【禁室 一】

 同性同名の人間が揃いも揃って食卓を囲む確率は、一体どの程度なのだろう。

 丸い卓袱台を囲みながら始まった朝食の席で、神崎昴流はぼんやりとそう思った。

 この屋敷には、【カンザキスバル】が五人居る。

 木々に覆われた大きな【屋敷】には、年齢も性別も異なるものの、同姓同名の人間が棲んでいる。

 何故そうなのか、昴流は知らない。他の神崎スバル達は疑問にすら思わないようだった。或いは、既にその手の問答は彼らの中では終わったことなのかもしれない。

 そもそも、昴流には此処に至るまでの記憶が欠如している。

 この【屋敷】が、昴流の生家であることは覚えている。

 昴流自身が現在高校に通う年齢であることも、今までどのように生きてきたかも、はっきり覚えている。

 それなのに、何故この家に家族以外の人間が棲んでいて、恰も家族のように振る舞っているのか、その過程に至るまでの記憶がぽっかりと抜けているのだ。

 昴流は卓袱台をじっと睨みつけた。朝食の時間だというのに、昴流の目の前には皿の一つも出されていなかった。

 しかし、これは特段、厭がらせを受けているという訳ではなかった。腹が空かないのだ。昴流はこの生活が始まってから、一度も腹を空かせたことがない。

 他のスバル達も、無理矢理食わせる気はないようだった。

「今日も食べる気にはならないかい?」

 昴流の右隣に座った少女――神崎朱春が、にこにこと人好きのする笑みを浮かべながら、首を傾げた。名前の如く、春の訪れのような、麗らかな少女である。

 しかし、昴流は、ああ、だとか、うん、のような曖昧な返事をしただけだった。食欲は相変わらず失せたままであるし、喉の渇きすら覚えない。

 こんがりと狐色に焼き上がったトースト、半熟のとろりとした黄身が美しいベーコンエッグ、しゃきしゃきとしたレタスにトマト、胡瓜が彩られた瑞々しいサラダ、明るい色をしたオレンジジュース。

 どれも美味しそうな見た目をしているのに、昴流はそれを見ていると、何故か吐き気を催す。

 蒼い顔のまま、ぼんやりとたくさんの皿に並べられた料理を眺める昴流を、朱春は嬉しそうに見つめている。

「良いんだ、食べたくないなら、そのままで」

 謳うような柔らかな声色でそう言った朱春は、心の底からそう思っているようだった。

 昴流はゆるりと首を縦に動かすと、色とりどりの朝食から目を離した。

 昴流と朱春の他に、他のカンザキスバル達が各々朝食を腹に納めている。

 昴流の左隣、朱春から見て向かい側に座るのは、二人と同じくらいの年齢の少年だ。名前を神崎修晴と言う。むっつりと眉をしかめて虚空を睨む修晴は、何処か近寄りがたく思えた。

 黙々と食べ続ける彼は昴流の視線に気が付くと、ちらりと横目で視界に収める。

「朱春の言う通りだぞ。どうせ食べたって味なんか理解らないだろうが。……そもそも、こんなとこ、早く出ていった方が良い」

 修晴は他のスバル達に比べて、口も態度も悪く、格段に昴流に冷たかった。きっと嫌われているのだろう、と思う。

 出ていくも何も、此処は昴流の生家なのだが、生憎口答えする気にもなれなかった。俯く昴流を、じろっと修晴が睨みつけている。

 一方、二人のやり取りをやきもきとした表情で見つめていた朱春は「言い方!」と、修晴を非難するように強く注意する。すると、途端にばつが悪くなったのか、修晴がさっと視線をそらした。

「修晴くん、心配する気持ちは理解わかるけどね。あんまりきつい言い方はしない方が良いよ。昴流くんが萎縮しちゃうじゃないか」

 険悪な空気がじっとりと室内を充たした頃、助け船を出したのは修晴の隣に座る青年だ。――と言っても、助け船というよりは泥船であるし、昴流は茶々を入れたのだと思ったのだが。

 食べることが苦手なのか、と思わず訝る程、パン屑を口の回りに付けたまま話す青年も、【カンザキスバル】の名前を戴く人物だ。青年――神崎栖刃琉は、昴流や朱春、修晴よりも幾分か歳上のようだった。しかし、浮かべる表情は幼い子どものように無邪気である。

「お前は人の事を諭す前に、食い方をどうにかしろよ」

 修晴がうんざりした様子で悪態をつく。しかし、栖刃琉は何処吹く風で、トーストを頬張りながら、ぼろぼろと食べ滓を溢していた。

「あーあー、栖刃琉さん、今布巾持ってくるから。大人しくしてて」

 険を削がれたのか、肩を竦めた朱春が立ち上がった。栖刃琉は気の抜けた声色で、謝意を告げている。それを横で、半眼になった修晴が呆れたように眺めていた。

 途端に、昴流は心細くなる。この場で昴流に好意的なのは朱春だけなので、彼女が一時的にでも場を去ってしまえば、途端に針の筵になるのは必然である。

「俺が取ってこようか」 

 苦し紛れに、昴流はそう提案した。どうせなら、自分が立ち去った方が幾分かましに思えたのだ。

 善は急げとばかりに素早く腰を上げた昴流は、そのままろくに朱春の返事も聞かずに部屋から飛び出した。六畳より少し広い、畳が隙間なく敷き詰められた居間は、恐ろしく息が詰まる。

「昴流! 布巾は台所にあるぞ!」

 親切な朱春の声が、後ろから飛んできた。

 眼前に拡がる長い廊下の先は、暗闇に途切れてよく見えない。

 生理的嫌悪に背筋が震えた。化け物の口の中のような漆黒の影は、好きではなかった。

 少しだけ、弾丸のように飛び出したことを後悔しながら、昴流は台所を目指して歩き出す。

 子供の御使いにも満たないそれが、ひどく億劫な気持ちにさせた。

「昴流」

 ゆっくりと振り返ると、部屋から顔を覗かせた修晴と栖刃琉が、じっと此方を見つめている。

「途中で何かあったとしても、全部無視して、真っ直ぐ帰ってこいよ」

 昴流のことが気に入らない様子を見せる癖に、修晴の表情は真剣であった。そして、漸く名前を呼んだのが同い年ぐらいの少年であることに気が付く。

「修晴くんは素直じゃないねえ」

「うるせえ。馬鹿。もやし」

 栖刃琉にからかわれて、不機嫌になった修晴の頭が引っ込んだ。栖刃琉はにこにこと微笑ったまま、手をひらひらと振っている。

「まあ、修晴くんの言う通り、真っ直ぐ帰ってきてね」

 ――いってらっしゃい。

 昴流は暫く栖刃琉を見つめた後、ゆっくりと頷いた。


 ■■■


 一直線に伸びる廊下の途中に、昴流が目指す台所がある。

 昴流は時々見える、廊下に設置された窓の外を眺めつつ、真っ直ぐ目的地を目指し、漸く辿り着いた。

 台所の壁に嵌め込まれた五角形の窓の外は、桜や梅、藤の花で埋め尽くされ、時折風に揺れて花吹雪を起こしている。

 うっかり見惚れると何時までも眺めていたくなる気持ちを何とか捩じ伏せて、昴流は大きく開いた入口の前に立つ。

 ぽつねんと洞窟のように空いた穴と見紛う台所の入口の鴨部の近くには、【花座敷】と彫られた札が掛けられていた。

 暖簾を押し上げて台所へ入った昴流は、ほっと安堵の息をつく。

 修晴達に脅かされたようなことは、道中で起こることはなかった。

 途中、廊下の隅を游いでいた黒い金魚がぴちょんと音をたてては、ゆらゆらと尾ひれを揺らしているだけである。

 昴流は足元の金魚達を踏みつけないように気を付けながら、シンクに掛けられた布巾を手に取った。

 水仕事をするためのシンクと古びたコンロ、大きな食器棚や年代物の冷蔵庫や炊飯器、電子レンジが隙間なく詰め込まれ、中央には小さな机が一台あるだけの、寂しい台所だ。

 今は昔、母が背を向けて夕御飯を作っていたことを思い出す。

 その後ろ姿に、家事の手伝いを申し出ることが、何よりも好きだった。

 幼い昴流が声をかけると、優しく微笑みながら振り向く瞬間も。

 壁面には大きな鯉が優雅に游いでいる。昴流は暫くそれを眺めた後、退室した。

「一本道だけど、何か迷いやすいんだよなあ……。なあ、お前達、俺を皆が居る処まで案内してくれないか」

 時々部屋が在るだけで、あとは廊下しかない道なのに、昴流は何故か目的地を見失うことがある。

 昴流の周囲を遊泳する漆黒の鯉におどけて話しかけてみるが、ひらりとかわされて壁の中へ消えていった。

 昴流は肩をすくめた。

 いつの間にか、壁や床を泳ぐ魚達は全て消え失せていた。

 昴流は皆の居る居間へ、のろのろと足を進めようとして――ぴたり、と立ち止まった。

 背後から、聴こえる。

 それはさわさわと囁くような声にも聴こえたし、微風が吹き抜けるような音のようにも聴こえた。

 昴流はじっとりと厭な汗を垂らした。

 背後にも長く続く廊下には、誰――何も、居ない筈だった。

 台所へ向かう途中、何度も確認をしたのだ。此処には昴流以外、誰も居ないし、何も居ない。遊泳する金魚達はあのような音を響かせないし、何より、喋らない。

 ――誰だ。

 ――否。

 ――何だ?

 どんどんそれは近付いて、やがて昴流の背中まで近寄ったのが理解った。ぞっとする。さわさわ、しゃらしゃら、ぞろぞろ。奇怪な音ー声かもしれない――は、昴流の耳元で、擽るように奏でられている。


「途中で何かあったとしても、全部無視して、真っ直ぐ帰ってこいよ」


 不意に、修晴の忠告を思い出した。

 ごくり、と粘ついた唾を呑み込む。そろり、と岩のように重く固まった右足を踏み出す。ぎこちない動作だが、何とか歩き出すことが出来て、無意識のうちに安堵の息を漏らした。

 しかし、耳障りな音は延々と昴流の脳髄に響くように、繰り返される。まるで何かを訴えているようだ、と思ったところで、はっとした。

 ――話しかけているのか?

 そう気付いた瞬間、ぞわり、と総毛立つ。話しかけている、ということは、つまり意思を持っている、ということである。昴流は頑なに背後へ視線を向けなかったので判らなかったが、恐らくそれは、何らかの意思を持つ生命体なのだ。しかし、昴流は知っている。確認している。

 この【屋敷】には、五人の【カンザキスバル】しか存在しないことを。

 ゆっくりと息を吐く。震えた吐息が漏れ出て、苦笑しようにも歯の根が合わない。

 今やそれは、ぴったりと昴流の背後を陣取っていた。ぶつぶつぶつぶつ、聞き取れない音域で何事かを呟いている。気味が悪くて仕方なかった。

「……。……。……、た……」

 修晴の言う通り、全てを無視して居間へ走り出すべきだ。

「……。……、……。……る……た……」

 それなのに、昴流の足は床に縫い付けられたように動かない。

「……、……、……、……ば……け……」

 応えてはいけない。古今東西、異形からの問い掛けに応えても、ろくな目に遭わないことは自明の理だ。

 しかし――。

「何だよ! 俺に何か、用でもあるのか!」

 昴流は耐えられなくなって、癇癪を起こした子どものような表情で振り返った。

 振り返って、後悔した。

「あこなてむいねいいそおめあも」

 ――六つの眼球めだま、鼻も口も眉もない顔、小さな子どもの頭、壊れそうな肩と膝小僧。

 異形の子どもが、嗤いながら昴流の顔を覗き込んでいる。

 昴流はそこから、意識が無い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る