の端が濡れて、まるで涙ぐんでいるように見える昴流だが、何故かそれを拭う気持ちにはなれなかった。

 一方、すばるは昴流から離れると、再び浴槽内にカラダを沈めた。溢れる水が浴室の床いっぱいに広がり、座っていた昴流を濡らしていく。

『何だと思う?』少し疲れたような表情で微笑ったすばるを、じっと見つめる。水。浴槽。溶ける。不定形。――実は一つだけ、思いついている。

 しかし、昴流は首を横にふると、態とらしく両腕を上げて降参のポーズをとる。

「正直、想像がつかない。お手上げだ」

 すると、すばるは揺蕩う唇から、うふふふふふ、と忍び笑いを溢した。

 その無機質でいて金属のような鋭さを併せ持つ声色に、昴流はぞわり、背筋を粟立たせた。

『ところで、昴流、?』

 すばるは再び話を変えて、昴流にそう問いかけた。しかし、昴流は何となく、これはすばるの【特徴】――役割についての話題と地続きなのだと悟った。 

「それは――男女が生殖行為をした結果、精子が卵子に到達し一人の人間を生み出す過程の話をしているのか?」

 そう、とすばるは頷いた。

『精子が卵子に辿り着き、きみという人間がこの世に生まれてくる確率を、知っている?』

 すばるは続ける。一見、問い掛けのように投げ掛けられた言葉だが、昴流はむしろ、独り言――自問自答のように思われた。

 だから、何も言わずに、じっとすばるを見つめる。

 一方、生白い水浸しの腕を浴槽からだらん、と垂らしたすばるは謳うような口調で、口ずさんでいた。

『きみに成れずに死んでいった、【カンザキスバル】はどれほど存在したのか、想像したことはある?』

 昴流に成れなかった、スバルたち。

 大量の精子の群れから勝ち抜いたたった一つの精子と、【カンザキスバル】を構成する唯一同じモノである卵子が出会い、胚分裂し、生まれた神崎昴流。

 昴流は多くの【カンザキスバル】に成れるはずだった生命を押し退けて、引きずり倒し、積み重ねられた幾つもの屍体を踏みつけて、神崎昴流として生きている。

 或いは、とすばるは続けた。

『或いは、きみではない【カンザキスバル】が生まれて、きみの代わりに歩んでいった人生を、一時でも考えたことはある?』

 考えたこともなかった。

【カンザキスバル】に成れずに生まれる前に死んだ同朋達のことも、神崎昴流として生まれずに死んでいった自分自身のことも、何もかも。

 只、無為に生きていた。

 そのようなことを考える余裕がなかった、とも言える。そう、昴流には余裕がなかった。無為に、しかし必死に、日々を生き抜いていた。一日の始まりに絶望し、一日の終わりに安堵と希望を胸に仄かに灯して、眠りにつく。このまま二度と、目が覚めませんように、と――。

 そこまで考えて、ふと、昴流は何故そのような生き方をしていたのか、疑問に思った。やはり、それに関する記憶も喪われている。

 いつの間にか握り込まれた拳に視線を落とすと、ぶるぶると小刻みに震えていた。気がつかないうちに、呼吸も若干乱れている。心臓がバクバクと不規則に脈打ち、頭がガンガンと痛んだ。

 ――思い出したくない。

 昴流はこの【屋敷】で目が覚めてから初めて、喪われた記憶についてそう思った。そして、自身の思考にひどく驚いた。思い出したくない? 何故? 思い出さなければ、昴流が何故この不可思議な空間に居るのかも、他のスバル達が何なのかも、何も理解わからないというのに。

 じわり、と黒い靄のような何かが、昴流の喪われた記憶を覆う。先程とは違った意味で、心臓が厭な音を立てて軋んだ。

 一方、頭を抱えて俯いてしまった昴流をじっと観察していたすばるは、ぱしゃり、と浴槽の水面を波立たせると、内緒話でもするかのような小さな声で囁いた。

『昴流も、他のスバル達も、奇跡的な確率で生まれてきたんだ。祝福されることはあれど、呪われるいわれなんて無いのさ』

 祝福。呪い。奇跡。

 昴流の頭蓋骨に納められた脳の中で、誰かが叫ぶ。

 ――お前など。

 ――お前など、産ませなければよかった。この役立たずめ。

 聞いたことのある声だった。男の声だ。何処で耳にしたのか、昴流はさっぱり分からなかった。しかし、その呪詛にまみれた陰鬱で凄惨な声は確かに――昴流の脳に刻まれている。

 昴流はごくりと唾を呑み込んだ。全身が冷や汗でびっしょりと濡れている。いつの間にか顔を覆っていた両指の隙間から見える、欠けた床のタイルに映る昴流は、幽鬼のようにぼんやりとしていた。

 昴流はそれを見つめたまま、此処には居ない朱春、修晴、栖刃琉のことを思い返す。

 生まれも育った環境も性別も違えど、同じ名前を持つ他人である彼らは――そして自分は、何故この【屋敷】に居るのだろう。

「じゃあ、俺達――同性同名の人間が一同に介する確率も、奇跡みたいなものなんだな」

 ぽつりと呟いた昴流の言葉を受けて、スバルが揺蕩う水の中で、微笑んだような気がした。

 そして、肯定とともに紡がれたその科白を、一言ずつ噛み締めるようにして、昴流に告げる。

『そうだよ。たとえ、きみが喪われた記憶を思い出したとしても、それだけは忘れないでいてね』

 祈りのような言葉だった。

 昴流は両手を顔から離すと、暫しの間すばるを見つめて、そして戸惑いつつもゆっくりと頷いた。


 ■■■


 窓の外の、しんしんと降り積もる雪景色の中、ぽこぽこと湧き出てきては崩れる小さな地蔵の群れを眺めていた昴流とすばるだが、ふと、この浴室に異形の子どもが居ないことに気がついた。そもそも、天井、壁、床を泳ぎ回る魚の群れも、昴流に寄り添う黒い金魚ですら、この場にはいないようだった。そういえば、あの土人形たちも、風呂場に入る直前で形を失い、溶けるようにして消えていったことを思い出す。

 昴流の背後にぴったりとくっついているらしい子どもは、朱春や修晴、そして栖刃琉からも嫌悪を抱かれていたので、すばるもそうであろう、と昴流は睨んでいたのだが――。

 ゆらゆらと形が定まらぬすばるからは、悪感情を見出だすことは出来なかった。

 だから、昴流は単刀直入に問い掛けることにした。

「すばる、あの『子ども』は何だ?」

 途端に、すばるの体がざわざわと落ち着かなくなる。やはり、昴流の推察通り、此処にはあの不気味な子どもは居ないのだ。

 一方、すばるは水に溶けた掌で、同じくびっしょりと濡れた頭を抱えながら、ぼつりと呟いた。

『子ども。……あいつを見かけたの?』

 昴流はこくりと頷いた。すばるは何も言わない。

 暫く、重苦しい沈黙がふたりの間に横たわり、浴室内にはしんしんと雪の降り積もる音に満たされていた。

『あれは、この屋敷を構成するための心臓――に見せかけた、脳』

 このまま永遠に口を閉ざすかと思うほど、永らく黙り込んでいたすばるが、漸く不定形の唇を開いた。

 自身の濡れた膝へ視線を落としていた昴流はハッと息を呑み、慌てて頭を上げる。

 生白い顔の上半分を浴槽から覗かせたすばるが、温度の無い瞳で、昴流を射抜いていた。

 すばるは続ける。朗々と、縷々と、――諦観を滲ませた、視線とともに。

『わたし達は血液』

 ぱしゃり、と水の跳ねる音が響く。ぶよぶよと膨れた腕が持ち上がり、血の気の無い人差し指が、昴流に突き刺さった。

『君は――君が――心臓』

 ――心臓?

 一瞬、人体の構造としての臓器について話しているのかと思ったが、昴流はすぐに、違う、これは――と、直観した。

 すばるは、この【屋敷】の成り立ちについて――そして、此処に留められた【カンザキスバル】達について、話しているのだ。

 すばるは淡々と続ける。彼――彼女の、水面のような体も、声も、何一つ波立つことなく、静かに、こんこんと。

『あいつは君を害することはないけれど、君を逃がすつもりはないよ』

 逃がす?

 やはり、あの子どもが昴流達をこの【屋敷】に留めているのだろうか。

 しかし、昴流は何故かそれにしっくりとこなかった。先程甦った男の声の不快感とはまた別に、頭の片隅がじくじくと膿んでいるような気がした。

『まあ、一番逃げられないのは君なのだけれど』

 昴流は沈思黙考していた為か、すばるがぼそりと呟いたその言葉を、聞き逃していた。

 ――だから、甦る記憶と、あの子どもの正体が一体何なのか、思い出すことが遅れたのだ。

『昴流、君はあいつと何か交わした筈だ』

 すばるはそう言った。いつの間にか浴槽の水と一体化して溶けていたすばるの声が、泡とともに弾けて消えていく。

『早く思い出した方が良い』

 かなしい声だった。昴流を心の底から案じている声だ。

 それなのに、と昴流は顔を歪める。

『君の記憶が――心が――崩壊する前に』

 浴槽ががらがらと崩れて、代わりに幾つもの地蔵がぽこぽこと、すばるの溶けた水を囲った。その為、すばるが溢れて床に飛び散ることはなかった。

 それなのに、昴流は何故か、すばるが沢山居るように感じた。

















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