エンゼルフィッシュはウツボカズラの夢を見る

日谷津鶴

エンゼルフィッシュはウツボカズラの夢を見る

 学生には贅沢な住まい、と言われればそうかもしれない。そう思いながら私は伯母からただで住まわせて貰っている十五階建てのマンションを見上げる。


 建ったばかりの頃は白かった壁も四十年の年月に晒され、町の風塵を吸い上げた雲から落ちた雨でくすんでいる。当時は洒落ていた筈の蔦の装飾や青いタイルを散りばめた装飾も細かなヒビや汚れ、黴のような苔が纏わりついていた。


 使われている集合ポストはごく僅かでどうせ今日も空であろうポストに背伸びして手を突っ込む。向こう側から誰かが握り返してくれないだろうか、と形のない不安を弄ぶ。


 エレベーターの床に敷かれたビロードの絨毯は住人たちに毎日踏みしめらたせいでいつの間にか血だまりのように赤黒く変色していた。


 象牙色に変色した15階の丸ボタンのスイッチをぐい、と押し込む。3階のボタンだけ皹が入って割れている。


 きっと潔癖症な人がボタンに指を触れるのを嫌って鍵か何かを押し付けて壊したのだろうと決めつけているうちにエレベーターは上昇し続ける。


 この瞬間に草臥れたワイヤーロープが音を上げて切れてしまえば篭ごと真っ逆さまに落ちていく。思い切り投げつけてデタラメに弾むスーパーボールのように死ぬ自分を想像して少しぞっとできた。


 伯母から渡された鍵に付いた温泉地のストラップのついた鍵を錆びた鍵穴に入れて回す。


 真っ暗な部屋の中央に青白いライトが点って微かな水音だけが聞こえる。そこにある90センチの水槽。450リットルの水瓶。


 電気のスイッチに手を掛けたが止めてそのまま大きなアクリル水槽の前で寝転べば泳ぎ回る魚たちの影が飛び回り、羽虫のようにちらつく。


 アマゾン川からアジアの湖沼まで野生では決して顔を合わせることのない熱帯魚が一緒くたになった水槽。同じ水温、華美な体。二つの共通項で選ばれるアクアリウムフィッシュ。


 トートバッグから大学の図書館から借りた熱帯魚図鑑を取り出す。うるさい位元気なのはゼブラダニオ。


 気が強い菱形の魚はエンゼルフィッシュ。家賃の代わりに伯母に頼まれたのは留守中の水槽の世話だった。


「調べてやってごらんなさい。あなたはきっと好きになるわ。」


 複雑なフィルターの前でたじろぐ私の前で伯母はそう言って餌を撒く。


 入り組んだ流木や水草の茂みの中から隠れていた魚たちも一斉に現れて競うように舞うフレークを掠め取る。東欧に行った伯母は今どこで何をしているのだろうか。


 群れからはぐれてはいけない。生物の不文律から人間だけが逃れられる筈も無い。それなのに私は気づいたら大学で一人になっていた。


 同じ高校から進んだ数少ない知人たちは男の子も女の子も華々しく変わってしまって見分けすらつかない。


 辛うじて入った映像研究サークルの新人歓迎会で色水のようなカクテルを勧められてトイレで嘔吐した。


 産まれて初めて飲む、強いのか弱いのかも分からないアルコールに体がにわかに拒否反応を示す。


 ガンガン鳴るサンプル音源の洪水に喚き散らすようなボーカルが頭痛に追い討ちを掛けて背中をさすってくれていていた誰かの手もいつのまにか消えていた。


 教養で取った数学の講義を後悔しながら受ける。消え入りそうな声で数直線の前で講釈する教授と後ろでくすくす笑う学生に挟まれるように講義を受ける。


 こぼれ落ちた微積分に何人の新入生をモノにしたかという勝ち誇ったセリフが混じり合う。


 XもYも染色体に化けて誰にも借りれないレポートを必死に仕上げたせいで眠い。うとうとと薄ぼやけた霞のような夢と黒板の境界が滲んで教授の咳払いで私は不興を買っていた。


 ただ広いだけのキャンパスの講義室を行ったり来たりしてノートに教授の人生観のような板書を綴って不意打ちの質問に真面目に答えて知らない人たちに笑われた。


 良くわからないままドイツ語の文を高校の時に使いきれなかった家庭科のノートの続きに写していて気づくと夕方になっている。


 去年の今頃は確か何をしていただろうか。確か引退に向けて部活動の書道をやっていた。

 膝に墨が落ちて字は上達しないままだけど確かに楽しかった。ちぐはぐの私が何も恐がらずに誰かと笑い合えた温かい場所。


 大学の図書館は新設されたぴかぴかの建物から取り残されたような古い造りでキャンパスの隅にひっそりと建っていた。


 煉瓦の壁にツタが張って観音開きの窓枠を縁取り、地面には白詰草が葉を繁らせる。ああ、もう5月なんだと気付いて図書館の門を潜る。


 スチールの本棚に整然と並んだ背表紙を眺める。どんな本を読むかはいつだって気分次第なのが私と図書館の一番古い約束だ。


 聖母子像の本にプディングの作り方、そして最後に熱帯魚の図鑑を手に取る。窓から夕日が差してふわふわと漂う埃を見るたびに深海に降り積もるマリンスノーはこういうものなのだろうかと考える。


 降り積もった微生物の柔らかな死骸の上で寝そべって褪めた空気で肺を満たしてそのまま朽ちて地層の中に畳み込まれても文句は無い。


 歴代の司書たちに撫でられて艶やかに光る木製のカウンターに本を差し出すと彼はバーコードを機械で読み込む。その間彼のべたついた肩に落ちそうな髪をつい眺めてしまう。


「はい、5月19日まで」


 大学図書館の貸し出し期限は厳しく破ればペナルティーとして1ヶ月も出禁になると聞いたときは驚いた。同じルールが地元の公立図書館にあったならば私は永久追放だろう。


 カウンターの上に置いてある鉢から下がったウツボカズラは今日は羽虫にありつけたのだろうか。


 時計の砂が落ちていく。この部屋には時計すら無い。カリカリと音を立てて彼女がノートに書く几帳面な文字を私はただ見守っていた。


「先生、できたよ。」


 どれどれ、と私はドリルの答案と合わせて丸をつける。彼女は私が家庭教師として教えるたった一人の生徒だ。


 丸が続く。私の教えなど必要ないほど彼女が賢いことに私は安心している。


「全問正解。すごいね、霞ちゃん。」


 彼女の前では先生という役がはっきりしているせいか話しやすい。


「だって勉強しないと高校行けないもん。」

「行けるよ。模試の成績もばっちりじゃない。」

「…だってあたし内申無いもん。私立ならどっか入れるかもしれないけどさ。」


 彼女はティーカップに口を付けて熱い、と舌を引っ込める。彼女は小学6年生の冬以来一度も学校に行っていないと聞いている。


「あ、30分経ったよ。休もうよ。」


砂時計を見て彼女はのびをする。


「ねえ、大学って楽しい?」

「楽しいよ。」

「あたしも先生の行ってる大学に行きたいんだ。そうすれば皆のこと見返せるもん。」

 

 きっとできるよ、まだ二年生なんだからと答える。私にできることは彼女が抱く未来の希望を壊さないことだけだ。


 家に帰る。何も食べたくない。きまぐれに冷凍したままのご飯を齧る。悪くはない。


 静かな水槽を見上げる。1メートルのアクリルの立方体の中の閉じた世界。親指ほどの大きさの小さなナマズたちが砂を丹念に掘り返し続ける。


 熱帯魚図鑑を広げる。コリドラス、ナマズの仲間で水槽の掃除屋。


「あんたたち掃除屋なんだ。」


 呟いても答えは返ってこない。それが魚の好きなところだ。もし伯母が託したのが大きな鸚鵡で彼女が口ずさむ20年前のアイドルソングを壊れたスピーカーのように歌い続けたならば私はノイローゼになれたのに。


 夢を見た。建物が立ち並ぶ大学のキャンパス。美術学部の学生が作った彫刻が転がる芝生に私は立っている。


 辺りを見渡す。空はよく晴れているのに誰も居ない。雲がゆっくり流れる。小池の水が太陽光を反射してきらきら光る。鳥も居なければ魚や虫すら居ない。生き物の居ない、どこまでも続く荒涼な美しく枯れ果てた世界。


 目を覚ます。びっしょりと汗をかいていた。窓を開ける。夢の世界と同じで外もよく晴れている。もうこの布団は厚い。だからうなされるような夢を見たんだ。遥か下には車が行き交っている。


 背後でガタガタと異音がする。リビングに向かうと水槽のポンプがけたたましい音を立てて唸っていた。急いで電源を引き抜く。静かになる。流れの止まった水槽で魚たちは普段と変わらない様子で泳いでいた。


 ろ過装置が止まればやがて水は腐り魚は死に絶える。本に書いてあった文句を思い出す。


「…ホームセンターなら売ってるかな。」


 水槽の上に設置する大きな黒いポンプ。伯母さんに電話を掛ける。けれど繋がらない。


 日曜日のホームセンターの駐車場には車が止まり、それなりに賑わっていた。


 庇のある入り口のエリアではポットに入った色とりどりの花々が売られていた。


 値引きのシールが張られた育ちすぎた観葉植物。グリーンのプラスチックに充填された栄養剤。玉砂利の袋。コンクリート。


 真っ直ぐ歩いて店に入る。広すぎてよく分からない。店の奥の壁に水族館で見るような海水魚のパネルが貼ってある。ペットコーナーは壁際だ。


 ホースに蛇口、シリコンに漬け物石。なんだってあるんだからきっと魚のろ過装置の一つや二つ置いてあってもおかしくない。


 ペットコーナーに着いてなんとなく水槽を眺めて唖然とした。家に要る熱帯魚と比べて元気が無い。いいや、殆ど死体と行ってもいい。


 白いボツボツに覆われたエンゼルフィッシュ。尾鰭がボロボロの琉金。底で枯れ葉のように揺れるグッピーの亡骸は仲間にほじくられて目玉が無い。踵を返してフィルターを探す。確か叔母さんの水槽は90センチだ。


 全く同じでは無いが似たようなものは手に入った。甲高い犬の鳴き声。転がる兎の糞。賞味期限切れの餌。犬をねだる甘ったるい声。


 足早くレジに向かった。伯母さんの家を出たらもう二度と生き物なんて飼わない。


 レジで一万円札を出す。どうにか足りたことに安心する。


「あれ、君。図書館によく来る子だよね?」


 不意に声を掛けられて制服のエプロンを着た店員をよく見ると大学の司書だった。


「司書さん?」

「ああ、僕は3年生。あっちもこっちもアルバイトだよ。」


そう言いながら彼はレジを打つ。


「やっぱり魚、飼ってるんだ。」

「どうして分かるんですか?」

「いつも本、借りてたから。はい。お釣の20円。」

 

 手に小銭を握らされる。久々に誰かと話したような気になった。


 ポンプを取り付ける頃にはすっかり日が暮れて時計は7時を回っていた。


 見慣れない説明書を睨んで水槽をかき回してパイプを繋いだり外したり、床に水が漏れたりを繰り返してようやく水が回り出す。

 

 落ち着かない環境に怯えて水草や岩影に隠れていた魚たちがそろそろと姿を現す。


「おやすみ。」


 返事は無い。そういえば昼も夜も食べていない。けれど疲れが体にべったりと張り付いていてそのまま換えるのを忘れた厚手の布団にくるまった。


 前期の講義ももうすぐ半分だ。退屈な90分。ノートを埋める。心理学の教授の声は小さい。パブロフの犬。条件反射。そうだ。水槽に近づくと口をパクパクさせる魚。脳をいじくられたラット。結論ありきの嘘だらけの実験。


 山奥で見つかった狼少女は教育されて三歳程度の言葉を喋れるようになった。寓話的内容。彼女を仲間から引き離して自分たちの使っている言葉を教えた宣教師を私は好きになれない。


 後ろから肩を叩かれて振り向く。

数名の男子学生がにやにや笑う。


「なんでもありませーん」


 おい、バッカじゃねえの。やめろよ。ウケる。やめなよ、とクスクス笑う女子の声。


 はぐれ者がつつかれるという自然界の掟。鰯の群れのリスキーな外側を回り続けて4年間、いや人生はどうやって過ぎていくのだろうか。


 図書館に向かうのもどこか億劫になっていた。短い会話した途端に話せなくなる。役者でもないのに役が剥がれることを恐れて。


 本の貸出票の期限日を見る。今日だった。貸出禁止になるのは痛い。傘を握りしめて急いで図書館に向かう。


 雨の雫を払って傘立てに突き立てる。雨の日の図書館はがらんとしていて人の気配が無い。カウンターにも誰も居ない。置いてある呼び鈴を鳴らす。


「はーい、今行きます…」


 本棚の影からあの人が現れる。その腕に抱かれるウツボカズラの鉢植え。


「なんでこれを?」


「ああ。これ。ここは暖かいから置かせて貰ってるんだ。僕は理学部でゼミの教授がこいつの研究をしてるんだ。」

「…本当に虫を食べるんですか?」

「虫どころか1日1回、全部の袋にマウスの死骸を落としてる。」

まさか、食虫植物はそれほど貪欲なのか、と驚く。

「手間が掛かるんですね。」


私がそう答えると彼はぷ、と吹き出す。


「ごめんごめん、冗談だよ。虫はたまに食べてるんじゃないかな。匂いに吸い寄せられて落ちてくれば、の話だけど。」


「そうなんですか。」


「そう。本、返すの?」


 手際良くバーコードをスキャンする。名札を盗み見ると植村、と書いてあった。鉢植え、植村。覚えやすい。


「どんな魚飼ってるの?」

「私のじゃないんです。伯母さんが海外に行っている間代わりに。エンゼルフィッシュとかゼブラダニオとか。」

「へえ。大きさはどの位?」

「この位」


 手の幅をどら焼位に広げる。エンゼルフィッシュならこれ位だ。


「そっか。水槽は大きいの?」


 水槽の大きさを聞いていたのか、と途端に恥ずかしくなる。


「90cmです。」

「大きいね。僕のアパートなら床が抜けるよ。」

「詳しいんですね。」

「飼おうと思ってたことあってさ。止めたけど。」

「どうして?」

「面倒だから。」

「確かに面倒です。」


「そういえば学部はどこ?」

「文学部。」

「へえ、らしいや。」

「そうですか?」

「文学少女って感じがする。」


 砂時計をひっくり返すのが30分経った合図だ。


「先生、最近楽しいことあった?」

三平方の定理の数式の上に霞ちゃんは腕を乗せる。


「普通だよ。」

「そう?」


 丸くなった消しゴム。彼女はゴミ箱の上でナイフを動かして鉛筆を削る。黒鉛の粉が落ちてゆく。


 初めて見たときは驚いたが鉛筆削りの音がどうしてもダメらしい。何を使おうが尖った鉛筆が揃うなら構わないと霞ちゃんの器用な手が証明する。


「楽しそうだよ。」

「どうして?」

「…うーん。何か目がきらきらしてるから。」


 彼女はそう言って照れ隠しをするように黒鉛を吹き上げた。


 水槽の前に座って魚たちの小さな目を観察する。死んだ魚の目、と言うがよく分からない。

 スーパーでパック詰めされたアジの目も、角膜に覆われてきらきらはしている。餌を撒く。たちまち集まってくる。


 よくよく見ていると魚たちにも力関係はある。一際体の小さいエンゼルフィッシュが居て私はその個体をマーチンと呼んでいた。

 

 一番気が強いエンゼルに追いかけられるとマーチンは水草の影に隠れてやり過ごす。


 けれどマーチンも時折自分より小さいゼブラダニオを追い回したりコリドラスにちょっかいを掛ける。虐げられた者の憂さ晴らしなのだろうか。


 新しいポンプは今のところ問題なく動いている。水を換えるのも慣れてきた。ウツボカズラはどうやって育てるのだろう。本を読めば分かるのか。結局カウンターで捕まってしまうような予感がする。間抜けな羽虫のように。



 

「植え替えが必要だったりで他の観葉植物と比べるとちょっと手間は掛かるけど後はこうやって霧吹きで水やる位だよ。」


 植村さんはそう言ってピンクのクリアカラーの霧吹きを指にかける。銃にどこか似たスプレー容器に詰められた水道水。その中にネズミの死骸は居ない。


「一つ、貰っていく?」

「いいんですか?」


「株分けで増やせるし。それに研究用とは言っても教授の趣味みたいなもんだからさ。おかしいんだよあの人。間引きを嫌がる園芸初心者みたいにこうやって鉢を増やしてしまうんだから。知り合いや学生にもあげようとするけどウツボカズラはあまり人気が無いみたいだ。」


「じゃ、じゃあお言葉に甘えて…」

「この鉢なんかどう?」


 植村さんは窓際に置いてある小さな鉢を指差す。


「あ、間違っても死んだ小魚を袋に入れないようにね。消化不良で捕虫袋がこう、おえって感じでゲロを吐くんだ。」

「…嘘ばっかり。」

あはは、と植村さんは笑って頭を掻く。


「じゃあ家まで持っていくよ。重いから。」

「悪いですよ。自分で持っていけます。水換えの時にバケツ運んでたら力ちょっと力がついたんです。」


 私がそう断るとカウンターに本を持ってきた大柄の男子学生がにやり、と笑って植村さんを見やる。


「植村、お前食虫植物でナンパしてるのかよ。」

「違うって。お前じゃないんだからさ。」

「あれはフラれたからノーカンなんだよ。んじゃな。そろそろ童貞卒業がんばれよ~」

「はいはい。ほら、貸出完了」


 先輩らしき学生は手をひらひらさせて植村さんをからかって帰っていく。


「あの人は?」

「ああ。同じゼミの奴。森本って言うんだ。下品だけど悪い奴じゃないから。」

「羨ましいです。私はいつも一人だから。」

「もしかしたらって思ってたけどそうなんだ。俺もさ、教養課程の間はあんまり友達も居なくて一人だった。だけど専門課程入ってゼミやら卒論やらになって何だかんだ仲間はできるよ。だからさ、大丈夫だよ。きっと。」


 鉢を抱えた植村さんと歩く。心がざわついて落ち着かないのは夕暮れだからか。信号機の前で立ち止まる。


「ねえ、それ食虫植物、でしょ。」

黒のランドセルを背負った男の子が垂れ下がった捕虫袋を指差す。

「そうだよ。おっと、指を入れちゃいけないよ。先っちょが溶けてちゃうからね。」

「うっそだあ」

 男の子はそう言って友達の群れに戻っていく。信号が青に変わる。


 蛍光色のジャケットを着て交通安全ボランティアの腕章を着けたおじいさんが旗を手に子供たちを誘導する。


「はいさようなら、さようなら。」

 

 規則的な足踏み。駆け出す子供たち。氾濫する正しさ。好きになれないものだらけの世界。


「ここに住んでるの?」


 マンションを見上げて植村さんが唖然とする。


「伯母が貸してくれたんです。熱帯魚の世話と引き換えに。」


 誰かに尋ねられた時は弁解するようにそう答えていた。これは私のモノでも何でもない。


 エンタランスに向かうとエレベーターに貼り紙がしてあった。


「故障につき点検中」


 頭を下げる作業員のイラスト。


「ははは、こりゃ大変だね。」

植村さんはそう言って苦笑いを浮かべた。


「よっこいしょ。」


 外階段を上がる。代わります、と何度頼んでもいいから、と植村さんは断ってしまう。


「いいよ。これでも力はある方だから。」


 ヒョロヒョロの痩せた腕。骨張った手のひら。抱かれるテラコッタの鉢。なんだか羨ましい。


「いい眺めだ。」


 外階段がこんなに眺めが良いとは知らなかった。遠くに霞む山稜。マスタバのように並ぶアパートの棟。何もかもが遠い。


「じゃ、これで。可愛がってやって。分からないことがあったらいつでも聞いてよ。」


 ドアの前に鉢を置いて、植村さんはそそくさと帰ろうとする。


「待って!」


咄嗟に声を上げる。


「水槽。見ていって下さい。上手く写真が取れないので。」


 水槽の外の見物人が1人増えた所で魚は動じることは無い。ゼブラダニオは飛びださん勢いで泳ぎ周り、エンゼルフィッシュは悠々と漂う。


 まるで自分の愛らしい姿に自信が持てないかのようのそそくさと隠れるコリドラス。


 グロテスクな柔らかな身をガラスに張り付けるアップルスネール。


「すごいね。思ってたよりずっと本格的だ。魚たちも元気そうだ。それに水草も状態がいい。アヌビアスも花を咲かせてる。」


 先輩が指差した先で流木に絡み付いて葉を広げていた水草が白い花をつけていた。


「どれも陰性水草だ。成長は遅いけれどトリミングに追われることは無さそうだね。」

「詳しいんですね。」

「魚の方は分からないけど水草も植物だからね。」


植村さんはははは、と笑う。


「君たちは幸せだなあ。勉強熱心な飼育員に面倒をみてもらえて。」


 植村さんが水槽にそっと指を置く。すかさずやってきたマーチンがガラス越しにつんつん、とつつく。「そんなことないよ、こいつは思ったよりズボラなんだ」と告げ口するように。


 植村さんが帰ってまた一人になる。窓際に残されたウツボカズラの鉢。


「よろしく。」


 声を掛ける。返事は無い。無口であることがこの部屋の住民の暗黙のルール。カーテンを閉める。床に寝転ぶ。


 クロスの継ぎ目が目立つ天井。蛍光灯の明かりが消えたら日曜日にホームセンターに行けばいい。


 均衡を保っていた水槽でマーチンの尾鰭が欠けていた。驚いてよく観察する。齧られた跡。借りた本を開く。


 まずは傷口から黴菌が入って腐らないようにマーチンを隔離した方が良いらしい。人間も魚も怪我をしている時は誰にも邪魔されずに骨を休めるらしい。


 弱ったマーチンを掬うのは思ったより簡単でそれが余計に不安だった。不器用な私の手から逃れる元気も無いのならば重症だ。


 網は魚の体を痛めるので水ごと掬うことにした。フィルターのパイプの後ろに隠れているマーチンに透明なプラケースを向ける。


「おいで。ここじゃ疲れるでしょう。」


 言葉が分かる筈は無い。管理不行き届きの自己弁護。それなのにマーチンは自分からプラケースに入ってきた。タクシーに乗り込む入院患者のように。


 予備の水槽にマーチンを隔離して1週間が立つ。元気を無くしていくんじゃないかと心配していたがマーチンは一人の方がせいせいすると言わんばかりに餌をねだる。隔離中はしばらく断食と言う本の文句を守る。


 ヒーターの温度を高めにしてフィルターを回す。珍しく伯母に電話が繋がった。


「それでね。一匹のエンゼルがケガしたの。」

「へえ。で、どうしたの?」

「隔離した。予備の水槽で。」

「いい選択よ。」

「薬とか無い?塩浴は?」


 私はそう尋ねる。きっと伯母ならば効果覿面の治療方法を教えてくれる筈だ。


「隔離して様子を見るのが一番だわ。薬を使うと弱ってしまうから。好きなようにやってみなさい。失敗したって怒ったりしないから。そうだ。もうすぐ誕生日よね。何か欲しいものはある?こっちで手に入るか分からないけど。」


 私の誕生日を覚えている人が居ることが何だか嬉しい。


「鉢。」

「鉢って植木鉢?」

「うん。外国の、面白いやつ。」


 伯母さんは受話器の向こうで笑っていいわよ、と答えた。


「台風接近のため午後の講義は全て休講」


 グリーンの掲示板に貼り出された一方的な知らせ。


「んだよ、だったら初めっから休校にしろよ。」

「うそ、電車止まってるんだけど。」

「俺ん家泊まりに来る?」

「マジあり得ない。」

「冗談だよ。遥の家にでも止めてもらえよ。汚部屋らしいけど。」


 ちょっとしたパニックに背を向けた時に声を掛けられる。


「三橋さん、三橋さんじゃない?」

茶色に染めた髪に綺麗な化粧。誰だろう、と一瞬分からなかった。


「柏村さん。」


 疎遠になっていた高校の同級生。1年前はそこそこ会話をしていた。大学に入ってそれっきりだった。


「三橋さんお願い!」

彼女はいきなり手を合わせる。

「電車止まって帰れないの!悪いけど泊めてくれない?」


 お願い、と頼まれる。周囲には人。ぽつりと落ちる雨の雫。


「分かった。来て。」

「やったあ、ありがとう!!持つべきものはやっぱり友達だよね!」


 手を握られる。綺麗な手。甘ったるい匂い。友達、という呪文。


「マジでここ、三橋さんの家?」

「広い、チョー豪邸じゃん。億ションって奴?」

「ちょっと、泊めてもらうんだから静かにしてよね。」

「ピザ頼んだら来るかなあ。台風でも」

「ごめんね、俺も私もって先輩たちが聞かなくて…本当にゴメン。」


 てっきり柏村さんだけだと思っていたのに知らない男女が6人もついてきた。断りきれなかった、というのは彼女の顔を見れば分かった。


「いいよ。」


 我慢するのは一晩だけだ。どうにかやり過ごせるだろう。


「ねえ、三橋さんの下の名前って何て言うの?」


知らない綺麗な女の人にそう訊かれる。


「二葉です。」

「へー。じゃあふたばちゃんって呼んでいい?私はアツコでいいよ。」


 次々と自己紹介される。ワタル、アユム、タクヤ、レイコ、アヤカ。覚えきれない下の名前の羅列。


 水槽の前に出来た人だかりには流石のエンゼルたちも驚いて水草の後ろに隠れる。


「すげー、水族館じゃん。」

ごてごてした指輪を嵌めた指がガラスをノックしてコリドラスたちは逃げ出す。

「ねえやめてよ、魚かわいそうじゃん。」

「俺の家の金魚は水槽叩くと寄ってくるんだよ。パブロフの犬って奴。」


「驚いてしまうのでやめて下さい。」

圧し殺した声でそう伝える。

「さーせんでした」

「ごめんね、フタバちゃん。」

「1年に怒られてんのウケる。」


 キッチンで水を飲んでいると柏村さんが現れる。

「サークルの友達?」


「うん。テニスサークルなんだけどよかったら二葉ちゃんもどう?楽しいよ。過去問も貰えるから試験も楽だし。コンパもあってね。この間は…」


 数ヶ月で垢抜けた彼女。知らない単語。初めての恋人。延々と続くエピソード。渇いたままの喉。


「悪いけど食事は買ってきてもらっていい?冷蔵庫、何もないんだ。」

「もちろんだよ。これからコンビニに買い出し行ってくる。三橋さんは食べたい物ある?」

「ううん。大丈夫。食欲無いんだ。生理だから。」

咄嗟の嘘が口から飛び出す。

「そうなんだ。あたしは生理中はお腹減ってもう凄いから羨ましいや。」


 びしょ濡れの配達員のおじさんからピザを受けとる。家主だから、という理由で鍵を開ける役目を押し付けられる。


「まいどありがとうございます。」


 仕事だから慣れた様子で淡々と処理するおじさん。背後の忍び笑い。


「雨の中すみませんでした。」


一銭にもならない自己弁護のような社交辞令が口から漏れる。


「いえ、またの利用をお待ちしております。」


 開けられるピザの箱。並べられる発泡酒。私が滅多に座らない伯母さんのソファに誰かが座る。


「デリバリーとか絶対やりたくねえよな。こんな日に呼び出しとかマジ勘弁」

「バイトでもキツイわ。あー、受験勉強頑張って正解正解。」

「ほら、二葉ちゃんも食べて食べて。」


 一欠片口にする。ぎとぎとした油。べったりとしたチーズ。塩辛いサラミ。


「ねえ、二葉ちゃんって彼氏いるの?」

ガールズトークしよ、と引き込まれる。女であることが唯一の参加資格の雑談。唐突に催される詰問。


「いないよ。」

「え~、居そうなのに。高校の時は?」

「無かったです。」

「えー、あそこのワタルとかどう?彼女募集中らしいよ。」


 返答に困っているとすっかり酔っ払ったワタルがふざけて踊り出す。


「俺はいっつもウェルカムだぜ~あはははは~二葉ちゃんと付き合ったら逆タマって奴?」

「…私のじゃないです。ここ。伯母さんの部屋だから。」

「じゃあそのリッチな伯母さんと付き合っちゃおうかなぁ~」


 夫を失くした伯母さん。死亡保険で帳消しになったローン。笑えない冗談だ。酷くなる雨風。1日の辛抱。


「うわっ!!」

ガシャン、何かが割れる音がしてワタルが転んでいた。広がる水。

「ワタル、なにしてんのよ。」

「ガラス割れてんじゃん、切ってねえよな?」


 私は駆け寄る。割れたマーチンの水槽。急いで電源を止めてマーチンの姿を探す。すぐに隣の水槽に移せば助かる筈だ。


 それなのにマーチンの姿はどこにもない。ワタルが起き上がる。その背中に貼り付いた、ぺしゃんこになったマーチン。頭が真っ白になって立ち上がる。


「…用事、思い出したから。帰る時は締めて。」

「え、でも…」

 鍵を柏村さんの胸に押し付けて部屋から逃げ出した。


 酷くなる雨足。真夜中の街で明け方が訪れるのを待つ。傘を忘れた。酷い風。すぐ後ろに看板が叩きつけられて身が辣む。あと少しずれていればマーチンとお揃いにぺしゃんこになれたのに。


 開けっ放しの大学の門。図書館の扉に手を掛ける。鍵は開かない。その場で蹲る。私がマーチンを殺した。あの人たちを追い返して断ればマーチンは死ななかった。ただそれだけの話だ。


 私の臆病で一匹の命が消えた。雨は止まない。寒さで歯がガチガチと鳴る。死ぬときは寒いと聞いたことがある。魚には痛覚が無い。マーチンは痛かったのだろうか。


「…ねえ、君、ねえ…」


 揺さぶられて目を開ける。見覚えのある眼鏡。べたついた髪。


「どうしたの、こんなところで」


 植村さんがそう尋ねる。夜は開けて雨は止んだ。彼の背後に広がる雲ひとつない青空。

「死んだの。」

説明しようとしても頭が回らない。


「話は後だ。ちょっといい?」

冷たい手が額に触れる。


「熱は無いみたいだけどとにかく1回家に帰って着替えた方がいい。このままじゃひどい風邪を引くよ。」


「…帰れないんです。」


 あの人たちが居ない保証は無い。それに割れた水槽を見たくない。どこにも行きたくない。このまま電車に乗って故郷に帰ってしまおうか。大学。空虚な学舎。


「うちに来る?」


 植村さんはそう言って手を伸ばす。私はその手を取って立ち上がる。私は狡い。マーチンを助けられなかったのに。


 小さなユニットバスでシャワーを浴びる。正方形のバスタブ。目の前にトイレ。湯が落ちていく。


 知らない高校の名前が入ったジャージを貸してもらった。


「…何から何まですみません。」

「狭いし汚いけど落ち着くまで居るといい。眠いの?」

うとうととしてくる。ものすごく眠たい。

「はい、眠たいです。」

眠い、眠たい。


「ベッド使う?汚いけど…」

「貸してください。」


 汚くなんてないのに植村さんはしきりにそう言って片付ける。


 横になって毛布にくるまる。植村さんの匂いがする。陶芸の粘土の匂い。


 目が覚める。西日が差す。枕元の時計に目をやる。17時。植村さんの声がする。電話をしているらしい。


「…という訳で今日はあの子に付き添うから図書館のバイト、代わって欲しいんだ。…うん。ありがとう、森本。」


がちゃん、と受話器が置かれる。


「あ、起きちゃった。ごめんね。少しは休めた?」

「ごめんなさい…迷惑を掛けて。」

「いいよ。森本の奴彼女に振られて暇だったんだってさ。ああ、この間のヤツだよ。」


 昨日は知らない誰かに傷つけられて今日は知らない誰かに救われている。その事実が頑なな私の胸を確かに打つ。


 六畳のワンルーム。大量の観葉植物の鉢が窓際に置かれている。


 植村さんらしい部屋。差し出された生姜湯に口をつける。

「おいしい。」

「風邪の引き始めはこれが効くんだよ。生姜は漢方だから。酷くなったらすぐに病院に行きな。この辺りなら吉田内科がいい。ちょっと混むけどちゃんと診てもらえるから。」

「はい。」

「何があったか聞いてもいい?」

 

 行ったり戻ったりして上手く話せない。それを植村さんは黙って聞いてくれる。シクラメンも項垂れている。まるで私の話を聞いているかのように。


「災難だったね。」

「家がどうなってるか分からないんです。飛び出して。それっきりだから。」


 ぺしゃんこになったマーチンに会いたいのか、目を背けたいのか。自分でも分からない。

「大学生ってさ。その彼らみたいにその場のノリで何でもやるでしょ。何でだろうね。僕の同級生にもそういうの居たよ。いつの間にか辞めてたけどね。」

「そうですか。」

「片付けに行こうか。さっさと片付けて忘れよう。もうすぐ夏だし。」


 1日ぶりに帰った部屋のドアを開ける。静かで人の気配は無い。ゆっくりと進む私のすぐ後ろに植村さんはついて来る。


 異を決してリビングに続く扉を開ける。回り続ける大水槽のフィルター。割れた小水槽も、マーチンも消えていた。


 まるで何事も無かったかのように部屋は片付いていて窓際にはウツボカズラの鉢が置いてある。テーブルの上に乗せられたメモを手に取る。丁寧に切り取られたノート。丸い文字。


三橋さんへ


今回のことは本当にごめんなさい。ガラスは片付けてビンの日だったのでゴミに出しました。本当にごめんなさい。少ないけど弁償代としてどうか受け取って下さい。


柏村奈緒


 メモの横に置かれた7枚の千円札をそっと脇に避ける。


「…ねえ、これ。」


 植村さんの指差した先。ウツボカズラの鉢の土。はみ出したマーチンの鰭。彼らなりの葬式。植村さんは黙ってそれをつまみ上げてウツボカズラの口にそっと押し込んだ。


「時間は掛かるけど飲み込むよ。」

「…はい」


 溢れた涙を指で拭う。最後に泣いたのはいつだっただろうか。もう思い出せない。魚たちがぱくぱくと口を動かす。丸一日何も食べていない彼らに餌を落とす。


「ただいま。」


 返事は無い。ただいま、おかえり。暗黙のルールを続けよう。この水槽と一緒に。


 伯母さんから届いた誕生日プレゼントの段ボールを開ける。帽子を被ったドワーフの小物がついた陶器の鉢。19歳、おめでとうというメッセージ。


 ウツボカズラの植え替えにちょうどよい鉢。来週はもう1つ鉢をもらって植え替えの方法を教えてもらう約束をしている。


 大学に向かう。張り出された追試発表。自分の学籍番号が無いかチェックする。幸いなことに全部クリアしていた。


「三橋さん、どうだった?」

柏村さんがそう尋ねる。

「受かってる。柏村さんは?」

「私はフランス語、追試だ。あーあ、ドイツ語にしておけばよかった。」


 柏村さんはがっくりと肩を落とす。あれから柏村さんは私に直に会って謝ってくれた。話を聞くうちにあの人たちが宴会を続ける中で一人で部屋を片付けてくれていたことが分かった。


 そしてサークルを辞めてあの人たちとは疎遠になったらしい。くっついたり離れたりする。人間と魚の似ている所。


「髪、もう染めないの?」


「いいよ。面倒だし。痛んじゃうし。先輩がやりなって言うからやったけど若いうちに染めてたらさ、ハゲるよね。やっぱり。」


 柏村さんが真面目にそう言うので私は吹き出した。


「霞ちゃん、砂時計は?」

私がそう尋ねると霞ちゃんはにやり、と笑う。

「見て、先生!これからはデジタル時計だよ。」

新しい、音を立てないグリーンの時計。

「いい色だね。素敵。」

「でしょ。」

「霞ちゃん、食虫植物育ててみない?」


 藪から棒に聞く。かりそめの教師と中学生の関係から身を乗り出して。


「何、それ?やりたいやりたい。」

「じゃあ今度あげる。さっきお母さんに聞いたらいいって言ってたから。」


 そんなもの頂いていいのかしら、とお母さんは恐縮していた。


「先生、やっぱり最近楽しそうだね。」

「うん。」

「好きな人、できた?」

霞ちゃんは私を見上げる。

「そうかも、ね。」


 私の頭の中は相変わらず水槽。そして来週教えてもらえるウツボカズラの株分けのことで満たされている。

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エンゼルフィッシュはウツボカズラの夢を見る 日谷津鶴 @hitanituzuru

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