【禁室 三】
朱春と別れた昴流は、他のスバル達へ用意した弁当を渡すために、再びあの気味の悪い廊下を下るように歩いていた。
点々と間隔を空けて続く四角い窓からは、青々と繁った木々と敷き詰められるようにして咲いたヒマワリ畑が見え、蝉が大きな音色を奏でている。
アサガオに巻き付かれた大木にはカブトムシが張り付いて、垂れる樹液を啜っているのか時々小さく動いていた。
昴流は視線を落とす。傍らには土人形のような式神が、先程から昴流の足元に引っ付いている黒い金魚と戯れるようにして、わらわらと昴流の近くでもたつきつつも、弁当箱を運んでいる。
「シロ、あんまりキョロキョロしてると躓くぞ」
式神の中でも特に小さな個体に声をかけつつも、床や天井、壁の中で游ぐ魚達の話だと、台所から一番近いところに居るのは修晴であるようだ。
昴流はきょろきょろと辺りを見回しながら、近寄りがたい雰囲気の少年の姿を探した。
すると、思ったよりも早く、その後ろ姿を発見する。
修晴は【屋敷】の中にある部屋の中で、唯一洋室である部屋の前で、床を熱心に磨いていた。
部屋の前には立札が掛けられており、そこには【鶯】と書かれている。
昴流はその部屋には入ったことはない。
「修晴」
遠慮がちに声をかけると、修晴がゆっくりと首を回して、昴流を視界へ映した。
「何か用か?」
鋭い視線を浴びて思わずたじろいてしまうものの、昴流は修晴の元へ訪れた目的を思い出し、何とか耐える。
「朱春から弁当の配達を任されたんだ。これがお前の分」
「ふーん。ありがと」
「あと……。気絶した俺を居間まで運んでくれて、ありがとう」
「別に……俺だけが運んだわけじゃないし。礼を言われるほどのことはしてない」
「あっ、うん……。ごめん……」
「簡単に謝るなよ。自分が本当に悪いことをしたと思った時だけ、謝れ。ペコペコすんな、低く見られるぞ」
昴流は、修晴のずけずけとした物言いに閉口した。修晴は目を眇めたまま、昴流をじっと見つめている。
浸りの間に痛いほどの沈黙が横たわる。昴流はダラダラとと冷や汗を流しながら、小さく俯いていた。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかったので、式神から弁当箱を受け取ると、それを修晴へ渡す。翡翠色に包まれたそれは、朱春が作った弁当の中では一番大きい。
弁当箱を手にした修晴は、珍しくむすっとした表情を弛めていた。昴流はそれを一歩引いたところから眺めつつ、やはり彼にも式神が視えないことを改めて確認した。
「突っ立ってるけど、まだ何かあんの?」
「いや……。そういうわけでは、ないけれど」
訝しげな視線で此方を射抜いた修晴にはっとする。慌てて取り繕うものの、やはり不自然だったか、と昴流は肩を落とした。
目覚めた当初から当たりのきつい修晴を、何となく苦手に思っていた。無愛想で寡黙な彼は、どうやら昴流を嫌っているようである。修晴に対して勘に触るような行動、言動を行った記憶はない――目が覚めてから、それほど時間は経っていないのだ――が、人から嫌われることなんて、大体が殆ど理由などない。だから、考えても無駄なことであった。
「じゃ、暇? この後何か用事、ある?」
てっきり邪険に追い払われるかと身構えていた昴流は、思ってもみない修晴の問いかけに、え、と小さく声を漏らした。
「いや……。あと二人に、弁当箱を持っていくだけだが」
「あっそ。それならすぐにやらなきゃいけない用事でもないだろ。ちょっとの時間で良いから、俺のこと、手伝ってくれねえか?」
修晴は昴流の返答も聴かずに、さっさと掃除用具を押し付けると、くるりと背中を向けてしまった。
昴流は途方に暮れて、思わず手に持ってしまった掃除用具一式へ視線を落とす。
修晴の強引さに呆れてしまうが、少しの間ならば問題もないだろう。
昴流はそっと傍らの粘土細工のような式神たちに用具を手渡すと、軽く分担を行った。数が多いに越したことはないだろう、と考えたのだ。そして、手元に残った雑巾で床を磨き始める。
暫く黙々と作業をしていたが、修晴がこちらをじっと見つめていることに気がつき、昴流は一旦手を止める。
「どうかしたのか?」
「いや、さっき渡した用具一式、見当たらねえな、と思って」
ああ、と昴流は頷いた。式神の手に渡ってしまうと、昴流以外の人間には視えなくなってしまうのだ。
少しだけ迷ったものの、朱春に教えたことを思い出した。一人知っているのならば、何人知っていようが同じだろう。
昴流は無防備に晒された修晴の手を取った。きょろきょろと辺りを見回していた修晴がぎょっとするが、意外なことに手を振り払われることはなかった。
「……ん?」
最初、突然手を掴んだ昴流を訝しげに見ていた修晴だったが、徐に視線が下っていく。そして、ちょこまか、てきぱき、と忙しく動き回る式神達を見つけて、思わずといった様子で口をぱかりと開けた。
「粘土? が、動いてる」
「式神もどきだよ」と昴流は言った。
「朱春から聞いた。この屋敷に棲むスバル達には、【特徴】と呼ばれる、称号のようなものがあることを」
昴流は未だにその説明をよく理解していないが、修晴にはピンときたようで、おう、だとか、うう、のような呻き声を漏らしている。
「ああ、お前は――」
修晴の声は忌々しげであったが、その表情は何処か悲しげにも見えた。
「【呪術を遣うカンザキスバル】なのか」
呪術。的確な表現だ、と昴流は自嘲する。
異形の能力。不思議な屋敷に、己と同じ名前を関する不思議な人間たちが揃っているのに、
――あの子どもを除いて。
「なあ、お前の能力は、人を甦らせることは出来るのか?」
「……さあ」
修晴の質問の意図を図りかねた昴流は、訝しげな表情のまま首を傾げた。たしかに蘇生術の知識はあれど、それを今まで試したことはない筈だった。
一方、修晴は「そうか」と小さく首肯くと、そのまま黙り込んでしまった。
「六連が好きそうな能力だな」
それから暫くした後、ついうっかり心の声が漏れた、というように、修晴がぽつりとそう呟いた。
昴流はその時、ぼうっと壁を泳ぐ鯉の群れを眺めていたので、思わずぎょっとして、握っていた手を離してしまった。
――六連。また出てきた、カンザキスバルの幼馴染み。昴流は眉をしかめた。やはり、修晴の側にも、居るのだ。朱春と同じように。
「俺の幼馴染みなんだ」
「知っている」
「ふぅん、じゃあ、お前のところにも居るんだな、あいつ」
修晴が懐かしそうに眼を細めた。
「どんな奴だった? お前の幼馴染みは」
昴流は一瞬、言葉に詰まった。確かに、昴流の側にも同名の幼馴染みは居た。しかし、年月を経るごとに交流は薄れ、高校に通うようになってからは殆ど顔を合わせなかった。
加えて、昴流の幼馴染みは、このオカルトチックな能力に興味があるどころか、嫌悪していたような節さえあった。
「静かな奴だった」昴流が覚えていることは、それだけだった。「空気みたいな存在だよ」
「空気、空気ね。
びっくりする程優しく穏やかな声で、修晴は肯定した。
「あいつは俺が不良だったのが許せなかったみたいで、最期は殆ど会話なんてしなかったけど、でも、俺にとっては空気――酸素、だった」
「そうなのか」と、昴流は相槌を打つ。
「あいつは、何かに影響されたのか、不良に憧れてて、料理が好きだったから、意外だな」
昴流の幼馴染みと、修晴の幼馴染みが同一人物である筈がないのに、自然と同じ存在のように語ってしまったことに、昴流は内心驚いた。
しかし、修晴はその点に関しては何も言及せず、何処か壊れたような表情で、「あいつはいっつも、俺達に否定的なんだよ」と涙に濡れたような声で笑った。
それから、修晴は暫く、昴流を注視していた。昴流は足元でてきぱきと作業をこなす式神たちを眺めていたため、それには気がつかなかった。
そして、修晴は、突然はっとした表情を浮かべた。
「まさか、俺達は喚ばれたんじゃなくて、戻ってきたのか。じゃあ、あいつも――」
ぶつぶつと、昴流には聞き取れない程小さな声で、何かを呟いている。
一方、昴流は壁や天井を游ぐ魚達へ視線をやっていたので、修晴の異様な様子に気付くのに、一瞬遅れた。
その間にも、修晴は続ける。
「なるほど、だからあの糞野郎は、お前に引っ付いてるわけか」
すぅ、と俯いていた顔を上げて、昴流を凝視した修晴は、ただ一言、そう言った。
昴流は漸く金魚の群れから眼を離すと、小さく首を傾げた。
「何の話だ? 糞野郎? 引っ付いている?」
修晴は少しだけ眉を下げる。何度か口を開閉させたが、そこから言葉が出てくることはなかった。
「修晴?」
「いや……。多分、お前は違うんだな。だから……」
この話は終わりにしよう、と素っ気なく、修晴は告げた。
まただ、と昴流は内心、苦々しげに呟いた。
また、自分以外のスバル達しか知らない話だ。
朱春も修晴も、昴流は知らなくて良いと言う。忘れたままで良いと言う。
そうなのかもしれない。知らなくても、忘れたままでも、この【屋敷】の中では問題ないのかもしれない。
それでも、と昴流は思う。
それでも、誰かが昴流の耳許で、知らなくてはいけない、忘れてはいけない、――暴かなければいけない、と囁くのだ。
「なあ、修晴……」
昴流の声に導かれて、此方へ視線を向けた修晴の瞳は存外強く、思わず昴流は気圧された。
なに、とも、どうした、とも訊かず、只じっと此方を見つめる修晴の表情は、まるで嵐の前の海のようだった。
海面に石を投げたらそのまま荒れ狂うような、ピリピリとした緊張感に包まれる。
昴流はごくり、と生唾を呑み込んだ。
「修晴は、この【屋敷】の中で、厭な場所はあるのか?」
結局、核心に触れることはせずに、代わりに別の質問を投げ掛ける。昴流は自身の意気地無しな心を、嫌悪した。
一方、修晴はすいっと昴流から視線を外すと、再び廊下の掃除を始める。
角の部分を丸く掃くことはせずに、きちんと埃を取る姿は、彼の性格を如実に表していた。
「朱春から聞いたのか?」
「うん……」小さく頷く。修晴はふうん、と溜め息のような返答を返した。
「あるぜ」
あっけらかんといった様子でそう告げた修晴に、昴流はいささか拍子抜けしてしまった。
思わず、返事も「え、ああ、そうなのか。へえ」と、何とも言えぬものになってしまう。
修晴のことだから、素っ気なく誤魔化すのか、或いはもう少し陰鬱に話を始めるのかと思っていた昴流を他所に、同い年の少年は、訥々と語る。
「階段下の物置、あるだろ。彼処が厭だ。見たくもないね」
ああ、と昴流は首肯した。此処から少し先の方にある、二階へ繋がる階段のことを指しているのだろう。確かに、修晴の言う通り、其処には物置があった。昴流は開いたこともなかったし、中を確認したこともない。
「理由を訊いても?」
そう尋ねたのは、世間話の一環でもあったし、昴流が居間の押入を嫌悪する理由が
一方、尋ねられた修晴は一瞬、昴流を鋭く睨んだが、直ぐ様ふっと吐息を漏らすと、何処かぼんやりとした様子で話し始めた。
「詰め込んだから。忘れたくて。思い出したくなくて。全部。纏めて。総て。何もかも」
詰め込んだ。忘れたいもの。思い出したくないもの。――それは、一体、
「……何を?」
からからに渇いた、干からびた魚のような声で、昴流は訊いた。
すると、修晴は突然、大きな声で笑い出す。
あっはっはっはっ、と一言一言、きっちり発音するように機械的に笑う少年の表情は、笑い声に反して真顔のように見えた。
――そして、一言、簡潔に述べた。
「ウデ」
「え?」
「一番最初に、詰めたモノ」
うで、ウデ、禹、雨、卯、――腕?
混乱する昴流を冷たく見据えた修晴は、「俺達はロクデモナイんだよ」と、悲しそうに呟いた。
■■■
「俺のことを訊いたんだから、次はお前な。昴流は何処が厭なんだ?」
その質問が来ることは想定済みだった。しかし、いざ答えようとすると、どうしても口籠ってしまう。
それほど、この話題は忌避したいものだったが、昴流から話をふった手前、そのような勝手な言い分が通る筈もない。
「居間の押入……」
囁くような声でそう言うと、修晴は「なるほどな」と眉をしかめた。
「よりにもよって、ねえ」
え? と昴流は思わず、修晴を見つめた。「よりにもよって」とは、どういうことだろう。昴流が嫌悪するあの空間に何があるのか、目の前の少年は知っているのだろうか。
そのことについて尋ねるかどうか、昴流は迷った。朱春のように誤魔化されてしまう可能性が高かったし、修晴は昴流のことをよく思っていないようだったから、素直に教えてくれないかもしれなかった。
「あのロクデナシが引っ付いてる理由、それもあるのか?」
「? 何か言ったか?」
そうこうしている内に、修晴の中で疑問は片付いてしまったようである。
「何でもねえよ。ところで、お前は何で居間の押入が自分にとっての鬼門なのか、
修晴は首を横にふると、眉を下げている昴流に向かってそう問いかけた。
機会を逃したことに昴流は肩を落としたが、追及する程の胆力はなかったので、素直に修晴へ答えた。
「それが、わからないんだよなあ。わからないんだけど、でも、厭なんだ」
根源的な恐怖と言っても良かった。
言葉で言い表せない、嫌悪、忌避、焦燥、憎悪――兎に角、厭な気持ちになる、あの一角。
昴流はごくりと粘ついた唾を呑み込んだ。そうでもしないと、今すぐにでも吐いてしまいそうだった。
一方、顔色の悪い昴流を見兼ねたのか、修晴は珍しく険の取れた表情で、静かに言った。
「じゃあ、思い出さなくて良いよ。そのままでいれば良いさ」
そうなのだろうか、と思う。此処に来るまでの経緯を忘れてしまった昴流。何かがぽっかりと欠けたような感覚。居心地が悪い。でも、思い出したくない、あの空間――。
すう、と息を吸って、しっかりと吐く。新鮮な酸素が脳に行き渡る。しかし、廊下の空気は何処か澱んでいるような気もした。
ゆらゆらと揺れる水面のような壁に、呑み込まれてしまうような錯覚を覚える。
昴流は漸く、真正面から修晴を見つめた。
彼もまた、じっと昴流を見ている。
まるで鏡合わせのように、二人は向かい合っていた。
「でも、何か気持ち悪くないか? 居心地が悪いというか、何ていうか……」
「忘れたことは、思い出さなくて良いことなんだよ。不要な記憶だ。自分が自分で在る為には、な」
ぴしゃりとはね除けるような声色で、修晴はそう言った。昴流は思わず口を閉じる。
本当に、思い出さなくて良いのだろうか、と昴流は思った。
朱春も、修晴も、何故、昴流の喪われた記憶を取り戻してほしくないのだろうか、とも。
「おやだらきあぬきそへちさぢおもいをとくいおたdんおyいのこk」
――ぞわ、と昴流は、尾てい骨から首筋にかけて、足の多い虫が這っているような、気味の悪い感覚に襲われた。
意味不明な音に混じって、雑音が重ねられた不快な声が、昴流のすぐ
目の前の修晴が、凶悪な顔つきになる。一瞬、昴流を睨みつけているのかと錯覚しそうになるが、彼の視線は昴流を通り抜けて、その後ろに注がれている。
「何か居るのか」
昴流はまるで溺れて今にも沈んでしまうかのような声で、そう問いかけた。修晴は答えない。それは、無視をしているというよりも、何と答えれば良いのか考えあぐねている様子に近かった。
一方、修晴へ訊いたものの、昴流の中でべったりと背中に張り付いている存在が何なのか、検討はついていた。
子どもだ。意味不明な言語で話しかけてくる、多眼の異形。この屋敷に存在する、別次元の存在。
振り返る勇気はなかった。今でもあのおぞましい顔を、まざまざと思い出せるからだ。再び顔を合わせれば、昴流はまた意識を失うだろう。それほど恐ろしい子どもだった。
背後の闇が、けたけたと嗤う。嗤いながら、ぶつぶつと昴流の脳髄に直接吹き込むように、音を流し込んでいく。
「いのなにえそにtあてろうdねぜなdねじがdのたそにあぬかてくてうおうぃきしおにむちねあをあはれらk」
耳を塞ぎたくとも、身体が全く言うことを聞かなかった。天井が澱む。魚達がどんどん逃げていく。小さな黒い金魚が、昴流の足元で頼りなさげに游いでは沈んでいく。
そして、だらだらと、気持ちの悪い汗が流れ落ちる感覚だけが、昴流を支配した。
「やめろ」
すると、突然、修晴がぴしゃりと鋭い声をあげた。
びく、と昴流の肩が跳ねる。途端に、子どもの不気味な笑いがぴたりと収まった。
修晴は畳み掛けるように続ける。
「俺たちに干渉するな。こいつに余計なことを吹き込むな。俺たちを巻き込んだのは、お前だろう。昴流を不安にさせるな。――失せろ、化け物が」
子どもは暫くの間、静けさを保っていたが、やがて破裂した風船の音のような叫び声――笑い声なのだろうか――を響かせた。そして、すう、と気配を消すと、そのまま何もなかったかのように昴流の背後から圧力が消え去った。
どっ、と心臓が早鐘のように脈打つ。昴流はそっと後ろを振り返った。誰も居ない。昴流の視界に映るのは、底無しの闇へ続く薄暗くて永い廊下と、窓の外から見える青々とした夏の庭だけだ。
「お前、アレに遭ったんだってな」
修晴は先程の激昂が嘘のように、穏やかな声でそう言った。昴流は弱々しく頷く。
「朱春は答えてくれなかったけど……。あの子どもは、お前たちにも視えるのか?」
「子ども?」一瞬、きょとんとした後、修晴は顔をしかめた。「ああ、あいつね」
「視えるけど、あんなに粘着質に取り憑かれたことはねえな」
吐き捨てるような口調で宣う修晴は、あの子どもを心底嫌悪しているようだった。朱春もそうだ。痩せっぽちの異形の子どもは確かに気味が悪かったが、しかし、二人の視線は異形に嫌悪しているというよりも、その在り方に対して憎悪しているように見えた。
「アレは何なんだ?」昴流は端的に尋ねた。
「さあ?」と、修晴は素っ気なく応える。やはり説明する気は、朱春同様無いようである。
「……ああ、違う。俺は朱春みたいにお前に気を遣って教えないんじゃなくて、本当に知らないんだよ」
修晴はハッとした表情になると、普段よりも早口で捲し立てた。
「俺は朱春の後に、此処に来た。その時にはもう居た。俺も朱春から説明は受けていない。ただ……」
憮然とした顔つきのまま、ぼそぼそと呟く修晴だったが、昴流は直感で嘘をついていないように思った。
「アレには関わりたくないんだ」
ざぶん、と床が漣を立てる。小さな波がしじまのように、永く続く廊下を走り去っていく。
「じゃあ、何でそんなに嫌っているんだ?」
昴流は質問を変えることにした。
「此処で過ごしていくうちに、いやでも
ドクン、と昴流の心臓が厭な音を立てる。――やはり、この状況は
「此処は玩具箱に似ている」
修晴は宙を見上げながら、遠い目でそう言った。
「或いは、誰かの夢の切れ端なのかもしれないな」
彼の視線の先には、朱と金が混じった鯉が揺蕩うように游いでいるが、手を離してしまったから、もう彼には視えていないのだろう。
「昴流、お前、気を付けろよ。アレは、お前を使って何かを企んでるかもしれん」
昴流はゆっくりと瞳を瞬かせた。修晴の忠告が、じんわりと脳に染み込んでいく。
嫌われていると思っていた。だから、彼が苦手だった。
「ありがとう。肝に命じておくよ」
昴流は微笑んだ。心の内側が、ぽかぽかと暖かくなる。修晴が、ばつの悪い表情で顔を背けた。
ぴちょん、と昴流の周りで黒い金魚が跳ね回った。
子どもの存在は恐ろしい。アレが何なのか、何を企んで昴流につきまとうのか、さっぱり理解らない。
昴流は漸く覚悟を決めた。
他の二人にも、子どものことを訊いてみよう。
朱春のように此方を慮って教えてくれないかもしれないし、修晴のように最初から何も知らないから教えられないかもしれない。
それでも、昴流は知りたいのだ。
不気味な子どものことを知れば、自ずと喪われた記憶も取り戻せるかもしれない。
そうしたら、今度こそ、他のスバル達と同様に、家族のように暮らせるかもしれない。
「お前には、早くこの家から出ていってほしかったけど」
長く永く続く廊下の先を見つめる修晴の表情は、此方から窺うことは出来ない。
それでも、昴流は、訥々と語る修晴が、悲しみに暮れているように感じた。
「昴流、お前は、お前だけは、この家から出られない――何処にも行けないんだな」
何処にも行けない。
呪いのような言葉だ。修晴がどのような意味で、どのような気持ちでこの言葉を吐き出したのか、昴流が知ることになるのはもっと先の話である。
「押入は、見るな」
修晴は静かな声でそう言った。
「見なくて良いんだ、そんなもの」
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