第30話 梁島香苗、その後②
忠之が出て行ったあと、香苗はしばらく玄関に立っていた。
彼の態度から今になってようやく、自分がやってしまった事の悪質さ、軽率さ、愚かさ⋯⋯さまざまな後悔、反省が心の中で渦巻く。
はあはあと息は荒くなり、何とか壁に手をつきながら、中へと移動した。
和室を覗くと、まだ父は放心したようにうなだれていた。
母に今日の出来事を伝えようにも、自分自身が整理出来ていない。
二千万円?
離婚?
さっきまでの会話を思い出し、次々と、その意味が理解出来てくる。
お腹の中で子供が動いた。
その振動が、これが現実だと伝えてくる。
子供は成長し、もう引き返せない所まで来ている。
この子を産もうと考えなければ、忠之を騙さなかったのに。
なんで私は、この子を産もうなんて考えたのだろう。
──この子さえ、できなければ。
張ったお腹が少し苦しくなった。
父がうなだれている和室の隣に、少し横になろう。
──最近あまり寝れていなかったせいか、香苗は眠りに落ちた。
夢かうつつか、隣の部屋から父と母の話声がする。
「──勘当──恥──」
「忠之くん──顔向け──」
「大金──」
ああ、そうか。
わたしのせいで、父と母が言い争っている。
父が、母を説得しているようだった。
私は、この子と一緒に追い出されるのだろう。
仕方ない、と思う。
どうすれば良かったのか。
もちろん、正直に、全てを言えば良かったのだろう。
両親にも、忠之にも。
ただ、仮に正直に言ったとして、それでも、この子を産むという決断が、私にできただろうか?
わからない。
出来なかった気がする。
父親のいない──少なくとも、鷹司は自分とこの子を育ててくれたりしないだろう、と考えただろう。
前回もそう思って、中絶を選んだ。
今回も同じようにしただろう。
夢を見てしまった。
忠之なら、この子の父親になってくれるのではないか。
いつも、自分のワガママを受け入れてくれたから。
今回も⋯⋯。
どこかで、そんな事を思ってしまっていたのだろう。
怒らせて当然だ。
──もう、何も、考えたくない。
眠りがまた深くなってくるのを自覚する。
だから、これはたぶん夢なのだろう。
母の、静かな中にも、力強さを感じる声がした。
「──あの子は、私が守りますから」
──────────────────
「梁島さん、元気な女の子ですよ!」
陣痛が始まってから、出産まではスムーズに進んだ。
それでも、苦しい時間だった。
この世に誕生したばかりの、自分の子。
疲労が残る中、赤ん坊を渡される。
腕に感じる重み。
私は、この子とどう向き合っていけばいいのか。
他人に迷惑をかけ、多くの人を傷つけ、結果産まれてきた、我が子。
自分はともかく、この子にも、何か背負わせているような気がしてならない。
──────────────
出産して3ヶ月後。
「いつまでも籠もってたら病気になるわよ」
母に誘われ、出掛ける事になった。
目的地は聞いていない。
父も母も、忠之に支払うお金をどう工面したかは説明してくれなかった。
「お前が心配する事じゃない」
父はそれだけしか言わなかった。
両親にはどうしても引け目を感じ、あまり話し掛けられない。
母は努めて、明るく振る舞っているように見えた。
母の運転する車に揺られる事約一時間。
車は焼き物で有名な萩市内に入った。
「着いたわよ」
「⋯⋯ここ、知ってる。小学校の時、バス旅行で来た」
松下村塾。
山口県民なら誰もが知る、吉田松陰が開いていたという私塾。
明治維新の立役者たちを多く輩出した場所だ。
母とともに、ベビーカーを押して移動すると、一つの石碑が見えた。
「香苗、これ知ってる?」
「うん、前も見たし⋯⋯授業でも習ったよ」
吉田松陰、辞世の句。
処刑される朝、親に向けて詠んだ句だとされている。
「読める?」
「うん。『親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん』⋯⋯でしょ?」
「意味は知ってる?」
「知ってるよ、子供が親を思う心より、親が子を思う気持ちの方が強い⋯⋯だから自分が処刑されると知ったら、親がとても悲しみそうだから辛い⋯⋯みたいな感じだよね?」
「そうね。でも、龍也を妊娠した時、お父さんがここに連れて来てくれてね、言ったの。これは理想的な親子の姿かも知れないけど、嘘だって」
「嘘⋯⋯?」
「うん。お父さん職業柄、犯罪とか、非行に走る子に接してるでしょ? だからわかったんだって」
「何がわかったの?」
母はそこで一旦話を止め、赤ん坊の頭を撫でた。
今回の件で、母は少し老け込んだ気がする。
それでも、母は孫へと笑顔を向けながら続けた。
「子供はね、いつだって親に愛されたいの。親から愛されている実感が欲しいの。だって、親に愛されずに苦しんでる人、いっぱいいるじゃない」
「親に、愛されている実感⋯⋯」
確かに香苗も聞いた事がある。
育児放棄や虐待など、現実問題として、全ての子が、親に愛されている訳ではない。
そう言われれば、この句は理想であり、万人に当てはまる真理などでは、決してない。
「それで、お父さんは言ったの。何もかもはできないけど、産まれてくる子には、愛されてる実感だけは与えられるようにしようって。なのにアナタを勘当とか言い出したから、お母さんちょっと怒っちゃった」
「お母さん⋯⋯」
「だから香苗、ここで誓いなさい。この子を精一杯愛すって。この子が、愛されてる事を実感できるくらい、精一杯愛情を注ぎなさい。その自信が無いなら⋯⋯子供は手放しなさい。この子を愛してくれるご家庭に委ねなさい。お母さんも出来るだけ手伝ってあげるけど、この子の親はアナタだけなの。その覚悟が持てる?」
母はそのまま、じっと見つめてきた。
その視線を一旦受け止め、我が子を見る。
再度視線を母に戻し、香苗は心情を吐き出した。
「私⋯⋯いっぱい間違えたけど、色んな人を⋯⋯忠之を、迷惑かけて、傷つけちゃったけど、でも⋯⋯」
抑えていた感情があふれ出すとともに、目からも涙が溢れてくる。
両手で顔を抑えながらも、言葉は止まらなかった。
「この、子が、産まれた時、私の、所に、産まれてきてくれて、ありがとうって、思ったの、だから、私、頑張、ヒック、からぁ⋯⋯誓う、誓うよ、この、子を、全力で、愛すって、だって、間違ってばかりの、私の所に、きてくれたんだがらぁ⋯⋯」
母は泣きじゃくる香苗をふわっと抱きしめながら、うんうんと頷いた。
「頑張りましょう、でも、これまでみたいに甘やかさないわよ。ビシビシ厳しくするからね。アナタも母親になったんだから」
「うん、うん⋯⋯」
家に籠もっている間に、季節はすっかり冬を迎えた。
寒空の下、果てしない温もりを感じる母の腕の中で、香苗は改めて誓った。
──私は、お母さんみたいなお母さんになるんだ、と。
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