さよなら金木犀、遠いところへ行って。
hibana
さよなら金木犀、遠いところへ行って。
営業で訪れた目黒の通りで、私は死んだ姉を見かけた。
姉は見たこともないほど鮮やかな悲しみの目をして、私のことを見ていた。
「どうしたんですか、茅原さん」
連れだって歩いていた職場の後輩が、戸惑いながら私を見る。それから私の視線の先を指さして、「綺麗なひとですね。いい絵だな」とコメントした。
額縁に飾られた私の姉は、瞬きすらするように思える。確かに、いい絵だった。一目で魅入られてしまうほどには。
外回りを終わらせた私は、職場にこのまま直帰する旨を連絡し、あの通りへと急いだ。姉の絵は変わらず表に飾られている。
建物の中を覗き込むと、『安田漆士展は終了しました。ご関係者様は裏手よりお入りください』と小さな看板が立っていた。個展だったのだろうか。では、あの絵を描いたのはこの“安田漆士”という人か。聞いたことはないけれど、そもそも絵描きなんかに詳しくはないし、どれだけの知名度がある人かは全くわからない。
私は建物をぐるりと回って、ようやく裏口を見つけた。受付の人らしい女性がこちらを見て、「お名前をお聞きしても?」と首を傾げる。
「……あの、表に飾ってある絵を描いた方にお会いしたいのですが」
「ああ、個展はね、今日のお昼までだったんです。ごめんなさいね」
「今は中で何をされているんですか?」
「関係者だけで打ち上げというか、祝賀会を」
すうっと息を吸い込んで、私は口を開いた。
「あの絵を描いた人に伝えてください。私は茅原奈子。茅原怜花の、妹です」
女性はちょっと目を丸くして、「そうですか」とだけ言う。それから席を立ち、私に背を向けてゆっくり歩き始めた。迷ったものの、私はそれについて行く。
やがてひらけた空間に、人がたくさん集まっているのが見えた。みんなグラスを片手に、和やかに談笑している。その真ん中の背の高い男性の元まで歩いて行き、女性は何か耳打ちをした。
男性が、こちらを向いた。周囲の人たちに何か断りを入れ、私の方へ歩いてくる。
男性は、私を見て瞬きをした。優しげというか、人に何か悪意を持つほどの興味もなさそうな、そんな風に感じる表情だった。
「似てないね、怜花ちゃんには」
彼はそう言った。それが、安田漆士という人との出会いだった。
姉が死んだのは、五年前のことだ。当時姉は二十二歳で、私は十八歳。高校三年生の秋の終わりだった。
駅のホームから落ちて電車に轢かれて死んだ。事故だったのか自殺だったのか、今でもよくわからない。
「姉とは、どのような……?」
「お付き合いさせていただいてましたよ、大学の四年間ずっと」
「聞いたことありませんでした」
「俺もご家族に挨拶がしたいって言ったんだけど、彼女がそれはどうしてもダメだって」
私は思わず黙った。安田さんはそんな私を一瞥して、「複雑な事情があったんでしょう。仕方ないよ」と言う。
「今日は思い出話をしに来たの?」
「……いえ。驚いて声をかけただけです。だって、五年も前に亡くなった肉親の顔が街中で突然現れたら驚くでしょう。描いたのが誰なのか知りたかった」
「悪かったね。ご家族に許可を取ろうにも、どこに住んでいるのか知らなかったんだ」
「姉は生前、あの絵のことを?」
「ああ、知っていたよ。いつか個展を開いたら、一番目立つところに飾ると言ったんだ」
「そうですか」
奢ってもらった温かい飲み物を口に運びながら、私は唇を舐めた。
実のところ、姉とこの人の関係なんてどうでもよかった。私はただ、一つの欲をこらえられずにいた。
「あの、あの絵は、いくらですか? 私にいただけませんか?」
姉の絵が欲しい。あの、息遣いさえ聞こえてきそうな美しい姉の絵が欲しい。どうしてもあの絵を手元に置きたい。
じわりじわりと、沈黙が私を急き立てる。
安田さんは目を伏せて、ペットボトルの飲み物をのみながら、言った。
「あれは売り物じゃない。あげない」
一拍置いて、私は「そうですか」と引き下がる。飲み物のお礼と、時間を取らせてしまったことを謝り、私は家に帰った。
子どもの頃から私は不要な子だった。女の子は二人もいらないと父から責められた母はそのストレスを私へ向け、姉とははっきり差別されて育った。そんな母と私の間に立って何とか家族として最低限成り立たせていたのもまた姉だった。
私が物心ついたころには、姉の口癖は『奈子にあげないなら私もいらない』『奈子と一緒じゃないなら行かない』『奈子のこと追い出すなら私も家を出て行く』だった。そうしてたまに私は姉と同じものを与えられ、たまに姉は私と同じように我慢をする。いつだって姉は、私と足並みをそろえようとしてくれた。
母は姉にめっぽう弱かった。母にとって姉の存在は、唯一の心の支えだったのだろう。だから母は姉の願いを最大限叶えようと必死だったし、彼女に見放されることをおそれているようでもあった。
やがて父と母は離婚し、私たち姉妹は母に引き取られたが、その関係性はほとんど変わらなかった。むしろ母の姉に対する依存は増し、私は空気のように扱われていた。
姉の口利きで何とか存在を許されていたような私だ。姉が死んだ時、当然のように家を追い出され、知り合いの家を転々とし、自分で仕事を見つけて部屋を借り、今に至る。
母は今も、あの家にいるだろうか。姉の痕跡だけを抱きながら。
対して私の手元には、姉の形見など一つもない。たった一人私の味方をしてくれたあの人の、生きた証が一つもない。
次の日、仕事帰りに例の個展をやっていた通りに行くと、安田さんが片づけをしているところだった。
「手伝いましょうか」と声をかけると、安田さんは肩をすくめ、「あの絵はもうここにはないよ」とだけ言った。
「あの絵は、諦めました」
「俺もこの道で食っているから、作品に執着している人の目はわかる。気持ちはわかるしありがたいけど、君にはあげない」
窓に貼ってある紙を剥がしてやりながら、「姉のことがまだ好きですか?」と尋ねてみる。安田さんはあっさり「好きだよ。たぶん、あなた方よりは怜花ちゃんのことを愛していますよ」と答えた。
「……姉は、私たちのことをなんと?」
「世話のかかる人たちだ、と」
それは間違いないだろう。私たちの生活は姉を中心に回っており、姉がいなくなったら容易く瓦解するものだった。
「俺はね、怜花ちゃんが死んだとき、あなたたちも後を追うのかなと思っていましたけどね。怜花ちゃんから聞く限りは、それ以外道がなさそうだったから」
「私、家を出たんです。案外何とかなるものですね」
一瞬、安田さんの手に力が入ったような気がした。すぐにふっと力を抜いて、「よかったね」とだけ彼は言った。
「姉の絵は、あれだけですか」
「…………」
「見るだけなら、いいでしょう?」
「……じゃあ、俺の家においでよ」
テナントを片付け終えて、安田さんはどこかに電話をしていた。しばらくすると、昨日受付をしていた女性が現れて「乗って」と水色の軽自動車を指さした。
女性の名前は轟といい、安田さんのマネージャーらしい。
「部外者が同席して申し訳ないけれど、茅原さんはまだ若いし、何か間違いがあっちゃいけないから」
「……はい」
轟さんの運転する車は、渋滞に巻き込まれながらも都内のマンションへと入っていく。安田さんは助手席で頬杖をついて外を見ており、私に対する声掛けも特段ない。轟さんだけが空気を軽くしようとしてか、「ここら辺も秋めいてきましたね、落ち葉がこんなに。金木犀の香り、わかります?」と話している。
マンションの駐車場で車を降りると、なぜだか轟さんが先頭に立って案内し始めた。誰の家なのかわかったものじゃない。
安田さんの部屋らしい一室のドアを開けると、すぐにキッチンが目に入った。必要最低限の調理器具と皿が綺麗に片付いている。どれも男性の一人暮らしにしては華やかすぎるデザインだった。それから、女性もののエプロン。私はそっと目を伏せる。
リビングに通されて、「ここで待ってて」と安田さんは奥の部屋へ行ってしまった。轟さんがソファに腰かけるよう促してきたので、私は曖昧な返事をして座る。
「あの、」
「はい?」
「轟さんも、姉のことをご存知ですか?」
「……いえ。私が安田のマネージャーになったのは、お姉さんが亡くなったあとですから。でも、話には聞いていますよ」
「安田さんは、その後恋人がいたことは」
「知る限りありませんね。怜花さんが最後だと思います」
「あの、じゃあ、え、エプロンは……あそこに吊ってあるエプロンは姉のものでしょうか。あの、調理器具は、姉の、姉の選んだものでしょうか」
不意に顔を覗き込んだ轟さんが、「大丈夫ですか?」と眉をひそめていた。私は呼吸を整えて、「はい……すみません」と呟く。
気まずい空気が訪れたとき、安田さんがスケッチブックを腕に抱いて現れた。テーブルの上で、それを開いて見せる。
「どうぞ。見るだけだけど、ご自由に」
緊張しながら、ページをめくった。一面、姉の様々な表情があった。めくってもめくっても、姉の見たこともないような顔がある。私は手が止まらずに、一気に最後までめくる。それからまた前のページに戻り、紙を撫でた。
スケッチブックを掴む手に力が入った。私は唇を噛み、血が出るほどに噛み、顔を上げる。
「家族が持っていてはいけないでしょうか、このスケッチブックは。一枚でも、持ち帰ってはいけないでしょうか」
「あげません」
「なぜ?」
「俺は、あなた方が嫌いだから」
呆気にとられる私を尻目に、安田さんはあくまで穏やかに「家族だからくれとあなたは言うけれど」と続けた。
「『家族だから』というのを言い訳にしながら、あなた方は彼女のものを際限なく欲しがったでしょう。怜花ちゃんが死んでも変わらないね。あげないよ。彼女のもので、あなた方が持っていていいものなんて一つもないから」
もういいかな? と安田さんはスケッチブックを閉じて、私から取り上げる。私は呆然とそれを見ていた。
腰を浮かせた轟さんが「送りますよ」と私に声をかける。私は俯いて、最後に「姉はなぜ死んだと思いますか? 私たちのせいでしょうか」と安田さんに尋ねてみた。
「……あれは事故だよ」
「どうして言い切れるんですか?」
「俺はあの日、最後の瞬間まで彼女と通話をしていたから」
「え……」
「俺たちはあの日、駆け落ちを決めていた。彼女は約束の場所までたどり着かなかったけど」
私は口を開け、じっと安田さんを見る。涼しい顔で、安田さんはこちらを見返していた。
「あの日、あなたが姉を呼び出したんですか?」
「二人で決めたことだけど、俺との約束がなければ彼女があの日駅に来ることはなかっただろうね」
「あなたが、姉を殺したようなものじゃないですか」
「そうやってなんでも他人を責めれば気が楽か?」
過呼吸を起こしそうな私を立たせた轟さんが、「行きましょう」と私を引っ張っていく。安田さんは瞬きをして、何の感情もないような顔でそんな私たちを見送っていた。
車の後部座席に座った私は、ぼうっと外の景色を見ながら「あの絵が欲しい」と呟いた。
「どうしても、あの絵が欲しい」
数秒の沈黙の後で、轟さんが「もう、許して差し上げたらいかがですか」と言うのが聞こえた。
夢を見た。昔の夢だ。
万引きで捕まった私を迎えに来た姉が、帰り道に私の方を振り向いて、「あんた」と口を開く。
「あんた、幸せになんなよ、そろそろ」
何が“そろそろ”なのかよくわからなかった。
姉は疲れたような、呆れたようなそんな顔で、「しんどいよ、もう」と言った。
私は何も答えなかった。姉にそんなことを言われるのが心外で苛立っていたし、そのくせ姉に愛想を尽かされるのがこわかった。
姉のことが、本当はとても嫌いだった。
美人で要領がよく、母に私の分まで愛を注がれている姉のことが嫌いだった。それでも私には、本当にこの人しかいなかったのだ。
恵まれている姉が不幸な私に配慮するのは当然だと思っていた。だけど姉がいつだって私を見限れるのだということも知っていたから、卑屈なほど彼女に縋っていた。
私に合わせて不幸になってよ、お姉ちゃん。私を憐れんでどこへも行けないままでいてよ。奈子と一緒じゃないなら行かないって、言ってよ。
あのなつかしい夜道に、『しんどいよ』という姉の言葉がいつまでもこだましているような気がした。深い金木犀の甘い香りとともに、ずっと私から離れないでいるような、そんな気がした。
夜中に目を覚ました。雨が降っている。秋の嵐は重たくて、冷たい。
熱に浮かされたように私は部屋を出る。着の身着のままバッグだけ掴んで飛び出した。雨に打たれながら歩き、表の通りでタクシーを捕まえる。
チャイムを押すと、まだ起きていたらしい安田さんがドアを開けた。びしょ濡れの私を見て、「帰りな」と落ち着いて言う。
私は普段ではありえないほどの力で安田さんを押しのけ、部屋の中に入った。
目についた順に、エプロンや調理器具をバッグに突っ込んでいく。腕を掴まれ、体勢を崩した。「いい加減にしなさい」と壁に追い込まれる。
私は咄嗟に彼の髪を掴んで引き寄せ、キスをした。彼は離れ、不気味なものを見る目で私を見る。
「わた、わたしで上書きして! 私のこと抱いてよ。おねえちゃん、お姉ちゃんが、最後の人だなんて、そんなの、お姉ちゃんが羨ましすぎる」
だって、もう五年も経っているのに。もう五年も経っているのに、この人はずっとお姉ちゃんを愛しているし、お母さんだってお姉ちゃんのことずっと忘れられないで執着している。私だって、私なんて、生きていても誰にも愛されないのに!
姉のものが全部ほしい。手に入らないなら全部消したい。
だって、お姉ちゃんのものを持っている人なんてずるい。私の手元にはお姉ちゃんのものが一個もない。あの人だけが私の味方だったのに。
お姉ちゃんはずるい。私と一緒に不幸になってくれるはずだったのに、いなくなっちゃった。そのくせ、今でもたくさんの人に愛されている。
「お姉ちゃんのこと忘れてよ。あの人のこと覚えてるの、私だけでいいんだから」
呼吸が苦しい。酸素を欲した左手が意思に反して床を探っている。
顔を上げれば冷たい目をした安田さんがこちらを見ていた。私は笑おうとして口角を上げ、いっそ殺してくれればいいのに、殴って、ぐちゃぐちゃにして、そこの階段から突き落としてくれればいいのにと考えた。
こんなにも惨めな生き物が存在していていいのだろうか。それでも姉が生きている間、私の惨めさは彼女を引き留めておくという価値があった。
「あんたの弱さを許してくれる人は、もう世界中のどこにもいないよ」そう安田さんは、言った。
そしてそれが現実であることを、私もわかっていた。
「今まで、何を目的に生きてきたの? 母親に好かれるため? お姉さんに見限られないように? 幸も不幸も
私は安田さんを突き飛ばしながら立ち上がり、部屋の奥へと足を踏み入れる。彼が追いついてくる前にあの絵を探そうと思った。
画材がたくさん置いてある部屋を見る。ダメだ。道具ばかりだ。肝心の絵がない。道具を落としたりしないように細心の注意を払いながら違う部屋へ移る。
その部屋には、大量の段ボールが並んでいた。これを全てひっくり返しているような時間はない。ほとんど半狂乱になりながら、カーテンを掴む。外はすでに明るくなり始めており、少しでも部屋の中に光が射しこむことを期待した。
「……あ、」
カーテンだと思っていた布を引っ張ると、大きなキャンバスが現れた。私はそれを見て、立ち尽くす。
それは、油絵だった。ウエディングドレスを着た花嫁の絵だ。
姉はそこで、笑っていた。照れくささと愛おしさと期待のこもった目は、誰かを見つめている。その瞳に、たぶん私たちは映っていない。
当たり前のことが、今さらにすとんと腑に落ちた。
彼女が幸せになろうとしたとき、その目に私たちは映っていなかったのだ。間違いなく。彼女の未来に私たちは邪魔だった。
そこには、私たちが彼女から奪い続けたしあわせが描かれていた。
その場に膝をつき、いつまでもその絵を見ていた。しばらく、何の感情もわかずただ脱力していた。
背後で物音がして、振り返ると安田さんが私を見ていた。沈黙の中、彼も絵へと視線を移す。ため息をついた彼が、言った。
「彼女の絵は、これが最後なんだ」
俺は、と続ける。「彼女が生きている時に描いた絵だけが、本当に彼女の絵だと思うから」と瞬きをした。
姉のことをまだ好きかと尋ねたとき、この人は『好きだよ。たぶん、あなた方よりは怜花ちゃんのことを愛していますよ』と答えた。そうだろうなと思う。私も母も、きっとこの人ほど姉のことを愛していない。この絵を見て、正しくそれを理解した。
「引っ越すんだ、もう、一か月後には」
「どうしてですか?」
「死んだ恋人の妹が、絵を盗みに来るから」
私はちょっと笑ってしまって、「その方がいいでしょうね」と言った。
案の定、実家は姉が死んだときから何も変わっていないようだった。不思議なほど落ち着き払って私は姉の部屋の真ん中に立っていた。質素な部屋には、それでも彼女の好んだ本やCDが並んでいる。私はそれを片っ端から段ボールに詰めた。
不意にけたたましい足音が聞こえ、家中のドアを開けるような音がした。ようやくこの部屋のドアが開き、私は振り向く。
本当に久方ぶりに顔を合わせる母が、絶句して私を見ていた。
「久しぶり、お母さん」
「何……してんの、あんた」
「ずっと変わんないんだね、お姉ちゃんの部屋。私のものは全部捨てちゃった? 全然いいけど、いらないし。でもお姉ちゃんのは全部持っていくね」
「何してんのっ。けいさつ、警察、呼ぶからっ」
あのねお母さん、と私は言う。
子どもの頃、とにかくこの人に好かれたくて機嫌を取った。でも今は、なぜだか一番傷つけてやりたいと思う。だって可哀想な人だから。私と同じ可哀想な人だから、愛おしいと思うから、傷つけてやりたいと思う。
「お姉ちゃん、恋をしていたんだって」
母はびくりと肩を震わせた。何に怯えているのか、私にはわかる。私、とってもあなたに似ているから。
「それで私たちのことを置いて、相手の男の人と駆け落ちするつもりだったんだって」
「……そんなはずない」
「ほんとだよ。私たち、邪魔だったんだね。ずっとお姉ちゃんの足引っ張ってきたから、お姉ちゃん、ずっと逃げたかったんだね」
「やめてよ」
「お姉ちゃん、きっと怒ってないよ。私たちのことなんて忘れちゃって、たぶん、その人のことしか見えてなかったもん」
だからね、と私は目を細める。「もうお姉ちゃんのこと、解放してあげようね」と笑いかけた。母は自分の頭を掻きむしって、やだ、やだ、と泣いた。
私は母の肩を抱く。「お母さん」と呼んだ。
「あのね、お母さん。私たちは共犯なの。本当は幸せになれるはずだった人のこと、二人で不幸にしたの。わかる? あの人はね、私たちの家族じゃなかったら、幸せになれたんだよ」
ふっと母から離れ、私は段ボールを抱え上げる。母はその場にへたり込んで震えていた。「バイバイ、お母さん。つらくなっても私に縋らないでね、きっといじめちゃう。だって私、あなたと似ているから」と言い残してその場を離れた。
その足で私は安田さんのマンションへ向かった。タクシーの中から見た
部屋の前に轟さんが立っていて、目が合った瞬間にこちらへ歩いてきて私の腕を掴む。
「安田さんは?」
「17時27分発博多行きの新幹線。あなた、この前部屋に押し入ったって?」
「はい」
「自分がやばいって自覚した方がいいわよ」
「ええ、そうみたいですね」
見覚えのある車の前で轟さんが「乗って」と言った。「こんなヤバい女を車に?」と尋ねれば、「早く乗って。あと20分で駅に行かなきゃいけないの」と轟さんはぶつぶつ言いながら運転席に乗り込んだ。
私が助手席に乗ると、車は動き出す。景色が流れていくのを見ながら、私はぎゅっと段ボールを握りしめた。
「……どうして私を駅に?」
「最後に安田に会わせないと、あなた追いかけていきそうだから」
笑いながら私はシートに身を預け、「優しいですね、安田さんも、轟さんも」と呟く。
「お節介と思うだろうけど、カウンセリングとか受けた方がいいんじゃない?」
「やっぱり私、病気なんでしょうか」
「ちょっと変わったね。最初に会った時だったら、あなた、私の言葉なんか聞こえてなかった」
駅のロータリーに車を停めた轟さんが切符を差し出し「これ、入場券。17番線だから。急いで」と私を急かした。
車を降りた私は走る。あと5分で新幹線は発車するだろう。
ホームの彼は、立ったままスマホを見ていた。「安田さん」と声をかけると、彼は顔を上げ、無感動に私のことを見た。
「安田さん、どうして」
「死なないでね」
「えっ」
「怜花ちゃんを追いかけて、死なないでね、俺より先に。迷惑だから」
私はぽかんとして、やっとの思いで「はい」と答える。安田さんは本当にそれだけが言いたくて私を待っていたのか、すぐに踵を返した。
「待っ、あの、安田さん」
振り向いた安田さんに、私は抱えていた段ボールを押し付ける。「これは?」と怪訝そうに言うので、「姉のです」と答えた。「全部姉のです」と。
「姉の、遺骨が入っています」
「は――――?」
耳を疑った様子で、安田さんは見たこともないほど間抜けな顔をした。冗談だろ、と口を動かす。
「そんなもの、持ってきていいわけない。戻してきな」
「大丈夫です。私が捨てたことにします」
安田さんは段ボールを見つめ、ごくりと生唾を飲んだ。私は彼の腕を取って段ボールを持たせながら「お願い」と祈りをささげる。
「私たちの手が届かない場所まで、お姉ちゃんのことを連れて行って。そうして絶対に、お姉ちゃんがどこにいるのか私たちに知らせないで。お願いします」
そのまま私は安田さんの体を押して、新幹線の中に押し込んだ。彼はもう何も言わなかった。ただ段ボールを持つ腕に力を込めたように見えた。
新幹線のドアが閉まる。
アナウンスが聞こえた。もう動き出すのだろう。
私はドア越しに安田さんと、段ボールを見つめる。思わず手のひらで、窓に触れる。
お姉ちゃん。
私なんかにつまずいたまま、なんでだか一緒に不幸になってくれようとしたお姉ちゃん。だけどついに私たちを置いて幸せになれるはずだったお姉ちゃん。
もっと早く、こうしていればよかった。
花嫁姿の彼女の絵を思い出す。私たちがいなければもっと早く掴んでいたはずの幸せだった。
新幹線はゆっくり遠ざかっていく。私の姉と、姉を世界で一番愛した人を乗せて遠ざかっていく。自分のことが一番大事でそれ以上に何かを愛せたことがない私は、それをただ見送っていた。
こんなものを抱えて席に着く気にもならず、俺は新幹線のドアによりかかる。
ようやく、念願の駆け落ちというわけだ。
あの日のことを今もよく思い出す。
通話を繋ぎながら、俺は駅のホームで彼女を待っていた。彼女は駅に着いたくらいからひどく錯乱して泣いているようだった。
『奈子のこと、置いていけない。私は行けない。やっぱり戻らなきゃ。あの子にも、お母さんにも、私がいないとダメだから』
電話の向こうで、彼女が誰かにぶつかって舌打ちされるのが聞こえた。俺はこめかみを押さえながら「落ち着いてくれ」と言った。
「とにかく、俺のところまで来てくれ。それから、一緒に考えよう」
彼女は呼吸さえままならないほど泣いていて、俺には何を言っているのかもわからなかった。
「じゃあ、わかった。そこにいてくれ。迎えに行く。とにかく危ないから、ベンチに座っていて」
何とかなだめようとして俺はそう言った。彼女は不意に、ひどく明瞭な声で「逃げたい」と言った。
直後、何か大きな音がした。彼女が携帯電話を落としたのだと思い、俺は数秒待った。それから「怜花ちゃん?」と呼びかけた。通話は切れないまま、電話の向こうが騒然とするのがわかった。
結局、彼女が自分から線路に飛び込んだのか、それともまた人にぶつかって飛び出してしまったのか、はたまた落とした携帯電話を拾おうとしてふらついて落ちてしまったのか、よくわかっていない。
不幸な事故だったのだと思うしかなかった。そうでなければ、たぶん、あの場所から助け出すにはもう遅かったのだ。
新幹線のドアに、軽く頭を打ちつける。段ボールを落とすことがないように、持ち直した。
「思った通り、君の家族は勝手だったよ。ずっと自分のためだけに泣いていた」
そう呟き、目を閉じる。「でも最後にちょっとだけ、君のために泣いてたよ。今さら」と。
新幹線はどんどんスピードを上げて東京を離れていく。物理的距離は簡単だ。家に縛り付けられてどこへも行けなかった彼女を嘲笑うように、とんでもない距離を一瞬で過ぎる。
かつてウエディングドレスの試着をした彼女が、嬉しそうに、ほんのちょっとだけ怯えもにじませながら、だけどもっと大きな期待を込めて、『いつかちゃんと私のこと、本当のお嫁さんにしてね』と言った。俺は内心で、そういうのはこっちからプロポーズするまで言わないでくれよ、と思う。俺のこと信じてくれよ、世界で一番幸せなお嫁さんにするに決まってるだろ、と思う。
景色が流れてゆくのを見る。ただの連続した、光の重なりのように見える景色を。
また目を閉じる。頭の中のキャンバスに描き出す。世界は色とりどりに美しく、世界は色とりどりに汚い。
たとえば彼女の妹の、あまりにも人間らしい弱さと狂気を俺は嫌悪する。色とりどりに美しく、色とりどりに汚い人間の在り方を嫌悪する。だからこそ描かざるを得ず、俺は吐き気をもよおしながらキャンバスを汚している。
『あなたの絵は優しいね』
そう言った彼女は骨になってしまった。骨になってしまったのだ。
時速300キロで俺たちは、あの部屋から遠ざかっていく。二人で思い思いの幸せを形にしようとして、手探りで過ごした日々。どんなに満たされているようでも、結局君の帰る場所にはならなかった部屋。ちょうどこれくらいの季節になると、東京は寒いねと君はよく言ったのだった。どこかあたたかいところへ行きたいね、と。
重力に耐え切れずしゃがみ込む。「もうすぐ冬になる」と囁いた。
体が重すぎて、立ち上がれない。心配した誰かが近づいてくる気配があったが、いっそう身を強張らせる。
「俺たちが行くのはきっと暖かいところだよ、怜花ちゃん」と、強く段ボールを抱いた。
決してもう誰かに邪魔をされないように、今度こそ終わりまで一緒に、いられるように。
さよなら金木犀、遠いところへ行って。 hibana @hibana
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