赤ちゃん筆

 部屋の冷房の風が直接体に当たらないように上へと向ける。

 扇風機をつけていたので、そちらの方は一電源を切る。



「ふぅ……」



 一息つく。

 さっきよりも少しだけ暑く感じる部屋の中。

 物音もしない。


 一旦心を安静にしようと目をつぶる。

 私、落ち着くんだよ。


 集中して。



 字を書くっていうのは、とっても緊張する。

 別にラブレターを書いているわけじゃないけれど。

 世の中一般的には『平日の昼間』。

 そんな時に家で、ラブレターを書くような女の子じゃない。


 というか、学生でいえば夏休みの期間中ってやつなので平日ではない。

 夏休みだからこそ、今これをしている訳で。



 私はすずりの中に筆を入れた。

 何度か往復するように墨をつけて。

 それで筆を少しあげてみる。


 滴らない程度の墨。


 よし。



 書道が夏休みの宿題になっている。

 気合入れて、一回で終わらせちゃおう。



 筆を半紙の上へと動かす。


 一角目。


 斜めに筆を動かす。

 ゆっくりと。

 そして正確に狙った通りの場所へ。

 最後は、少し早めに動かしながら筆をゆっくりと上げていく。


 うんうん。

 良い払いだった。


 次の二角目。

 筆を持ち上げたまま、二角目の始まる場所へと動かす。

 筆は弱めに紙につけて、それで動かして最後に止める。

 力を入れて筆を半紙へと押し付ける。


 と、その瞬間、筆が根元から取れてしまった。



「ええええーーー!」


 思わず声を出してしまった。

 そして、転がった筆の先は半紙を黒く染めていった。


 何でとれちゃうの……。

 うう……。やり直しか。

 というか、筆の先が取れるって。

 これじゃあ、書道できないじゃん……。


 一旦、筆の先と、筆の持つ部分を雑巾の上へとおいた。

 黒く染まってしまった手を洗いながら考えようと、ダイニングへと階段を下りる。


 はぁ……。どうしようかな。

 夏休みも残り少ないっていうのに、筆が壊れちゃうなんて。

 書道の宿題を保留にしちゃうと、遊ぶ気持ちも半減だし……。


 家の中に筆なんてあるかな?

 探してみようかな。



 そんなことを思いついたので、すぐに手を洗い終えると筆を探しにリビングの棚の方へとむかった。

 昔、ここで筆らしきものを見たことあるんだよね。

 私の手の届かないような、高いところの棚に入ってて。

 何だか立派な箱に入れられているやつ。


 あれなら使えそうだよなー。



 高いところに手が届くように椅子を持ってきて棚を開けると、私が見たことある筆が出てきた。


 これだこれだ。

 すごくふさふさで、良い筆だよこれ。

 誰のかは分からないけど、これがあればバッチリ。



 大切にしまわれてる筆。

 これって、なんか高いのかな。


 気になったので、筆の箱の裏側を見てみると、私の名前が書いてあった。

 生年月日も書いてある。

 あと、『誕生』って書いてる。


 なんで私の名前なんて書いてあるだろう?

 そう思って、筆を取り出してみると、メモ用紙と写真が一緒に入っていた。


『これは、しのぶの筆。私に似て、生まれた時から髪の毛ふさふさだったから良い筆が作れた。しのぶが大きくなったら触らせてあげよう。私のお腹の中にいた時から生えていた毛なんだよーって。大事な大事な筆。』


 そんなメモと一緒に、若い頃のお母さんと赤ちゃんが写っていた。

 お母さんは幸せそうに笑ってる。

 抱いている赤ちゃんも、楽しそうに笑っている。


 ……多分これ、私の赤ちゃんの頃の髪の毛で作った筆なんだね。

 これを、大事にしててくれたんだ、お母さん。


 記憶はないけど、私のためにって、作ってくれたんだね。

 そっと筆をしまった。


 私の筆。今度お母さんに直接聞いてみよう。

 筆の毛の部分はやわらかくて、私の大好きな感触だった。

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