毎日小説No.25 掌返し

五月雨前線

1話完結

               

 あの日、俺は間違いなくスーパースターだった。


 4年に1回行われる野球の祭典。各国の猛者が集って激戦を繰り広げ、世界一を決める大舞台。そこで俺は日本のエースとして躍動した。


 ゾーンに入る、とはまさにこのことだった。ピッチャーの投げる球の軌道、守備陣系の隙、そして極限まで研ぎ澄まされた自身の感覚。バットを振ると面白いように球が飛んでいき、俺はヒットやホームランを量産した。結果的に日本は優勝して世界一になったが、俺が一番チームに貢献していたことは明らかだった。


 SNS上で俺は英雄扱いされ、登録名の梨田なしだ蜃気楼しんきろうという単語は一日中トレンド入り。様々なテレビ番組や取材に呼ばれ、俺は地位と名誉、そして莫大な金を手にした。


 最高な気分だった。これで人生の勝ち組になったのだと確信し、プロ入り直後から俺を支えてくれた妻と手を取り合って喜んだ。この調子で次のシーズンもヒーローになってやる。そう意気込み、俺は意気揚々とシーズンへ乗り込んでいった。


 しかし、現実は非常だった。


 77打席連続ノーヒット。


 信じがたい記録を打ち立ててしまった俺は、猛烈なバッシングを受けた。少し前まで皆俺を英雄として崇めていたのに、今や俺はチームを敗北に導く戦犯だ。


 カス。無能。給料泥棒。


 ありとあらゆる罵詈雑言がSNS上にぶちまけられ、俺は絶望に打ちひしがれた。


 確かに、成績を出せない俺が全面的に悪い。しかしそこまで掌返しすることはないじゃないか。


 俺への風当たりは日に日に強まっていき、遂に殺人予告が飛び出すまでに至ってしまった。元々俺はデリケートな一面を持っていたので、ネット上の誹謗中傷は俺の心を深く傷つけた。妻が毎日慰めてくれなければ、俺の心はとっくに折れていただろう。


 妻の支えもあって俺は耐え続け、83打席目で遂にホームランを放ち、なんとそこから10連続ホームランを放った。連続ホームランの世界記録を打ち立ててしまったのである。


 夜から朝に切り替わるように。信号が青から赤に切り替わるように。世間は掌を返した。殺害予告を受けていた男は一転、稀代のホームランバッターとして崇められた。


 結局、俺は連続ホームラン記録を24まで伸ばした。所属するチームはリーグ優勝を果たし、俺は称賛の嵐の中にいた。


 しかし、俺は喜べずにいた。喜びの気持ちは当然あったが、世間への不信感の方が上回っていたのだ。


 これから成績を落とせば、また俺はバッシングを受けるのではないか? 皆世間の流れに便乗して、心にもない称賛の言葉をかけているだけなのではないか?


 世間への恐怖心を感じた俺はSNSの類を一切見なくなった。オフシーズンになっても外出する機会は減り、外出する時もサングラスとマスクで自身の顔を隠した。すぐ掌返しする人々、そして世間から目を背けたかったのだ。


 世間から目を背けたいとはいっても、酒は飲みたくなる。ある日、無性に酒が飲みたくなった俺は駅の近くのバーに足を運んだ。若手の頃からよく先輩に連れて行ってもらっていた行きつけのバーで、店の雰囲気がとても気に入っていた。


「いらっしゃい」


 顔馴染みの女性店員に挨拶し、やや強めの酒を頼んで席に座る。サングラスをつけたまま、運ばれてきた酒を一息で呷った。アルコールが全身に巡り、俺は恍惚のため息を漏らした。


「まぐれに決まってんだろうが!」


 後ろの方の席に座る初老の男性が何かを叫んでいる。テーブルの上のグラスや瓶の数を見るに、かなり酔っ払っているようだ。


「ひっく、梨田にしちゃあ出来過ぎなんだよあんな成績ぃ! 24本連続ホームランなってありえねえだろうがぁ!」


「課長、落ち着いてください。飲み過ぎですよ」


 部下と思わしき人物が男性をそっと嗜めている。自分の名前が出たことで、俺は何気なく会話に耳をそばだててみた。


「日本記録作って調子乗ってんじゃねえよなぁ本当に! どうせ次のシーズンは成績ガタ落ちするに決まってるわ!」


「でも、梨田選手が日本記録を作った時は、課長大喜びだったじゃないですか。Twitterで散々称賛のコメント書いてたくせに」


「うるさい! ひっく、とにかくよう、俺はアイツが調子乗ってることが気に食わねえんだよなぁ! 日本記録作ったら浮気してもいいと思ってるんだよどうせ! 気に食わねえなあ」


 男性の言葉を聞いた瞬間、俺は右の拳を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血管が裂けて出血するほど、強く。


 俺は調子になんか乗っていない。そして浮気なんてしていない。


 それなのに。


 SNS上では、そういった事実誤認の噂が一人歩きしていた。結果を出した成功者への妬みの感情の現れだろう、と今までは無視していた。しかし、近くで改めて声に出されると、その偽りの発言は俺の心を強く刺激した。


 適当なことばっか言いやがって。すぐ掌返ししやがって。


 また俺が良い成績を出したら、過去に俺の悪口を言っていたことなんてすっかり忘れて、さも「俺は梨田の味方だ、ずっと応援してきた」みたいな顔で称賛の言葉を口にするのだろう。


 反吐が出る。お前達に俺の何が分かるんだ? どうせすぐ掌返しをするなら、最初から何も言うんじゃねえよ。


 今までずっと我慢してきた怒りの感情が溢れ出し、もう爆発寸前だった。


「課長、そろそろ帰りましょう」


「うう……しょうがねえなぁ」


 男性は部下に連れられて店を出て行った。男性を尾行するかのように俺も店を後にし、たどたどしい足取りの男性をそっと尾行した。


 何故尾行するのか、自分でもよく分からなかった。ただ怒りの感情に突き動かされるまま、俺は夜の闇に隠れながら男性を尾行した。


 しばらく歩いたところで部下は男性と別れ、駅の方向へと歩いて行った。男性はふらつきながら裏路地へ入っていく。周りに人の気配が無いことを確認し、俺は男性に急接近して行った。たまたまポケットに入っていたゴム手袋を装着し、足元に落ちていた黒色のビニール袋を拾い上げてそれを男性の顔に被せた。


「もがっ!? な、な、何だ!?」


 男性は顔を包むビニール袋を振り払おうとしたが、俺が袋の口をきつく縛ったこと、そして男性自身がかなり酔っていることもあって、なかなか上手くいかないようだ。俺は男性との距離を詰め、顔に回し蹴りを叩き込んだ。


「ぎゃああっ!!」


 蹴りをもろに喰らった男性は悲鳴をあげ、地面にうずくまった。今まで俺に誹謗中傷の言葉を向けた全ての人間に蹴りを入れたような感覚がして、俺は高揚感に包まれた。


 再度蹴りを入れようとし、そこで男性の手首が目に入った。高級そうな時計が巻き付いた、皺が目立つ手首。


 手首の先にあるのは手、そして掌だ。男性の掌と、掌返しという言葉が交錯し、そして重なった。


 掌返しをされたくないなら、俺が表舞台から姿を消すか、俺が全人類を殺すか、もしくは……。


 掌を、手を、切り落とせばいい。


 返す掌が無ければ、掌返しをしたくても出来ないだろう。


 あらゆる理屈を超越したその悪魔的思考は、俺の脳内でどんどん広がっていき、やがて俺を支配した。護身用に所持していたナイフを取り出し、突き動かされるように男性の手首に突き立てた。耳元で放たれる男性の絶叫を無視しながら、俺はナイフを何度も突き立て、男性の手首を切断した。


 プロ野球選手デビューを果たした瞬間以来の、恍惚と快感、そして嬉しさが押し寄せてきた。今まで俺を苦しめ続けた「掌返し」という現象に打ち勝ったような感覚に酔いしれた。


 俺は絶叫する男性にもう一度蹴りを入れ、全力でその場から逃げ出した。犯罪を犯したという罪の意識や、警察に捕まるかもしれないという恐怖は、何故か微塵も感じなかった。


***

 それ以来、俺は人の手首を切断することに快楽を見出すシリアルキラーになった。最初は俺の悪口を言う人限定で襲っていたが、やがて見境なく人に襲いかかるようになった。


 オフシーズン中に襲った人の数は17人。メディアは『正体不明のシリアルキラー』『手首の切断にこだわる異常者』として大々的にこの事実を報じた。


 自身の犯行が世間に周知され、俺は喜びを感じていた。何故なら、掌返しの心配が微塵も無いからだ。俺の犯行の情報を知った人々は、ただただ純粋な恐怖の感情のみを抱く。掌を返すという選択肢を奪えたことに、俺はこの上ない喜びを感じていたのである。


 やがて次のシーズンが始まり、俺はシリアルキラーから野球選手へと変貌を遂げた。


 前のシーズンに偉大な記録を打ち立てた俺に対する世間の期待はとても高く、俺が試合で凡退するたびにSNS上は俺の悪口で溢れかえった。シーズン中は忙しいから、オフシーズンのように手首を切断して快楽に浸ることも出来ない。肉体的にも精神的にも、俺は追い詰められていった。


 そんな俺を支えてくれたのは、妻の裏山うらやま恵子けいこだった。プロデビュー後すぐに結婚した恵子は、どんな時でも俺を支え続けてくれた。これまでプロ野球の世界で生き残ってこれたのは、恵子の支えがあったからだといっても過言ではない。俺には支えてくれる妻がいるんだ、と事あるごとに自分に言い聞かせ、俺はシーズンを戦い続けた。


 シーズンも終盤にさしかかった頃、俺は試合にスタメンで出場して打席に立った。優勝争いを繰り広げているチームとの直接対決。しかも1―1の同点、6回裏ツーアウト満塁の局面ということもあって、いやがおうにも気合いが入る。地鳴りのような歓声を全身に浴びながら、俺は愛用のバットを手にバッターボックスに立った。


 対するは相手チームのエースピッチャーだが、エースだからといって怖気付くことは何もない。どんなボールにでも食らいついて、絶対に追加点を入れてやる。俺は全神経を研ぎ澄ませながら、そっとバットを構えた。


 ピッチャーが大きく振りかぶり、長い腕をしならせて勢いよく白球を放った。



 うなりを上げながら迫り来る白球はキャッチャーミットに収まることはなく、俺の側頭部にクリーンヒットした。


 衝撃。そして、強烈な痛みが全身を駆け巡った。



 ……狙いやがったな、この野郎……。


 そう言い返す前に俺の意識は深く沈み、全身から力が抜けていった。


***

「うう……」


 目を覚ました俺は、照明の眩しさに驚いて即座に目を瞑った。側頭部が割れるように痛い。呻き声を上げながら、ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。目が光に慣れたところで、俺の記憶は試合のバッターボックスに遡った。


「はっ! し、試合は!? デッドボールは!?」


「そんなこと気にする必要ないわ」


「!?」


 聞き覚えのある声だ。俺は声の主の方へ体を向けようとした。しかし体が思うように動かない。そこで俺はようやく、自分が大の字で台の上に縛り付けられていることに気付いた。


「け、恵子! 恵子っ!! そこにいるんだろ!? これは一体どういう状況なんだ! 早くこの縄をほどいてくれ!」


「嫌よ。犯罪者の言うことを聞く道理はないわ」


「!!!」


 犯罪者。恵子は今確かにそう言った。


 そんな、まさか。恵子は俺の犯行を知っていたということか? 絶対バレないように行動していたはずなのに……。いや、そもそもいつから気付いていたんだ?


「訳が分からない、って顔をしているわね。貴方が罪もない人々の手首を切り落としてること、私が気付かないとでも思ってたのかしら?」


「ま、待ってくれ恵子! 説明させてくれ!」


「もう無駄よ。貴方はこれから死ぬんだから」


 どうぞ、という恵子の声と同時に、別の足音が近づいてきた。現れた男は俺の顔を覗き込み、憎しみに満ちた表情を浮かべている。その顔を見て俺は叫んだ。そこには、意識を失う直前の試合で対峙していたピッチャーが佇んでいたのである。


「お、お前はっ!!!」


大村おおむらゆたか。群馬ブレイブシャークスのエースピッチャーであり、貴方が手首を切り落とした大村 かえでさんの夫。……こう言えば、貴方がこれからどうなるか分かるわよね?」


「っ……!!」


「…………よくも、楓の手首を切断してくれたな」


 大村の目からはとめどなく涙が溢れ出している。


「あれだけ明るかった楓が、今では家の中で引き篭もるようになってしまった。楓の……俺達の人生をめちゃくちゃにしやがって!! お前だけは絶対に許さない!!」


「まあ、つまりはそういうことね。それにしても皮肉なものよねぇ。貴方があれほど嫌っていた『掌返し』を、最後は愛しの妻にやられて人生が終了するんだから。まあ、私数年前から浮気してたから、アンタが死のうが生きようがどうでもいいんだけどねぇ」


 言葉を失う俺の前で恵子はケースからバッドを取り出し、それを大村に手渡した。


「貴方のバットよ。自分の商売道具で撲殺されるなら本望でしょ? じゃあ、あとはよろしくね。グロいシーンは苦手なのよ」


 恵子は不適な笑みを浮かべて、部屋から去って行った。


「楓、君の仇は僕が打つから」


 大村は目を瞑りながら言った。そして目を大きく見開くと、思い切りバットを振り上げた。鍛え上げられた腕で振り下ろされたバットはぐんぐん加速し、俺の掌にクリーンヒットした。


 俺の絶叫が真っ白な室内に響き渡った。


                           完

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