第29話 梁島香苗、その後①

「に、二千万!? 忠之くん、これは流石に法外じゃないか!?」


 こんなに慌てた父の声は聞いた事がなかった。

 離婚に向けての話をしようと、忠之が梁島家を訪ねて来たのは式から三日後。


 母は式の日からショックで寝込んでしまった。

 香苗自身も、生きた心地がしなかった。

 式を中断して家に帰ってから、父は極端に無口になり、兄や姉は香苗を罵倒した。


「何を考えているんだ」

「お前は梁島家の恥だ」


 末っ子として甘やかされていた自分に、容赦なく浴びせられた兄と姉の罵倒。

 針のむしろとはまさにこの事だろう。


 スマホは一度没収され、鷹司の連絡先は消されたので、救急車で運ばれた鷹司がどうなったのかもわからない。


 本当なら、結婚式が終われば忠之は一旦東京に戻り、香苗はこのまま実家で出産。

 育児の目処が立てば、東京での新生活を切るハズだった。

 ズルズルと続けてきた鷹司との関係も、ここで切る。

 そのつもりだった。

 忠之が新居として予定していた物件は、香苗の理想を大きく上回っていた。


 詳細はまだ教えて貰っていないが、どうやら忠之は、相当な資産を手に入れたらしい。

 山口の田舎で、実家暮らししか知らない香苗にとって、テレビドラマの中にしかないような、素晴らしい生活が待っている──そんな期待に胸を膨らませていた。



 忠之は香苗から見ても、理想の旦那になりそうだった。


 外見も、お金も、温和な性格も。

 何より香苗を、深く愛してくれている。


 東京での生活は、誰にでも自慢できる、理想の暮らしになるはずだったのに──。





「そうですか? 俺の心情としては、むしろ安いくらいなんですが」


 忠之が発した冷たい声に、妄想に逃げていた香苗の意識は、現実へと引き戻された。

 部屋にいるのは忠之、父、香苗の三人だ。

 せめて忠之くんに謝りたい、そう言って母は同席しようと立ち上がったが、すぐに伏せってしまった。

 テーブルの上に広げられたのは、忠之の欄が既に記入された離婚届、あとは示談書と、その内訳だった。


 忠之はあくまでも父とだけ話し、自分の事は見ようともしなかった。


「では一つずつご説明します。まずは式の費用がこれ、結納金の返却、俺が式の打ち合わせの為に往復した交通費や雑費⋯⋯」


 領収書を並べながら、忠之が説明していく。


「ここまでがざっと700万、あとは今回香苗の有責による離婚なので⋯⋯内容が悪質なので、慰謝料として500万、計1200万。ここまではご理解頂けますよね?」


「それでも、法外だとは思うが⋯⋯この、別途示談金800万っていうのは⋯⋯?」


「それですか? とりあえずコレの買取費用も含めてます」


 忠之はポケットから、USBメモリーを取り出した。


「それは⋯⋯何だね?」


「鷹司と香苗、2人の不貞の証拠、その元データです。あの後相談して、美沙ちゃんから俺が取り扱いを一任されています。まあ、水野がちょっとバカな事やったみたいですが⋯⋯それはそちらで訴えるなりして下さい」


 祥子は今、SNSが大炎上しているらしく、友人の誰が連絡しても電話に出ないという。

 式場での件を含め、香苗も一言文句を言いたいが、メッセージに既読すら付かない。

 忠之はさらに言葉を続けた。


「今回の犯罪を二人が共謀している動画も含んでます。俺が被害届を出さない、民事裁判でも損害を請求しない、というのもここに含めます」


 犯罪。

 身に覚えの無い単語に、香苗は思わず忠之の顔を注視するが⋯⋯相変わらず彼はこちらを見ようとしなかった。


「犯罪⋯⋯?」


 父が香苗の気持ちを代弁するように聞いた。


「いやぁ、とぼけないでくださいよ梁島のおじさん・・・・・・・、今回のって、立派な──『結婚詐欺』ですよね? 俺の戸籍汚れちゃったんですよ? 取り返しがつかないんです。そこ、わかってます?」


「⋯⋯君からすれば、そう感じるかもしれん、しかし」


「まあ実際に有罪にできるかどうかはわかりませんが、俺は被害届の提出と平行して、民事裁判でも二人の責任を明らかにするつもりです」


「忠之くん⋯⋯」


「釈迦に説法だと思いますが、詐欺罪の成立には相手を騙す、つまり『欺罔ぎもう行為』、事実を誤認させる『錯誤』、『財産の移転』、この三つが必要ですよね? 俺は『体の関係があった』、それによって『妊娠した』と騙され、入籍に伴いその費用や、物件を見るための交通費、出産に向けての病院代、その他もろもろのお金を騙し取られてます。これって詐欺に該当しませんかね? 本来なら俺が払うお金じゃないと思うんですが? 結納金だって、返却したから良いってもんじゃないですよね? 弁済したら詐欺罪じゃないって事もないですよね? そんなのがまかり通るなら、万引き見つかったら『代金払えばいいんだろ』って開き直るのと変わらないじゃないですか」


「それは、そうだが」


「ただ、梁島のおじさんや、龍也さんの警察官というご職業柄を考えると、ご迷惑をお掛けする可能性があるかな、と。良くしていただいたお二人にできるだけ迷惑掛けたくないんですよ。特にまだ若い龍也さんの、これからの出世とかに影響でるような噂が立ったらイヤだなーって。万が一有罪なんて事になったら、香苗や鷹司はどうでも良いんですけど、お二人の事を考えたら⋯⋯ねぇ?」


「忠之くん、我々を脅迫する気か?」


「いやいや、こんなの『俺の感想』って奴です。それとも脅迫行為の現行犯逮捕を匂わせて、俺を黙らせようとしてます? それこそ職権乱用じゃないですか? まあ、これで無罪にでもなったら、警察はヤッパリ身内に甘い、とか、それこそSNSで話題になっちゃうかも知れないですよねぇ」


 父の言葉に、忠之は呆れ顔になった。

 長い付き合いの香苗でも見たことがない、相手を蔑んだ表情──。


「忠之くん! 君はそこまで言うのか!」


「おじさん、大声でこちらを威圧するのはやめて下さいよ、怖いなぁ。もちろんこのやり取り、録音してますよ?」


「そんなの、勝手にすればいいだろう!」


「大体そこまでも何も、犯罪被害者が相手を告訴したり、民事で損害を請求するなんて、再犯防止を考えたらむしろ市民の義務ですよね? 俺は世話になった人に迷惑掛けたくないから、これで折れてやるっつってんですよ?」


 忠之らしくない、乱暴な物言いだ。


「忠之くん、そんな言い方は無いだろう?」


 苦言を呈した父に対して⋯⋯忠之から想像もしていない一言が飛び出した。


「おい、梁島剛毅⋯⋯いい加減改めろ」


 冷たく、低い声だ。

 声だけ聞けば、まるで知らない誰かが発したと言われても信じてしまっただろう。

 それほど、香苗の知る忠之の声とはかけ離れていた。


「なっ⋯⋯」


「お前いつまで、俺を、昔から知る近所の忠之くん扱いしてるんだ? いいか? 俺はギリギリだ。鷹司と、お前の娘がクソみたいな事をしたせいで、バランスを失いかけてるんだ。望むなら、いつでも近所の忠之くんに戻ってやるよ。ただそれは──おまえ等が俺の言い分を全て飲んだ時だ」


 トン、と示談書を指差し、そのまま忠之は黙った。

 父と忠之はそのまま視線を交わしていたが──。


 父は不意に下を向き、絞り出すように言った。


「しかし、この金額は⋯⋯」


「──解りました。今後一切の交渉はしません。そちらが弁護士を立てようが何しようが、もう今後俺との話し合いはできないと思って下さい。俺は俺で粛々とやらせて貰います」


 そう言うと、忠之は書類をしまい始めた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、忠之くん!」


 父の呼びかけを無視し、忠之は立ち上がった。

 そのまま部屋を出ようとする。


 追い掛けるように立ち上がった父は、忠之の袖を掴んで言った。


「わかった、君の言うとおりにする! ただ、この金額をすぐに用意するのは無理だ!」


 しばらく忠之は父の顔をじっと見ていたが、「はぁ」と溜め息をついて言った。


「うーん、じゃあこの家売るか、担保に金借りるか、早期退職して退職金で払うかなり、やり方はお任せしますが早急にお願いしますよ? とりあえず近々公正証書作成しましょう、俺が予約しておきますので、決まったら連絡します」


 忠之は再びテーブルの上に書類を並べた。

 

「じゃあ、今日の所はこちらにサインを」


 それからは、何か現実感が無かった。

 忠之が指定する場所に、香苗と、父が保証人としてサインしていく。


 離婚届にサインするさい、香苗は忠之の顔を見た。

 だが彼は退屈そうに、テーブルに頬杖をついて虚空を眺めていた。


 サインが終わると、忠之はサッサと書類を回収し、立ち上がった。


「じゃあ梁島のおじさん、また連絡します」


 部屋に二人になり、父を見る。

 父はうなだれ、下を向いていた。


「あの、お父さん⋯⋯」


「しばらく放っておいてくれ⋯⋯」


 父は絞り出すように言うと、そのまま下を向き続けた。

 香苗は慌てて立ち上がり、玄関に向かう。


 忠之は靴を履き終え、家を出る所だった。


「忠之!」


 背中に声を掛ける。

 忠之は──首を少しこちらに向けながらも、完全に振り返る事は無かった。


「⋯⋯何?」


 何を言うかなんて考えて無かったが、香苗は声を絞り出す。


「あ、あの私、本当に、ごめ⋯⋯」


「あー、そういうのいい、いい。払うもん払ってくれたら」


 顔の横で手を振りながら、忠之は出て行く。

 謝罪すら受け付けてくれなかった。


 バタンと閉まるドアの音に、香苗は自覚した。



 ──自分はもう、忠之にとって視界に入れる価値も無い女なのだ、と。


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