【現実 一】

『この屋敷には、【カンザキスバル】が五人居る。』

 この文章から始まる小説を、貴方は知っているだろうか。

 飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていた、若き新人作家の最新作になる筈だった小説に記された最初の一文である。

 話の概要は至って単純、主人公が四人の同居人と交流を深め、失われた己の記憶を探っていく話を主題とした連作なのだが、奇妙なことに、登場人物の名前が全員同姓同名――つまり、【カンザキスバル】という名前なのだ。

 五人の【カンザキスバル】たちの日常を切り取ったその話は一見、何の変哲もないありふれたものであるが、たった一点の謎を読者に提示している。

 何故、【カンザキスバル】たちは同じ【屋敷】に棲んでいるのか。

 それはどの【カンザキスバル】も最初に考えるものの、繰り返される平坦な日常に埋もれるうちに、やがてその疑問は消失していく。たった一人の【カンザキスバル】を除いて――。

 私は【カンザキスバル】の一人が台所へ向かって永い廊下を下っていく描写を眺めながら、回想する。


 ■■■


 その日も、私は手元にある小説――五人の【カンザキスバル】が主人公である連作集をパラパラと流し見ていたが、ふっと体全体を大きな黒い影によって包まれたため、俯いていた顔を上げた。

 こんにちは、初めまして。

 私は本をショルダーバッグへ仕舞うと、ベンチから立ち上がって首を折るような格好で頭を下げた。

 相手は六十を少し過ぎたと思われる、恰幅の良い男だった。

「あんたが十年前の事件の話を聞きたいって奴かい?」

 はい、と私は頷いた。

 態々ご足労をかけてしまって、すみません。

 私がそう言って、もう一度ガクリと首を下方へ傾けると、男は面倒臭そうに顔を歪めて、「いいよ、いいよ。そう畏まんないで」とぶっきらぼうに言い放った。

「どうせ暇なんだ。たまには外にでも出て、お天道さまの光を浴びた方が良いね」

 男が剥き出しの腕を擦る。サイズが合っていないシャツは今にもはち切れそうなほど膨らんでおり、そこから伸びる腕、首、顔は確かに、日に焼かれておらず不健康で生白く見えた。

「あんた、暑くないのかい」

 薄手とはいえ真っ黒な長袖のタートルネックを身に纏い、これまた同じく真っ黒なスキニーパンツを履いた私を、男はじろじろと眺め回す。

 時候の挨拶であれば、「残暑厳しき折」だとか、「晩夏の候」だとかが続く季節柄である。

 更に私は髪の色を染めていない。二十数年変わることのない黒々とした髪色も揃って、日陰に居ようとも陽光を一心に浴びることの出来るスタイルだ。

 勿論暑くて仕方がなかったが、私は首を横にふった。

 暑くないです、と嘯く。

 男は胡散臭そうに私を見回したあと、ふん、と鼻を鳴らした。

「そうも真っ黒黒すけだと、夜なんかじゃあ、宵闇に紛れて見失いそうだな」

 ドキッと心臓が高鳴った。注意深く男を観察みつめるが、男は特段気にした様子もなく、がりがりと頭を掻いていた。

 私は男から視線をそらすと、錦糸公園をざっと見渡した。

 ここ暫くは酷暑が続いたためか、人も疎らだ。普段ならば子どもが走り回る声がきゃらきゃらと聞こえてくるのだが、それもぱったりと途絶えている。

 遊具周りに敷かれた白い砂が、焼けつくような陽光にじりじりと照らされている。光が乱反射するせいか、眼球が火傷するかのように痛んだので、目を閉じた。

 暫く無言のまま、私は老年の男と並んで立っていたが、男は一向に話し出す気配がなかったので、近くの喫茶店でも入りましょうか、と提案した。

 男はそれに首肯する。私はスマートフォンを取り出して、予め目星を付けていた店を何点かピックアップする。

 すると、男はすっと目を細めると、丸々と太って突っ張った薄汚れたズボンのポケットから、しわくちゃの紙を取り出した。私は画面から目を離し、塵のような紙を眺めたあと、仕方なく受け取った。

 ぐちゃぐちゃになった紙のしわを伸ばす。どうやら男の名刺のようだった。

「電話でも伝えたがね。私は和田と言う。元警察官で、今は退官して暇しとる老人だよ。あんた、えーと、名前は」

 男はどうやら私の名前を覚えていないようだったので、私は初めて電話をした時のように名前を名乗る。男――和田は、ああ、そんな名前だったかな、覚えにくい名前だねえ、とぶつくさ呟いている。

 すみません、生憎、今、手持ちの名刺がないもので。

 私がそう言うと、和田は「社会人だろう。なってないな」と説教のような、愚痴のような、曖昧な言葉を吐きかけた。

 私は愛想笑いを返す。なるべくこの男にも、名刺は渡したくなかった。

「で、取材だか何だかだったっけ? 喫茶代はそっちが持ってくれるのかい」

 勿論です、と私は頷いた。折角、貴重なお話を聞かせていただけるんです。費用は是非、こちらで持たせてください。

 私がそう慇懃に告げると、和田はあからさまに機嫌が良くなった。

 苦笑しつつ、私はスマートフォンを和田に差し出した。画面に表示されている喫茶店をじろりと睨んだ和田は、「早く移動しよう。暑くて敵わん」と肥満体を大袈裟に揺らして錦糸公園の出入口を目指す。

 私もそれに続いて、比較的体感温度が低い日陰の中から体を出した。焼けつくような熱と光が、私の黒々とした部分に吸い付くようにして当たる。

 身体中が火傷したかのように熱に冒されていると、先を歩いていた和田が不意に振り返った。

「それにしても」

 和田は妙にねっとりとした声色でそう言ったあと、私を舐め回すように視線を走らせた。

「あんたも物好きだねえ。十年前の事件と、それから最近あった自殺なんか記事にして、雑誌が売れるのかい?」

 さあ? と私は内心、投げ遣りな調子で呟いていたが、それをおくびにも出さずに、ニッコリと微笑んだ。

 記事がどう評価されようが、雑誌が売れようが売れまいが、和田には一切関係ないことだ。

 馬鹿みたいに笑うだけで一向に口を開かない私を、和田は気味悪く思ったようで、私が何かアクションを起こす前に再び歩き始めてしまった。

 ざり、ざり、ざり。真っ白な砂が擦れて、光を反射し、僅かに空気中へ霧散する。

 私は光の粒に目を細めつつ、和田の後を追いかける。

 ざり、ざり、ざり……。


 ■■■


 目当ての喫茶店に入店したあと、手近の席に腰を落ち着けた私たちは飲み物を頼んだ。

 和田はアイスコーヒーで、私はアイスティーだ。

 そして、注文した飲み物が届くまでに、私はもう一度電話口で説明した話を、和田に向かって話した。

 則ち、約十年前に起こった連続放火事件並びに、強盗殺人事件、そして最近世間を賑わせた小説家焼身自殺事件の詳細を聞かせてほしい、というものだ。

「と言ってもねえ、俺も全部に関わってるわけじゃないからなあ」

 和田はやる気が微塵も感じられぬ態度で、無料の水をガバガバと飲んでいる。勿論、私は彼が三つの事件に全て通じているとは考えていない。

 そう、全てに取りかかっている必要はない。

 私にとって必要な事柄は、三つの事件の内、警察側が感じ取った被害者の子どもについての印象なのだ。

 私は隣に置いたショルダーバッグから三枚の書類を取り出すと、寝惚けた表情でからからと大きな氷をコップの中で回す和田へ笑いかけた。

 では、私がお電話口で聴取しました内容を簡単に纏めたものがありますので、そちらをご覧になって、何か異なってるところですとか、意見があるところですとか、ご指摘していただくことはできますでしょうか?

 私がそう提案すると、丸く毛むくじゃらの指で書類を摘まんだ和田は、「それなら、まあ……」ともごもご呟く。

 そして、ためつすがめつしながら、和田が三つの事件を記載した書面を見始めたので、私はその顔をじっと見つめたまま、さてどのような反応が返ってくるかな、と考えた。


【■■連続放火事件 記録書】

 聴取日時 二〇一二年■月

 聴取場所 ■■■■ 

 聴取者 ■■在住 近隣住民多数


 二〇一二年■月~■月に渡り、不審火の通報が相次ぐ。損害は何れも軽微に止まる。出火箇所に火気、それに連なる危険物等の発見なし。連続放火事件として捜査を開始。不審火の被害にあった家屋、建物等の範囲は第一被害者宅から全て半径一キロメートル以内の為、近隣住民による犯行の可能性あり。他、不審者の目撃情報が寄せられるものの、犯人の特定に至らず。以降、未解決事件となる。


【神崎夫婦強盗殺人事件 重要参考人 記録書】

 聴取日時 二〇一二年■月■日

 聴取場所 ■■警察署

 聴取者 神崎夫妻第一子 ■■■(氏名不明 記録残存せず)、和田■■、田中■■



 二〇一二年■月■日未明、火災発生。家屋全焼、焼け跡より身元不明の死体を発見。生存者一名あり。生存者の証言により、遺体は神崎■■、その妻■■であることが判明。遺体の損傷が激しい為特定不能であるものの、痕跡より神崎■■は頭部損壊並びに腹部裂傷による失血死、妻■■は絞殺による窒息死と推定。

 生存者より当日、不審者が金銭目的で家屋に押し入り神崎夫妻を殺害、その後放火との証言あり。犯人はその後逃走。夫妻への怨恨による犯行の可能性はなし。

 生存者は神崎夫妻の第一子■■■であることを特定。容態は軽度の火傷のみ。思考、発声、その他問題等は見られず。但し事件当時の証言に支離滅裂な発言が散見される。何らかの精神疾患の可能性あり。

 ■■■を当該事件の重要参考人に指定。以降、捜査を開始するものの犯人の特定に至らず。未解決事件となる。


 ※以下、当時の会話記録記載


 和田:……あー、お父さんとお母さんが亡くなられたのは残念だがね。君は犯人を目撃している可能性があるんだ。何でも良い、事件当日でも前日でも、兎に角何か違和感を持ったこと……話してくれるか?


 重要参考人:……(神崎夫妻第一子、沈黙)


 和田:黙りは困るよ。君は絶対に犯人を見ている筈なんだ。


 重要参考人:……(神崎夫妻第一子、依然沈黙)


 和田:強盗殺人に、放火だなんてねえ。本当、世の中物騒になったモンだよ。この放火も、近所で起きた連続放火事件と関係が……ああ、いや、強盗だから違うのか?


 重要参考人:……(神崎夫妻第一子、依然沈黙)


 和田:おい、いい加減にしろ! ご両親が殺されたんだぞ! お前、見たんだろ? 犯人に縛られて、あともう少しで死ぬところだったんだ。言えよ、捕まえたいだろうがよ。このまま黙り決め込んで、解決出来るモンも出来なくなったらどうするんだよ!


 田中:ちょっと、和田さん! 落ち着いてください! 彼はまだ高校生なんですよ! 間違えないでください、彼は被害者です! 恫喝するなんて……。


 和田:恫喝ゥ? 被害者なのはわかってるし、高校生だから何だよ! 母ちゃんがいねェと喋れねえガキじゃねえんだ、関係あることないこと何でもいい、話してもらわなきゃあ困るだろうが。それともなんだ、このまま未解決事件の仲間入りしていいってのか? あ?


 田中:喧嘩腰にならないでくださいよ。……彼は犯人の顔を見たかもしれませんが、同時にご両親の……その……(口ごもる)、犯行の場面を目撃してるかもしれませんでしょう。心身ともにダメージがある筈です。


 和田:……ッ。たしかにそうだが……ッ。


 田中:それに、大きな声を出したら、話せるものも話せなくなってしまうでしょう。根気強くいきましょう。


 和田:……わぁーったよ。すまんな、兄ちゃん。ちっと熱くなりすぎた。


 田中:すみません、■■■さん。このおじさん、悪

 い人じゃないんだけど、事件となると一直線になっちゃう人でねえ。


 和田:うるせえよ、若造がよ……。


 重要参考人:……炎の中に。


 田中:ん?


 重要参考人:炎の中に、人が居ました。


 重要参考人:僕と同じくらいの年だと思います。制服らしきものを身につけていました。全身が血だらけで、何か――腕、のようなモノを持っているように、見えました。


 和田:制服!? どういうものか、覚えてるか?


 重要参考人:わかりません。すぐに炎にまかれて消えてしまいましたから


 和田:き、消えたァ!?


 田中:和田さん。現場のホトケは二体のみです。他には出てきてないです。



 和田:じゃあ……その制服を着たガキってのは……。


 重要参考人:彼は


 重要参考人:彼は、僕なんだと思います。


 和田:……はあ?


 ※終了


【錦糸町小説家焼身自殺 記録書】

 発生日時 二〇二二年七月■日

 事件現場 東京都江東区■■■ー■■ー■ 

 被害者 りんさかくずは氏※本名不明、照会中


 二〇二二年七月■日未明、東京都江東区にて火災が発生。家屋全焼。焼け跡より、身元不明の死体を発見。現在居住中である小説家の躙逆崩破(本名不明)氏の行方が判明していないことから、身元不明の死体は躙逆氏の可能性あり。身元照会中。なお、躙逆崩破は筆名。警察は事故と事件の両方で捜査を開始しているが、出火箇所に火気及び危険物等が散見、また、死因は生きたまま焼かれたことによる全身の火傷であると推定(非公開情報)。警察は被害者の焼身自殺の線を視野に入れている。近隣住民の証言より、被害者宅に出入りしていた人物がいる可能性あり。


 和田がじっくりと書類を見ている間に、注文していた飲み物が運ばれてきた。私は和田に断りを入れてからアイスティーに口をつける。和田は私に話しかけられたことにすら気がついていないようだった。

 すぅっと冷たくほんのり甘い液体が、喉を通って食堂に滑り落ちる。からからと角の丸い氷が涼しげな歌うのを聴きながら、汗のかいたアイスコーヒーに手を付けない壮年の男を眺める。

「おい、俺の発言に何か悪意みたいなものがないか?」

 お電話口でお聞きした通りに文字を起こしましたよ。

 長々と読んでいた割には、仕様のない発言をする和田に、私は思わず苦笑する。私が訊きたいのは、そういうことではないのだが。

 一方、ふぅん、と鼻息なのか相槌なのか曖昧な唸り声のようなものを吐き出した和田は、「俺が担当したのは二つ目の事件だけどよ」と前置きをして、話し始めた。

「大方合ってるんじゃないか。最近の焼身自殺した小説家のセンセイは兎も角、何だっけな、名前は忘れちまったけど、生き残った子ども……不気味だったよ。正直に言うとな」

 和田は漸く、氷が少し溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み下す。

「そりゃあ、親が死んで泣きわめくような年齢ではなかったと思うがな。それでも涙ひとつ見せねえで、淡々と喋るんだよ。良く言えば理性的だが、あんまりにも淡白すぎて、ロボットと話してるような感じだったな。普通なら、もうちっと感情を見せるなりするんだがねえ……」

 気味が悪かった、と結んだ和田は、私へ黒いビーズのような瞳を向けたあと、「そういえば、あんたと雰囲気が似てるかもな」と、茶化すような口調で言った。

「十年前か……。あのガキンチョも、あんたぐらいの年齢だったかな、そういえば」

 どこか懐かしむようにそう呟く和田は、「あんた、今いくつなんだ?」と私へ尋ねたので、私は曖昧に笑って誤魔化した。

 私の年齢は、話の本筋にはあまり関係がないのだ。

 代わりに、被害者が言及していた【制服を着ていた人物】について、その後何か判明したのかどうか、確認をする。

 すると、和田は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、つんと鼻先をそらした。

「さあねえ。あんたにも電話で話した通りだが、結局それらしき死体は出てこなかった。気になるのは、事件直前、被害者宅周辺――と言っても、半径五キロメートル以内だったかな――まあ、その辺りで学生がうろついていたっつう証言が上がったことだが、あのガキが言うには、炎の中で見たんだろう? つまり、現場にいた犯人ってことだろう。――じゃあその辺の不良か何かで、事件には関係ないってことなんだよな」

 それは、と私は口を開いた。

 それは、強盗殺人事件が起きる前に頻発していた放火事件と関係があるのでは?

 和田は斜め上の辺りへ視線を走らせたあと、「そう言われると、そうかもしれんな」と、何とも適当な返事をした。

「何だよ、その顔は」私へ目を向けた和田が、ぶすっとした様子でそう言った。

 どうやら、私が瞬時に思った感情がそのまま出ていたようだった。私は素直に謝罪する。経験上、このような手合いは下手にお茶を濁すと拗れた言動になるのだ。

「だから、俺は放火の方は担当じゃなかったんだよ。煙草の吸殻がどうの、とか言ってたけどな。それだってたしかじゃないから、一般には公開されなかったしな。詳しくなくて当然だし、当時の奴等の不始末に俺の責任はないんだって」

 ぶつぶつと言い訳をする不機嫌な男は、残りのアイスコーヒーをぐっと煽ると、威嚇するように此方を睨みつけた。

 そうですね、大変失礼いたしました。

 私はもう一度、頭を下げた。和田は「本当だよ、失礼な奴だな」と氷を噛み砕きながらもごもご文句を垂れていた。

 そして、暫しの時間、私達の合間に沈黙が横たわった。耳をすませば、上品なピアノの音色が優しく店内を満たすようにして流れていた。

 たしか、『家路』という曲名だっただろうか、と私が意識を飛ばしていると、そっぽを向いていた和田が一言、「放火で思い出したが」と呟いた。

「夫婦が殺されてから、ピタリと無くなったんだよな」

 放火が? と、私が首を傾げると、和田は無言で頷いた。

 そして、「偶々かもしれねえがよ」と前置きすると、やはり鋭く尖った視線をそらしたまま、ぽつぽつと話し始めた。

「まあ、当時も怪訝(おか)しいと思ったんだろうな。放火が転じて殺人、まあ有り得なくもない。強盗――は、疑問だがな。で、警察も馬鹿じゃねえから徹底的に調べたが、どうしても連続放火と強盗殺人の関連性を見つけられなかった。それどころか、強盗殺人の中で起こった火災、あれは連続放火を受けての模倣だったんじゃねえか、とまで言われてたな。連続放火犯に全ての罪を擦り付けようってな。でもそうすると、強盗の部分が浮いちまう。全部、釈然としないんだよ。何なんだろうな、ずっと気持ち悪いんだ……」

 私は和田の話を静かに聴いたあと、予てより疑問に思っていたことを口にした。

 和田さんは先程から、夫妻の息子さんに対してアタリが強いように思いますが……。

 ふん、と和田が頬杖をついたまま、鼻で笑う。

 そして、ちらりと横目で私を見ると、端的に「不気味で気味が悪い、可愛げの欠片もないガキだったからな」と毒づいた。

 しかし、今までの和田の態度からして、それだけでは無いように思える。和田は何か知っている――否、勘づいている。

 だから、私は追撃の手を緩めない。私は、和田が何に気付いているのか、確認しなければならない。

 本当にそれだけですか?

 再び沈黙が訪れる。今度のそれは、明らかな拒絶であった。これ以上、部外者が踏み込むな、とでも言うように黙りこむ和田を、私はじっと見つめる。

 やがて根負けしたのか、和田は姿勢を正すと先程までの弛緩した表情が嘘のように、真面目くさった顔つきで私を睨んでいた。

「これは、俺の個人的な見解で、独り言だ」

 元警察官としての意地だったのか、はたまた単なる取材ごときに己の崇高な考察を話したくなかったのか、定かではない。

 私にとって、和田の迷い等どうでも良い。

 只、知りたい。

 彼の、生き残った子どもに対する、純粋なの感情を。

「俺は、あのガキが夫妻を殺したと思ってる」

 ぽつりと吐露した和田の言葉は、ひどく重たくて湿っていた。

 まあ、そうだろうな、と私は思った。そうでなければ、両親を殺され家屋を焼かれた子どもを【重要参考人】等とは呼ばない筈だ。

「押し入ってきた強盗を見たのも、親が死んだところを見たのも、訳の理解わからねェ制服のガキを見たのも、全部あの重要参考人だけだ。強盗って言うのも、そもそも生き残ったガキの発言で、現場は跡形もなく燃えちまった後だから、本当に強盗が押し入ってきたのかも定かじゃねえ。俺達警察は、あのガキの言うことが真実だって信じるところから始めなきゃいけねえんだよ。でもなあ、あのガキ――」

 長年抱え続けて、考えないようにして、心と記憶の奥底に沈ませていたせいなのか、和田は堰を切ったような勢いで話し続ける。もう目の前に私が居ることすら忘れているのではないか、と思わず疑うほど、虚ろながらも熱に浮かされた表情で語る男は、その視線の先に何かを幻視している。

 私も彼に合わせて、何もない宙をぼうっと眺める。

 和田には何が視えているのだろう。燃え盛る炎か、崩れゆく家屋か、それとも――気味の悪い子どもの姿か。

 柄にもなく、和田の視線の先を憂いていると、不意に彼が口をつぐんだ。私が目を向けると、年齢にしては皺が刻まれ草臥れた茶色い皮膚の和田が、しっかりと私を見つめていた。

「あんたみたいな真面目な人間は知らないだろうがな、あのクソガキ、あれは駄目だ」

 駄目?

 何が駄目なのだろう。ほぼ初対面である私の表面的な部分を見て、真面目な人間だと早計に判断する、国に首輪をかけられたこの老年の戦士は、一体何を見ているのだろう。

 私は純粋に疑問に思った。だから、何が駄目なのですか、と訊ねる。

 和田はぷくぷくとした丸い指を私に突きつけた。爪が欠けてぼろぼろで、小汚なかった。

「大体の人間っつうのはよ、多かれ少なかれ、善い心――良心ってのがあるだろう?」

 性善説を取るならばあるのだろう。生憎、私の周囲には良心どころか倫理観を投げ捨てて生きている人間ばかりなので、素直には頷けなかったが。

 しかし、ごねても話は進まない。私は尤もらしい顔つきで、そうですね、とだけ相槌を打つ。真面目くさった様子で畏まれば、よりそれらしく見えることだろう。

 そして、好都合なことに、和田は私の態度に満足したようで、特段何か指摘することはなかった。

 和田は続ける。

「あれには無い。眼を見れば一発で理解わかる。あれは、平気な表情で大法螺を吹く、悪党の表情だよ」

 ほう、と目を見開いて、私は初めて、眼前の老兵をまじまじと見つめた。

 和田以外の、生き残った子どもの評価を思い出す。

 親しくしていたと親告した人間も、親しくなくとも程々に交流した人間も、皆口を揃えて被害者を評していた。

 被害者は、非常に優秀で友人も多く、大人の評価も高い子とお聞きしましたが。

 今まで確認した評価を総合してそう述べると、和田は、ふん、と鼻を鳴らした。

「そういう奴ほど危ねえのが、定石だろう。大体の人間が、事件が起こった時に口を揃えて『そういう子には見えなかった』とか、無責任なことを言うんだよ。そもそも、如何にも事件を起こしそうな奴なんか、デカいことをやらかす前にしょっぴかれてるんだよ」

 偏見と侮蔑に満ちていながらも、本能的に何か感じ取るものがあるのだろう。

「周囲の人間は、口を揃えて奴さんが親父とお袋さんを殺すわけねェと言うがな」

 和田はアイスコーヒーの底に残った氷を口に含むと、バリバリと噛み砕きながら、私を睨み付けた。

「あれは鬼の眼をしている」

 鬼。人ならざるモノ。人ではないモノ。人には出来ぬことが出来るモノ。

 私は直観した。

 この男は――本質を見抜いている。

「あの餓鬼は――修羅だ」

 成る程、確かに暗愚でどうしようもない部分もあるが、それでも長年の警官としての勘なのか、和田は鋭い洞察力を持ち合わせている。

 修羅、と私は口ずさんだ。

 言い得て妙だ。

 私はとても満足した気持ちになって、残りのアイスティーを一息で飲み干した。

 それから二言三言、言葉を交わしたが、大した収穫はなかった。私自身、もう和田には用がなかったので、ここでお開きにしましょうか、と提案した。

 和田も異論は無いようで、傍らに置かれていた領収証を私に押し付けると、その巨体に見合わぬ素早さで立ち上がる。

「良い記事が書けるように願っているよ」

 心にもないことをすらすらと述べる壮年の男に、滑稽さを感じた私は笑いを堪えつつ、同じく心にもないことをいくつか、すらすらと述べた。

 そして、私も椅子から立ち上がると、ぺこりと頭を下げる。

 ありがとうございました。

 和田がその記事を見ることは無いだろうが、それを伝える必要はなかった。

 しかし、一向に退店を知らせるドアのベルが鳴らないので、不思議に思って顔を上げると、何故かまだ和田がその場に立ち尽くしていた。

 どうかされましたか?

 何か気になることでもあったのだろうか、と私が疑問に思っていると、和田は重たく垂れ下がった瞼に負けぬように、精一杯小さな瞳を見開いている。

 そして、不意に身を乗り出すと、私の眼球を覗く。

「なあ、あんた、俺と何処かで会ったこと、あるかい?」

 私は男の質問に答えることなく、ただ微笑んだ。 


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