第78話 水槽の中で

 渋谷保と会って三日後の夜。

 いつものルーティン通り、マンションのエントランスに入ったニックは、リスポーン地点を『記録』した。

 特対との間にはその後特に動きはなく、ややフラストレーションが溜まっている。


 また今晩あたり、『灘鏡子』の元へ行き、このストレスを解消しようかな? などと考えていた。


 ──と。


 突然、視界が暗転した。

 移動系スキルを持たないニックだったが、この感覚は知っている。

 異世界でパーティーを組んだメンバーが使用していたスキル──【呼び寄せ】。

 ただ、本来なら事前に同意が求められるハズ、そう思ったが、何故か強制的に転移させられたようだ。


 そこは薄暗い場所だった。

 やや広めの部屋に、四角い何かが置いてある。

 あれは⋯⋯。


(水槽?)


 個人宅に置くには、やや大きめ。

 そんな印象を抱いていると──。


「がっ⋯⋯」


 思わず呻く。

 ガクンとした感覚を伴い、足から力が失われた。

 そのまま前に倒れそうになるのを、何とか地面に手をついて防ごうとするが──。


 ガン。


 顔面を地面へと無様にぶつけた。

 四肢から、さらに痛みが伝わってくる。


「あ、あがっ、な、何が⋯⋯」


 顔を地面に擦り付けながら、何とか状況を確認しようとしたが、身体が起こせない。


 そのまま、視線の先にある物を見た。

 右手だ──おそらく自分の。


 根元、つまり脇の辺りから切り離された右手が、地面に転がっていた。

 それを見た次の瞬間、頭部を激しい傷みが襲う。

 どうやら髪をグイッと持ち上げられ、地面から引き剥がされたようだ。


「い、痛い痛い痛い痛い!」


 そのまま叫んでいると、男の顔が見えた。

 若い男だ。

 確か日本側の帰還者として、最近リスト入りした人物──東村忠之だ。

 自らの状況を確認するために視線を巡らせると、右手だけでなく、両手両足が切断されているようだ。


 つまり男は、胴体と頭部だけの自分を持ち上げている、という事になる。

 男は左手にニックを、右手に剣を持ったまま尋ねてきた。


「合い言葉は? ほら十秒で伝えろって言われてない?」


 突然の出来事に、突然の質問。

 頭の整理が追い付かない。


 返事に窮したニックがそのまま黙っていると、東村が舌打ちした。


「ちっ、その感じだと一回目かぁ⋯⋯面倒くせーな」


 それだけ呟くと、男の右手が動いた。

 それは、あの灘鏡子の技でさえ児戯だと思わせるほどの鮮やかさ。

 声を出す間もなく首が切断された──とニックが理解したと同時に、先ほどの水槽へと投げ込まれる。


 自らの頭部が──今はその感覚が全てだが──水槽の中に沈んで行くのを感じながらも、ニックは違和感を覚えていた。


 死の気配が訪れない。

 いやむしろ、この水槽に投げ込まれてからは、何の傷みも感じない。

 ただ、苦しい。

 肺が失われ、呼吸もままならない。

 窒息の苦しみだけ感じながら、それでも、死が訪れる事が無い。

 過去に無い感覚で、これまでで一番苦しく、不快だ。


 水槽の外で、東村が何か言っているようだ。

 口が動いている。

 ただ、液体に浸かったニックに、その声は届かない。

 東村もその事を察したのか、水槽に手を伸ばしてきた。


 ニックの耳が引っ張られ──空気に触れた途端に激痛が走った。


「──、──、────!」


 肺を失った頭部では、叫び声を上げる事すらままならない。

 だが、耳が水面から出た事で、東村の声が届く。


「ごめんごめん、ルール説明するね? 君がこのデスループを抜けるには、合い言葉が必要でーす。ここまで理解したら、三回まばたきして?」


 相手の意図は計れないが──とりあえずニックは、慌てて三回まばたきした。


「OK。で、俺が合い言葉を聞くタイミングはさっきの場面だけです。なので万が一、合い言葉を尋ねたあとでお前が『記録』しちゃってたら、この苦しみ無限ループ確定なんだけど⋯⋯ここに来てから『記録』を更新したなら、まばたきを大きく一回、してなければまた三回まばたきしてくださーい」


 『記録』という言葉で、ニックは理解した。

 東村は、ニックの【死に戻り】について理解している。

 その上で、何らかの対策を立てて、この場がセッティングされているのだ。


「おい、まばたき」


 ニックは考え事を中断し、慌てて三回まばたきした。


「OK。で、何で死なないのか不思議かも知れないから解説しとくね? この水槽はエリクサーで満たされてます、だから君は死ねません。すげーよな、エリクサーって。頭部だけでも無理やり生命を維持しちゃうんだぜ? どんな仕組みなんだろうな、ハハハハハ」


 エリクサーの水槽?

 死ねない?


「で、俺の目算だと、このエリクサーの量で、君はだいたい五年間生存できます」


 五年?

 五年間もこの苦しみが⋯⋯続く?


「ただ安心してください。俺が合い言葉を伝える準備ができたら、その時点でそのループは一旦終わりです。この五年ってのはあくまで、俺が『探し物』の過程で死んだりしたら『リセット』できる状態にするためです。まあお前にはわからないとおもうけど、要は保険って事。理解できたらまばたき三回」


 ニックは三回まばたきした。


「ここ大事なので絶対覚えといてね? なので、最長の五年だった場合、つまり俺が戻ってこなかったら合い言葉の最後に『戻らず!』と言ってください。これ忘れちゃったら、この苦しみがまた五年ループ確定です、OK?」


 回数は指定されなかったが、ニックは三回まばたきした。


「じゃあ最後にまとめるね? お前がこのデスループを抜けるには合い言葉が必要、俺が聞いたら十秒以内に答える、俺が戻って来なかったら合い言葉の最後に『戻らず』を付け加える⋯⋯理解できた?」


 ニックはまた三回まばたきした。


「安心しろ、俺は嘘をつかない。合い言葉さえ揃ったら、お前をこの最長五年のループから、絶対解放してやるからさ」


 まばたきする。


「ま、スキルを利用して他者を蹂躙し、好き勝手扱う、その行いが自分に返って来たと思って頑張ってくれたまえ! ま、死ねば無かった事になるんだから大丈夫だよね! じゃあ俺が合い言葉をまで、待っててねー!」


 東村が指を放し、ニックはふたたび水槽へと沈んだ。

 頭部以外の部分をアイテムボックスへと回収した東村は、転移してこの場を去った。


 苦しい。

 ここから、一刻も早く解放されたい。

 だが、その方法が思いつかない。


 しばらく思案して、一つアイデアが浮かんだ。

 どうにかして死んで、当てずっぽうでもいいから合い言葉を試してみる。

 合い言葉自体を当てる事は不可能だろう。

 ただ、ほんの少しの間でも良いから、五体を取り戻したい。


 もちろん何とか死んだところで、すぐに強制的にここに呼び出され、手足が奪われるのを避けるのはまず無理だろう。

 そう思わせる凄みが、あの男の技にはあった。


 ただそれでも、一瞬でもいいから、この苦しみから一旦解放されたい。


 首から下の筋肉を失い、口すらまともに動かせないが⋯⋯。


 ガリッ!


 それでも長時間かけて、なんとか舌を噛んだ。

 だが──それも、すぐにエリクサーによって治癒されてしまった。


 もう、現実を受け入れるしかない。


 ──あの男から「合い言葉」を教えて貰うまで、この苦しみと付き合うしかないのだ。


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