【禁室 四】

 数刻の間、修晴の掃除を手伝った後、昴流は残りの二人を探すために別れた。

 長く永く伸びる廊下の先は、闇に包まれて見通すことはできない。三角形に象られた窓からは、紅く色づいた紅葉や広葉樹が広がっており、地面の所々に団栗や松ぼっくりがころころと落ちている。マリーゴールドの花畑が微風に揺れて、赤や黄の葉とともに散りゆく様は、感嘆の吐息を思わず漏らしてしまえほど趣深かった。

 ふと、特に惜しむ様子もなく、猫の仔を払うように送り出した修晴を思い出して、少し苦笑する。

「意外と良い奴だったな。ポン、お前も気に入ったか」

 足元でちょこちょこと二人分の弁当箱を担ぎ上げ、えっちらおっちらと運んでいる、式神の中でも一際大きな個体へ昴流は話しかけた。勿論、返答はない。式神と会話が成立したことはなかった。只、あちらは昴流の意思を汲み取って働いてくれるし、昴流も式神達の思考を把握出来るため、今まで困ったことはなかった。

 昴流は残りの弁当箱を届ける相手を思い浮かべて、小さくため息を落とした。

 栖刃琉とすばるのことを、実はよく知らない。

 朱春は、昴流が初めて目を覚ました時からずっと世話をしてくれていた。修晴は、昴流のことを嫌っていると思っていたので強く印象に残っている。しかし、他の二人は特段話すこともなく、せいぜい食事時に顔を合わせるぐらいであった。

「此処から一番近くに居るのは?」

 天井から床へ抜けていく金と黒の鯉の群れに尋ねると、「栖刃琉」だと答えられる。昴流は礼を言うと、物言わぬ土人形達に栖刃琉の現在地を洗わせた。

 程無くして昴流は栖刃琉の後ろ姿を見つけた。彼は無数ある部屋の内、【浄土】という札が掛けられた和室に居た。寿司屋でよく見る魚の漢字をずらずらと書き連ねた湯飲みを傾けて、設置された古いテレビを眺めている。テレビの画面はザアザアと砂嵐で乱れていた。

「あれ、昴流くんだ。やっほっほ~」

 部屋を覗き込んだ昴流の視線に気が付いたのか、首だけくるりと回した栖刃琉が、にこにこと笑った。彼はどうやら砂嵐を映すテレビではなく、秋の庭を観察していたようだった。

 昴流は無言で頭を下げる。昴流達よりも少し歳上の彼は、何処か掴みにくく、何を話すにも戸惑うことが多かった。

「先ほどは俺を運んでくれて、ありがとうございました。……栖刃琉さん、休憩ですか」

「ううん、気にしないで。お互い様でしょ、こういうのは。……あ、僕は今日、お勤め無しの日なんだよ。だから、お休み」

 壁に掛けられたカレンダーを指差す栖刃琉に、昴流は何とも言えぬ表情を浮かべた。

 壁掛けカレンダーは年月日が出鱈目で、カレンダーの意味を為していない。曜日は何とか読むことが出来るが、何故か月曜日だけが抜けている。そもそも、今日が何月何日で、何曜日なのかも、昴流には分からない。

 紅や黄に染まった紅葉の葉が、池の水面でゆらゆらと浮かんでいる。生き物の気配はない。項垂れたマリーゴールドの群生から視線を剥がすと、昴流は栖刃琉に向き直った。

「あの、朱春から、昼の弁当を」

「あれ、もうそんな時間かあ。ありがとね。大変だったでしょ」

 昴流は式神達から栖刃琉用の弁当箱を受け取ると、それを渡した。栖刃琉はにこにこと微笑いながら、礼を告げる。

「何をしていたんですか?」

 栖刃琉の周囲は混沌としていて、様々なものが散らかっていた。柔らかい白い布が張られたキャンバス、青、蒼、碧、群青の油絵具、油筆、ヘラ、木製のパレット、絵具を溶かす為の油壺、他にも沢山の道具が彼を囲うようにして置かれていた。

 何か描いていたのだろうか、と昴流は顔を傾けてみるが、それらしいものは見付からなかった。

「別に何も」と、栖刃琉は言った。

「描いてみようかと思ったんだけど、何も浮かばなくてね」

「顔色、悪いですけど……。体調、優れないんですか?」

 物憂げな栖刃琉は筆を油壺に浸しながら、「此処……この部屋に居ると、気分があまり優れないんだ」と力なく微笑んだ。

 別の部屋に行けば良いのに、と昴流は思うものの、栖刃琉に考えあってのことだろうから、と口には出さない。ーーもしかすると、この部屋が栖刃琉の鬼門なのかもしれなかった。しかし、昴流はその疑問を出すことなく、汚れた画材に視線を落とし続けた。

 そして昴流は、以前朱春が話してくれたことをふと思い出した。

「そういえば、貴方はたしか、【芸術に特化したカンザキスバル】なんですよね」

「得意なだけだよ」と、栖刃琉は苦笑する。

「そういう君は、不思議な力が使える【カンザキスバル】だ」

 昴流は目を丸くして、じっと青年の顔を見つめた。

 この【屋敷】の中で昴流の能力を知っているのは、二人しか居ない。まさか当てが外れて、栖刃琉が実は視えるタイプの人間か、と疑うが、近くの式神達に反応している訳でもなさそうだった。

「ふぅん、やっぱりそうなんだ?」

 一方、栖刃琉は悪戯っこのように表情を耀かせると、長い人差し指を突き付けた。

「ボクにも視せてよ、君の不思議な仲間たち」

 大きな瞳をぐにゃりと歪ませて笑う青年に、昴流はたじろきつつも、じっと彼の人差し指を見つめた。

 視せること自体は、特段問題はなかった。朱春や修晴には知られていることであるし、栖刃琉は幼馴染みのようにオカルト否定論者でもないようだ。

 ――しかし、今回は眼前の青年に訊きたいことがある。

 昴流は唾を飲み込んだ。

「……それは構わない。ただ、一つ条件があります」

 なあに、と小さな子どものように問いかける栖刃琉へ、鏡合わせのように人差し指を鼻先へ突きつける。

「俺の疑問に答えてほしい」

 栖刃琉は卓袱台に頬杖をつくと、にやにやしながら目を細めた。

「良いよ。何でも答えてあげる。――ボクの知っていることならば」

 そう告げる栖刃琉の視線は、何故か昴流を通り越して、その背後に向かっていた。昴流は怖気に背筋を震わせる。――居るのだ、あの子どもが。

 栖刃琉にも視えている。

 昴流はゆっくりと息を吐き出すと、そっと栖刃琉の掌を握った。朱春は勿論、修晴とも違う、大きく痩せた掌。しかし、何故か昴流は、自分自身と彼との境界が曖昧になって溶けていくような感覚を覚えた。

 ぴちょん、と昴流に寄り添い続ける、黒い金魚が跳ねる。

 すると、栖刃琉が大きく目を見開いた。昴流の周りをちょろちょろ動き回る式神へ視線を走らせ、床、壁、天井を回遊する魚の群れに表情を輝かせる。

「うわあ、これは絶景だねえ。創作意欲もじゃんじゃん湧いちゃうな」

 昴流はこの光景を美しいとは思わない。しかし、どの【カンザキスバル】も揃って喜ぶ姿を見ると、悪い気はしなかった。

 一方、栖刃琉は手を繋いだまま、空いた方の手で筆を取った。そのまま沢山の色を、キャンバスに載せていく。

 青を基調としたそれらは、栖刃琉が視たまま、感じたままの世界を描いていくのだろう。

 昴流は青年とキャンバスを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。

「貴方のところにも、六連は居たんですか」

 ゆっくりとした動作で、栖刃琉が此方を見上げる。

 それは昴流の問いかけの意味を理解していないようにも見えたし、或いは全てを理解していて態と焦らしているようにも見えた。

 しかし、昴流は確信している。

 栖刃琉のところにも、詳細は違えど、あの幼馴染みが居たことを。

 暫くの間、栖刃琉は何の感情の色も見えない瞳で昴流を射抜いていたが、やがて肩をすくめると渋々といった様子で口を開いた。

「居たよ」

 やっぱりか、と内心苦々しく思いつつ、それをおくびにも出さずに、いけしゃあしゃあと尋ねる。

「どんな人間でした?」

 一瞬、繋がれた手の握り締める力が強まったような気がした。ざぶん。昴流の傍らで墨で描いたような鯉が波間に沈んでいく音が耳を打ち、はっと息をつめる。

 一方、土人形が栖刃琉の絵の具を持ち上げては検分するかのように、くるくると回しているのを眺めていた栖刃琉がぼんやりと、独り言のように呟いた。

「ボクのアイデンティティを否定する、嫌な奴」

 そうだな、と昴流は誰にも気付かれない程小さく頷いた。昴流も、修晴も、そして恐らく朱春も、あの幼馴染みには一度否定されている。

「でも、一番ボクのことを理解しようとしてくれた人でもある」

 とても優しく、穏やかな声色だった。きっと、栖刃琉は彼の幼馴染みのことを、慕っていたのだろう。

 昴流もそうだった。結局袂を別つこととなり、疎遠になってしまったものの、最期まで幼馴染みを嫌いになることは出来なかった。

 現在、あのひねくれた幼馴染みが何をしているのかは知らない。しかし、元気に生きていてくれれば良い、と昴流は思っている。

「……俺にも、六連という幼馴染みが居ました」

 昴流はそっと栖刃琉から手を離すと、訥々と語り始めた。

 これから言及することは、昴流がずっと疑問に思っていたことで、恐らくこの【屋敷】を成立させる根幹の話である筈だ。

「朱春のところにも、修晴のところにも」

 栖刃琉は目を細めて、静かに話を聞いている。まるで出来の悪い生徒の発表を微笑ましく見守る教師のような表情に、昴流は居心地の悪さを覚えた。

 しかし、今更止めるわけにはいかない。昴流は知りたいのだ。この【屋敷】に隠された秘密を。――他の【カンザキスバル】たちが隠している真実を。

「同姓同名の人間の幼馴染みの名前までが同一で、関係性も似たようなことになっている。そんな偶然、あると思いますか?」

 挑むような昴流の視線に、栖刃琉は一瞬きょとんと瞳を瞬かせる。

 それがどういった感情の現れなのかは、昴流には理解わからない。だから、そのまま続ける。

「……此処は、俺たちは、一体」

 ――一体、何なのだろう?

 栖刃琉は暫くの間、此方を注視していた。昴流の脳天から爪先までを、じろじろと無遠慮に観察めている。

 修晴とはまた違った、遠慮のない視線に居心地が悪い思いを抱くが、昴流は敢えてそれらを全て受け止めた。

 きっと、ここで逃げるような真似をすれば、栖刃琉は二度と昴流の疑問に答えてくれないと思ったのだ。

「昴流くん、君はこの【屋敷】に最初から居た人を、知ってるかい?」

 一瞬にも永遠にも感じた静寂の後、栖刃琉がぽつりと呟いた。

 尋ねるような語尾ではあったが、昴流には独り言のようにも聞こえた。

 だから、少しだけ反応に遅れてしまった。

「……それは……」

 ぐるぐると考える。今まで得た情報を、脳内で照らし合わせる。昴流が目を覚ました時、一番最初に顔を合わせた人物。目の前の栖刃琉ではない。彼と一緒にいた修晴でもない。まだ弁当を届けていないすばるは、いつも風呂場に在中しているから、最後に顔を合わせた筈だ。

「朱春、でしょうか」

 現状を把握出来ずに混乱する昴流に優しく応対してくれた少女の表情を思い出しながら、昴流がそう告げると、栖刃琉はにっこりと微笑んだ。

 穏やかで人当たりの良さそうな顔なのに、昴流は何故か、意地の悪いものを感じ取って、ぐっと喉を鳴らす。

「違うよ?」

 謳うような声色だった。昴流に突き付けられた白骨のような人差し指が、眼前に迫る。昴流は一歩、後退りした。

 栖刃琉は続ける。それはまるで、自分の背負った罪業を忘れた咎人を糾弾するような、非難じみたものが含まれた言葉だった。

「朱春さんが最初に起きた、というのは合ってるけど、最初に居た、というのは間違ってる」

 昴流は首を捻った。先程、思い返した記憶が違ったのだろうか、と考えるも、どうにもそうだとは思えなかった。

「修晴か、栖刃琉さん……あとは、すばる、か? その三人の内誰かが既に最初に居たってことですか? いや、でも、修晴は違う筈でしょう。朱春より後に来た、と言っていたし、貴方と同じタイミングで俺と顔を合わせたと思うんですが」

 昴流が異を唱えると、栖刃琉は再び腹に一物を抱えた笑顔を浮かべる。

 厭な予感がした。

 じりっと後退る。これ以上、この話を聞くのは得策ではない、と昴流に囁く声が聴こえたような気がした。

 しかし、及び腰になる昴流の掌を捕まえたままであった栖刃琉は、ぐい、と己の体の方へ引き寄せると、ぞっとするほど平淡な声色で囁いた。

「いやいや、それがびっくり。

「へ?」昴流はきょとん、と瞳を瞬かせる。

 栖刃琉の言葉を瞬時に理解することが出来なかった。

 ――朱春が最初に見たのが、俺?

 栖刃琉は、朱春が初めて起きた時に昴流の姿を見た、と言った。つまり、昴流が覚醒したあの時に朱春も目覚めたのだろうか、と考えるが、瞬時に否定する。

 朱春は既にこの【屋敷】の仕組みについて詳しかった。他のスバル達とも長く顔を合わせていたようだし、何よりあの子どもについて、知っていた。朱春が昴流と同時期に目覚めたとは考えにくいのだ。

 それはつまり――。

 ドクン、と心臓が厭な音をたてる。

「……ずっと疑問に思ってたんだが」

 蒼い顔のまま、幽鬼のようなぼんやりとした調子で、昴流は栖刃琉を見つめた。

 最早、敬語で取り繕う余裕もない。しかし、栖刃琉は特に気にしてはいないようで、にこにこと笑ったまま、首を傾げている。

「何?」

「俺はこの【屋敷】《いえ》で生まれて、育った。生家なんだけど」

「へえ、奇遇だね」と、栖刃琉は特段興味の無さそうな声色で相槌を打った。そこで漸く、昴流は確信する。

「ああ、やっぱり。じゃあ、あんた達も此処で生まれて、育ったってわけか」

 薄々勘づいていたことではあった。同じ名前を持つ、他人である筈の同居人達。彼らが【カンザキスバル】ならば、昴流と同様、この【屋敷】が生家であることは必然なのだ。

 しかし、昴流が今まで生きてきた常識と照らし合わせると、素直に納得するには些か奇妙な状況でもあったのだ。

 一方、昴流の葛藤を知ってか知らずか、栖刃琉はあっけらかんとした様子で、昴流の言を肯定する。

「そうだよ。此処は、【カンザキスバル】の家だもの」

【カンザキスバル】の家。その通りだ、と昴流もまた、内心で頷いた。此処は、昴流の生家で、同時に他のスバル達の生家である。

 だから、誰にも訊くことが出来なかった疑問を、昴流はとうとう口に出した。

「なあ、あんた達は、誰なんだ?」

 目が覚めて、紹介されたときから、長らく考え続けた疑問だった。顔は勿論、性別、育った環境、学歴や年齢、好みの食べ物や嫌がることすら全て違うのに、名前だけが同一である、他人の筈の彼ら。 

「漢字、性別、育った環境は違えども、同じ【カンザキスバル】の名を戴く貴方達は、一体ーー俺の、何なんだ?」

 栖刃琉はじっと、昴流を見つめた。

 昴流もまた、目の前の青年を見返す。そして、何故かまた、あの奇妙な既視感が甦った。

 朱春と向き合う時、修晴と視線を合わせる時、そして栖刃琉を見つめ返す時――。昴流はまるで、鏡に映る自分自身を視ているような感覚に陥る。


?」


 長く白い人差し指を昴流の心臓に向けた栖刃琉は、只一言、そう言った。

「は?」

 思わず昴流は、疑問符を浮かべる。抽象的な表現で、昴流を煙に巻こうとしているのだろうか、と勘繰るが、それにしては栖刃琉の表情は穏やかであった。

 ――まるで、真実を述べているかのように。

「君は僕であり、僕は君であり、【カンザキスバル】である。朱春さんも、修晴くんも、すばるも、皆そうだよ」

 昴流には、栖刃琉の話す内容がさっぱり理解出来なかった。

 昴流が、栖刃琉である筈がない。朱春も、修晴も、そして本日まだ顔すら合わせていないすばるも、昴流である筈がないのだ。

 それでも、嘘だ、と笑う度胸はなかった。屋敷のこと、同姓同名の同居人達のことが、頭のなかでぐるぐると渦を巻く。

「あいつは?」

 ぽつり、と無意識の内に呟いた昴流の言葉に、栖刃琉は首を小さく傾げた。

「あの、子どもは?」

 すると、一瞬、栖刃琉の表情がひきつったのを、昴流は確かに見た。

 それは、朱春のような冷たい表情でも、修晴のような嫌悪に塗れた表情でもなかった。

 飄々とした態度を崩すことのなかった彼が唯一見せた感情は、畏れの混じった空虚なものだった。

 しかし、昴流がそのことを言及する前に元に戻った栖刃琉は淡々と、「そういえば」と切り出した。

「昴流くんは、此処に至るまでの記憶が欠如してるんだっけ?」

「えっ? ああ、うん……」

 拍子抜けしてしまった昴流は、素直に頷く。

 すると、にっこりと胡散臭いほど綺麗に微笑んだ栖刃琉は、まるで出来の悪い生徒に懇切丁寧に教える教師のように、穏やかな声色で言った。

「そっか、それじゃあ仕方無いな。では、特別に教えてあげよう」

 しかし、両腕を広げて芝居がかった口調の栖刃琉が紡いだ次の台詞は、到底昴流に理解出来るものではなかったのだ。



 何を言っているんだ、という言葉を、ゆっくりと飲み下す。

 否、意味は理解わかるのだ。確かに、【カンザキスバル】しか、この屋敷には居ないのだろう。

 だが、そうなるとあの異形の子どもも必然的に【カンザキスバル】になる筈だ。すると、今度は他の【カンザキスバル】達の態度が矛盾することになる。

 彼らはまるで、子どもを居ないモノのように扱う。同じ【カンザキスバル】として扱っていない。アレを、同じ【カンザキスバル】と見なしていないのだ。

 しかし、それでは栖刃琉の発言が意味不明なものとなってしまう。

 それに、昴流は栖刃琉が嘘をついているとは、到底思えなかった。昴流ですら、あの子どもが自分達とは違う存在であることが分かるのだ。

「でもアレは、【カンザキスバル】じゃない」 

 混乱する昴流を他所に、栖刃琉は妙に落ち着いた様子でそう呟いた。

「――いや、【カンザキスバル】じゃなくなった、かな?」

 殊更小さく囁かれたその言葉を、昴流は拾うことが出来なかった。

 ぐるぐると頭の中を熱い鉄の棒でかき混ぜられているかのような不快感に襲われる。びっしょりと濡れた背中にシャツが張り付いて、気色が悪かった。

「じゃあ、あの子どもは……」

「君が一番善く知っているじゃないか」

 栖刃琉の、自分自身とは似ても似つかぬ瞳を覗き込む。凪いだ海のように、嵐の前の静けさのように、昴流をじっと観察めている。

「押入の中を見てごらん。君の知りたいことが、詰め込まれているよ」

 ――修晴が禁じた行為に誘う栖刃琉には、悪意の一欠片すら存在しない。

 修晴も栖刃琉も、昴流を想って其々が忠告してくれているのだ。それが痛いほどよく理解わかるから、昴流は余計に分からなくなる。

 あの、忌まわしい押入の中には、何を詰め込んで忘れてしまったのだろう。

 昴流はふと、栖刃琉が画いていたキャンバスへ視線を落とした。

 そこには昴流が想像したような海中は画かれておらず、焦げて肉の爛れた淡水魚と、それに焼き尽くす蒼白い焔がごうごうと燃える様が、生々しく描写されていた。

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