第34話 バッタの生涯(加藤鷹司の末路)①

 小学四年生の秋。


 少年サッカーの帰り道、加藤鷹司は友人の東村忠之を見かけた。

 忠之が外で遊んでいるなんて珍しいな、と思った。

 いつも一緒に遊ぶ時には、もっぱらゲームなど室内が多い。

 彼は土手に座り、じっと何かを見ていた。


 声をかけようとして顔をのぞき込むと──忠之はニヤニヤと笑っている。

 たまに見る、印象的で独特な笑い方。


 イタズラや、ゲームで鷹司を罠に引っ掛けた時に見せる笑顔だ。

 

「何いつもの悪者顔でニヤニヤしてるんだよ! 怖えーよ」


「あ、鷹ちゃん。これ見てよ、これ」


 忠之が指差す方を見ると、ピョンピョンとバッタが跳ねていた。

 いや、正確に言えば、バッタは跳ねようとしていた。


「見たい物があってさ、接着剤で足を地面にくっつけたんだ。そしたらなんか、スクワットしてるみたいで。面白くない?」


「オメーひでーことすんなぁ⋯⋯」


 呆れながらバッタを見る。

 バッタはしばらくピョンピョンと脚を動かし、その場から逃げようとしていたが、やがて飛び跳ねるのをやめた。


 逃げるのをやめた訳ではない。

 脚だけがそこに残り、バッタはモゾモソとイモムシのように歩き出したのだ。


「これこれ! これ見たかったんだよ」


「えっ、何これ」


「バッタって、捕まると脚を自分でもいで・・・逃げるって図鑑で見てさ。自分で切るから自切じせつって言うんだって」


「えっ、なんかかわいそう」


 嬉しそうな忠之と共に、歩く事しかできなくなったバッタをしばらく眺めていたが⋯⋯忠之は不意に立ち上がった。


「どうした?」


「いや、見たかったの見れたからもういいや」


 まるで壊れたおもちゃを捨てるように、忠之は興味を無くしたようだ。

 鷹司はなんとなく、その後のバッタがどうなるのかが気になったが、一緒に立ち上がる。

 忠之は歩き出しながら、思いついたように言った。


「そういえばさ」


「何?」


「自切って⋯⋯自殺に似てない? 言葉の響きがさ」 


 自分の発想を気に入ったのか、忠之はクスクスと笑った。


「いや、怖いってお前、自殺とか」


「まあ、両足取れたバッタの場合似たようなもんかもね。跳んで逃げられなかったら、蟻とかにも食べられるだろうし。まあわかってても切らなきゃいけない事もあるって事なのかな?」


 自分でやった事なのに、まるで他人事のように語る忠之に、鷹司は呆れながら言った。


「俺がバッタだったら、お前にだけは捕まりたくねぇわ」


「えーっ、俺が鷹ちゃんにあんな事するわけ無いじゃん」


「なんで?」


「友達だもん。友達にあんな事しないよ」


「友達じゃなくなったら、なんか平気でやりそう」


「まあ、友達じゃなくなったらやるかもね?」


「おい!」


「冗談冗談」


 鷹司は何となく振り返り、バッタを見ようとした。

 ただ、離れすぎたのか、もうバッタは見えなかった。


 忠之とはしばらくして別れ、風呂に入り、夕飯を済ませ、ゲームなどをしてからベッドに入った。

 寝る前、なんとなく、あのバッタがどうなったのか気になった。


 忠之の言うように、途中で蟻にでも食べられたのか。

 それとも、どこか遠くに逃げてしまったのか。

 明日見に行ってみようかな?

 うん、そうしよう。

 でも⋯⋯見つかるかな?


 ──しかし朝起きた時には、バッタの事など忘れていた。



 何年かに一度、鷹司は不意に思い出す。


 足を失い、イモムシのようにモゾモゾと歩いていたバッタと、それを見ながらニヤニヤしていた忠之の事。

 見に行ってみればよかったかな、という、後悔とまではいかない、ちょっとした好奇心。


 そして──バッタにとって、両足を自切するのは自殺に等しいという、忠之の、質の悪い冗談を。







 

 




 小学校の頃からサッカーをしていた鷹司は、中学に入ってすぐレギュラーに抜擢された。

 それが気に入らなかったのだろう。


 鷹司のせいでレギュラーから外された先輩も、最初は「なんでお前がレギュラーなんだよ」といった愚痴から始まったのだが、鷹司の「先輩の方が下手なんだから仕方ないじゃないですか」という一言から様子が変わった。


「お前、大体生意気なんだよ!」


 殴りかかってきた先輩を返り討ちにしたまでは良かったが、他の先輩たちからも囲まれ、多勢に無勢。


 上級生の手によって、鷹司はボロボロになってしまった。

 それでも、半分以上の先輩を殴り飛ばしたのだから、あまり敗北感はなかった。


 痛みと疲れから地面に寝ころんでいると、女生徒から声を掛けられた。


「あの、これ、使ってください⋯⋯血が出てます」


 見慣れない顔だ。

 しかし制服の襟についた校章の色で、同級生だとわかった。

 同級生のほとんどが、小学生時代からの知り合いだが、一部よその学区から来た生徒もいる。

 彼女もそうなのだろう。


「えっ、あ、うん」


 少女から差し出されたハンカチを受け取る。

 血を拭き取りやすくするためか、濡らしてあった。


「あの、それ、返さなくていいんで⋯⋯じゃあ」


 少女はそれだけ言うと、そそくさと立ち去った。

 礼を言うヒマもなかった。


 濡れたハンカチで顔を拭く。

 白い生地はすぐに赤く染まったが、ハンカチからはいい匂いがした。








「忠之、あの子知ってる?」


 全クラスが集まる朝礼中、ハンカチを渡してくれた少女を見かけた。


「あー、吉野さん? 詳しく知らないけど頭良いらしいよ」


「ふーん⋯⋯」


 吉野さんか。

 まだお礼言えてないんだよなぁ。


 何か話し掛けるのも気恥ずかしい。

 ハンカチは新しく購入し、常にカバンにいれてあったが、結局渡せなかった。





 中学三年。

 吉野さんは忠之と同じ高校に行くらしい。


「なあ、忠之。俺も同じ高校に行きたいからさぁ、勉強教えてくれよ」


「えーっ、今から? だけどあそこ、サッカー強くないよ?」


「いいんだよ、どうせプロとか目指してる訳じゃないし」


 香苗とともに忠之に勉強を教えて貰い、何とか同じ高校へと進む事ができた。



 高校二年。

 春のクラス替えで、初めて吉野美沙と同じクラスになった。

 中学時代から遠巻きに見ていただけ。

 休み時間になり、勇気を出して声を掛けた。


「あ、吉野さん」


「あ、加藤くん⋯⋯なんか、初めて話すね、同じ中学なのに」


 初めて、話す⋯⋯。

 そっか。

 自分にとっての大事な思い出が共有されていない事に、少し寂しさを覚えた。


「うん、そうだね⋯⋯でさ」


「あ、鷹司どうしたの?」


 忠之が話に入ってきた。

 吉野さんは忠之を見ると、ほんの僅かだが嬉しそうな表情を浮かべつつ、鞄から本を取り出した。


「あ、東村くん。これ、前に言ってた参考書⋯⋯」


「えっ、マジで持ってきてくれたの!?」


「うん、私もこれで凄く勉強進んだから」


「ありがとう吉野さん!」


「ううん、私も、東村くんが一緒の大学だと、なんか安心だし」


 忠之と一緒の大学。

 自分が今から勉強しても、流石に難しいだろう。


 勉強について話す二人の側で、鷹司は強い疎外感を感じた。







 ──やってしまった。


 高校二年の夏。

 香苗と二人で過ごしていた時に、何となくエロ話で盛り上がり⋯⋯手を出してしまった。

 

 忠之が香苗に惚れているのは知っていた。

 だが鷹司も思春期真っ只中。

 罪悪感を覚えながらも、それこそ猿のように、暇さえあれば香苗との情事に励んだ。


 香苗とそういう仲になって3カ月ほどした頃。

 情事が終わり、いつものように二人でベッドに寝ころんでいると、香苗から告げられた。


「鷹ちゃん」


「ん?」


「私さ⋯⋯忠之に告白されたの」


「えっ⋯⋯マジ? 俺達の事言ったの?」


「言えるわけないじゃん⋯⋯それで、どうしようって」


「どうするも何も⋯⋯」


 ──その時。

 吉野さんと忠之が、楽しそうに笑ってるのを思い出した。


 そっか、なら⋯⋯。


「まあ、別に付き合えばいいんじゃね?」


「えっ?」


 驚いた声をあげた香苗を見る勇気はなく、視線を外したまま言った。


「だってさ、俺たち別に付き合ってるわけじゃねーし」


「⋯⋯そっか」


 しばらくして、香苗が言った。


「じゃあ私、忠之と付き合う⋯⋯それでいいんだよね?」


「うん、アイツお前にベタ惚れだし」


「じゃあ、もう、こういう事しないよ?」


「まあ、仕方ないんじゃね?」


 そのまましばらく二人は黙っていたが⋯⋯香苗は身支度したのち、鷹司の頬を叩いた。


「鷹ちゃんの⋯⋯ばーぁあああか!」


 そのまま部屋を飛び出す香苗を、鷹司は追いかけなかった。


 もし、忠之と香苗が付き合ったら──吉野さんは、俺を見てくれるかも知れない。


 罪悪感と期待感の狭間で揺れながら、鷹司は叩かれた頬をさすった。


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