カンナ

hibana

カンナ

 女の足が目に入った。白く形のいい指先の、爪は紅い。艶やかなペディキュアは嵯峨の目を奪った。

 灰皿に煙草を押し付けていると、女が嵯峨の襟元を強引に引っ張り唇を押し当ててくる。まるで2,3日何も飲まずにいた人間が、そこにある水を飲み干すようだ。

 嵯峨は女を押しのけ、「そう急かすなって」とネクタイを緩める。すると女は嵯峨をベッドに押し倒し、跨った。

「おいビッチ、お前はどうしていつもそうなんだ? 性欲過多にも程がある」

「アンタに言われたくないな。毎日毎日違う女と寝やがって」

「妬いてんのか?」

「呆れてんだクズ」


 カンナ。この女について知っていることといえばその名前くらいだ。

 綺麗な女ではある。黒く艶やかな髪は腰まで伸び、長い睫毛と大きく湿った瞳。唇は紅を塗る前から赤く濡れている。整った右眉の端についた小さな傷を、彼女は『昔男に殴られた』と言っていた。

 だけれど女はひどく獰猛で口調からして荒っぽく、今も嵯峨はどちらかといえば男と抱き合っているような感覚を覚えていた。出会った当初はこれほどではなかったように思うが、いつの間にかこの女はそのように嵯峨を求めるようになっていた。

 顔もいいし体もいいが、可愛げのない女だ。このような関係になって数年経つが、その印象以上のものをカンナに抱くことはなかった。


 枕元のサイドテーブルに置かれた花瓶に、花が一輪揺れている。白い菊の花だ。このホテルに泊まるといつもこれがある。正直、なんで菊なんだよと思わずにはいられない。嵯峨が知らないだけで、元々何らかの宗教的指向のあるホテルなのだろうか。ここはカンナのお気に入りだ。こいつも案外信心深いタチなのかもしれない。


「カンナ」

「何だよ」


 女は裸のままミネラルウォーターをがぶ飲みしている。案外本当に喉が渇いていたのかもしれない。

「ピロートークでもしようってか? アンタらしくないじゃん」

「黙ってりゃいい女なのにな」

「アンタは黙っててもろくな男に見えないし、その分アタシの方が上ってわけ」

「女ってのはヤった後も元気でいいね」

 アンタ体力なくなったんじゃない、とカンナは涼しい顔をする。「老いだね、老い」と頬杖をついた。

「じゃあ女を減らそうかな」

「刺されちまえ」

 嵯峨はカンナの肩を抱き寄せ「心配しなくてもお前のことは切らないよ、ハニー。お前は本当にいい女だ。沈黙を美徳としてくれたらもっと大好きだぜ」とキスする。刺されちまえ、とカンナはもう一度言った。

「また連絡する」

「アタシはそろそろアンタの代わりでも見つけようかな」

「寂しいなぁ。俺はお前の代わりなんか見つけられないぜ?」

 いい友達だからな、お前は。そう呟いて嵯峨は服を着る。女はまだ生まれたままの姿で、ぼんやりと嵯峨を見ていた。




 カンナと出会ったのはいつだったか。それほど特別なエピソードではなかった。馴染みの店で一人呑んでいたところを引っかけた。他の女と変わりない。

 ただ、あれだけの上物がころっと引っかかったのは意外だった。まあ、それがこんな野生そのもののような女だとはそれこそ想定外だったが。


 別に、毎夜淫らな行為をすることが彼の全てなわけではなかった。友人なら男も女も大勢いる。ただ、楽しいことをしているだけだ。罪悪感など毛ほどもない。なんせ悪いことなどしていない。嵯峨は一晩を共にする女に嘘をつかなかった。『俺は愛さない。お前と寝るのは、ダチと一晩中ダーツにでも興じるのと同じだ』と。それをきちんと理解する女もいれば、自分だけはそうじゃないのではないかと勘違いする女もいる。それだけだ。


 嵯峨は工場勤めで、数日ぶっ通しで働いたあと、数日まとまった休みがある。そういう仕事だ。休みの日に適当な奴に声をかけて遊ぶ。充実していた。そういう生き方が心底性に合っていると感じてもいた。

 だから嵯峨は特定の人間というものを作らない。恋人もそうだし、親友なんかもいない方がいい。もしかしたら嵯峨も、いずれは一人の人間に依存し執着するようになるかもしれない。しかしそんなのは出来る限り後になった方がいいと考えていた。今はとにかく自由だ。自由が何より必要なのだ。


 ガキの頃、父親が蒸発した。否、むしろ嵯峨の家に滞在していた数年が、あの男にとっては特殊な状況だったのではないかと嵯峨は睨んでいる。あの男はふらふらと嵯峨の母となる女をたらしこみ、数年遊んで、飽きたのでまたふらふらと去って行った。恐らくそうだろう。大した話じゃない。

 しかし母がダメだった。母の実家はそれなりに裕福で金に困ることもなかった。にもかかわらず、あの女はダメだった。男に逃げられた後の母は少しずつ少しずつダメになっていった。狂うほど明確なきっかけはなく、ただいつの間にか堕落しきっていた。

 一人の人間を愛して依存し執着することの危うさを、母は嵯峨に教えてくれた。




 ある日一緒に飲んでいた友人の一人が、「カンナとは今も会っているのか」と訊いてきた。嵯峨はグラスを傾けながら「会ってるよ。あの女とはしょっちゅう会う。何でだか都合がいいんだ」と答える。

「……なぁ嵯峨」

「何?」

「あの女さぁ、十津川のイロなんじゃねえかな」

「十津川ァ? こわい大人の方じゃないですかぁ」

「マフィアのな」

「なんでこの国にマフィアなんかいるんだよ。ヤクザだろ」

「どっちでもいいけどよ。その十津川の屋敷の前で、揉めながら中に入っていくカンナを見たやつがいるんだよ。借金のカタとかそういう話にしてはその後もピンピンしてるしな。あれはたぶんイロなんだろう」

「そうであっても驚きはしないが」

「お前、ヤクザの情婦おんなと遊びで寝てたなんてことになったら厄介だぞ」

 呑みなれて美味いとも感じない酒を流し込んで、「そうは言ってもな」と呟いた。




 事後、いつものようにカンナが裸のままベッドの横に座っている。テレビをつけると深夜特有のシュールなバラエティーがやっていた。

「なぁ、お前……十津川のイロなの?」

 カンナは嵯峨を振り向いて、瞬きを一つする。

「アンタに関係なくない?」

 ふうん。あっそ。


「それともヤクザの女とはもう会わない?」

「それも考えたんだが、俺は情に厚い男なんだ。俺と会ってない時にお前が何をしていようと変わらず俺の友達だよ」

「馬鹿馬鹿しい。アンタ、十津川に殺されるかもよ」

「女と寝たぐらいでか? ……友達付き合いですら制限されるなんて可哀想だな、お前も」

「普通は友達と寝ないから。それくらいわかるでしょ?」


 嵯峨はベッドに寝そべり、部屋の小さな灯りを見る。今日も白い菊が揺れていた。

「なんでこのホテルは菊を飾っているんだ? 菊なんか法事ぐらいでしか見ねえが」

 ちらりとこちらを見たカンナが、「それはホテル側が飾ってるんじゃない。アタシが飾ってるんだ」と何でもないように言う。思わず飛び起きた嵯峨は、「は? なんで?」と聞き返した。

「なんで菊を? お前、俺を殺す予定でもあるのか?」

「何言ってんだ。アタシはロマンチストなんだよ、あんたと違って。今まで何本の菊を買ってきて、いくらかかってると思ってんだ?」

「知らねえよ。何なら今までちょっと不気味だなと思ってたよ」

「無知だねえ、アンタは本当に。菊は不気味な花じゃないっつうの」

 黙って頭を掻いた嵯峨は、ワイシャツのボタンを留めながら「お前も服を着ろ」と言う。

「朝飯を奢ってやる。早くしろ」

 カンナは驚いた顔でそんな嵯峨を見た後、くすくす笑いながら下着を身に着け始めた。「へえ。花なんか律儀に買ってきてやった甲斐があった」と呟く。


 二人は近くのコーヒーショップでモーニングを頼んだ。全く同じメニューだ。トーストとバター、サラダとヨーグルト、それから半分に切られたオレンジ。嵯峨はそれをちょっと見て、オレンジが歪な方を自分で貰った。

「本当に十津川と寝てるのか?」

「デリカシーを母親の腹ん中から拾って来た方がいいよ。だったら何だって話だしね」

「俺のこと、十津川に言うなよ」

「言わなくてもバレるよ、そのうち。そしたらアンタ、どうするつもり?」

 オレンジの皮を剝き、かじりつく。少しばかり酸味が勝ちすぎているようだった。


 どうするつもりも何も、『カンナとはただの友人だ』と話し、それで済まなかったらその時に考えるだけだ。この女が十津川からどれほど気に入られているかわからない以上、どうなるか全く見当もつかない。何にせよすぐに命を狙われるほどではないだろう。まずは警告なりがあるはずだ。

 その時になって、『手を引け』と言われたらどうするかな。俺はこの女と会うのをやめるだろうか。

 両手でトーストを掴んで頬張っているカンナを見た。本当に、綺麗な顔をしていやがる。




 次の休み、カンナを誘ったら断られた。実のところ、あの女に振られたのは初めてだ。嵯峨は仕方なく、馴染みの女を呼んだ。

「どしたの嵯峨ぁ。ご機嫌斜めじゃん」

「お前にもわかる? 俺、ご機嫌斜めなの」

 女は酒ではなくアイスクリームの載ったジュースを飲んでいる。真っ赤なさくらんぼを頬張っていた。

 この女は雛といい、これまた大層な美人だった。色を抜いた白い髪はふわふわとしていて、チョコレート色の目がくりくりしている。それに何といっても扱いやすい。欲しいものを欲しいと言い、食いたいものを食いたいと言い、その代わりどんな話もうんうんと笑顔で頷く女だった。

「なあ、雛」

「はぁい」

「人に代わりなんていねえよな。誰も誰かの代わりじゃねえし、そいつはそいつしかいねえよな」

「あらぁ、哲学?」

 コークハイを煽る。

『人間に代わりなんていない』というのは嵯峨の一つだけ確かな指針だ。だからこそ、嵯峨は一人の人間に依存しない。いなくなったら代わりがいないからだ。誰もが特別であり、ひとりひとり深入りしてはいけない生き物なのだ。こいつのことも好きだしカンナのことも好きだ。それでいい人生だったし、これからもそうなる。


「なあ、雛」

「はぁい」

「俺、今日お前のこと他の女の代わりに呼んだよ」


 雛は瞬きをして、飲んでいたジュースを嵯峨の顔にぶちまけた。アイスクリームが入っていたからか、ひどく冷たい。雛は落ち着き払っていて、むしろ可笑しそうに笑っていて、「やっとかなきゃダメかなと思って」と舌を出した。

「そういうのってさ、お互いわかりきってても言わないのがお約束なんじゃなかった?」

「ああ。でも言ったらどうなんのかなって気になった」

「どうなった?」

「これ何のジュースだ? 随分と甘いな」

「トロピカルソーダなのだ」

 惚れてんの、と雛が訊いてくる。「いや」と嵯峨は間髪入れずに答えた。

「そういうんじゃない。今のはそう、お前より先に他の女を呼んだんだが断られた、って言うだけの報告だ。俺のフェアプレー精神」

「ふうん。でもそんなこと聞かされて、私がヤる気なくすと思わなかった?」

 嵯峨は黙る。雛はにっこり笑って、「あんたって子供みたいで大好き」と嵯峨を抱きしめた。

「ねえ、あんたは何でそんなに拗ねてるの? その女に断られたから?」

「そうかもな」

「じゃああんたは、とにかく今日なんとしてでもその女と寝たい気分なんだ? 珍しいね、あんたはいつも誰だっていいのにさ」

「誰だっていいわけじゃない。たまには……『今日はあいつと酒を飲みたい気分だな』ってこともある。そうだろ?」

「じゃあ迎えに行きな。家まで押しかけて無理やり一緒に寝な。その女が本気で嫌だったらあんたは捕まるけどね」

「そんなリスキーなことをしなきゃいけないのか?」

「“しなきゃいけない”じゃないよ。あんたがしたかったらそうすれば? つってんだよ」

 笑顔のままため息をついた雛が、「私は今日は帰るね。あんたと違って遊び相手には代わりがいると思ってるからさ。あんたの代わりの男と遊ぶぅ」と手をひらひらさせた。嵯峨は肩をすくめて、「悪かったよ」とだけ言う。自分から席を立った。

 その姿を見送った雛は、自分の爪を見ながら「私ってやさしー」と呟いた。




 なぜ。

 なぜ雛に当たってしまったのか自分でもわからない。あの女とはもう会えないかもしれないな、と思った。次誘っても来るかどうか。

 いい女だったのに。雛の不在を埋めるような女はなかなかいないだろう。

 今夜は――――

 野郎でいい。一晩酒を飲んで明かすダチがいればいい。今からでも、一人くらいは見つかるだろう。それで、


 唐突に嵯峨は醒めてしまった。興醒めにも程がある。


 母は父に捨てられた後、男をとっかえひっかえしていた。父に出会う前はうぶな生娘だったという母がである。そして強く嵯峨を愛した。父の面影を残す嵯峨のことを愛した。

 代わりなんていないんだ、母さん。ついぞその一言が言えなかった。


 代わりなんていないんだよ、どんな人間も。だけど、本当にそうならどうする? 本当に、代わりなんてないんだとしたらどうする?

 たとえば『美味い美味い、生まれて初めてこんな美味いもんを食った』と感動するほどの料理を食って、その料理人がたった一人、レシピもそいつしか知らねえと来たらどうする? この世のものとは思えないほど美しい景色が、特殊な環境下でしか実現しないもので、生きてる間にもう二度と目に出来ないとしたら?

 代わりがないものと出会いたくない。代わりがないものを愛したくない。そう思うことの何がおかしいんだ?


『なあ、姉ちゃん。一人で吞んでるのか? あんたほど別嬪なら、何人の男が声をかけてきた?』

 それは綺麗な女だった。黒く艶やかな髪は腰まで伸び、長い睫毛と大きく湿った瞳。唇は紅を塗る前から赤く濡れていて、とにかく――――生まれたばかりの赤ん坊のように素直な表情かおをする女だった。

『隣に座っていいか?』

『いいよ。別にアタシの指定席じゃない』

『名前を聞くのはまだ早いかな』

『まだ早いね。アンタの名前を聞いてない』


 嵯峨は目についた飲み屋に駆け込み、言った。

「ウイスキーをボトルでくれ。早く」

 ぶつぶつ文句を言いながら店主が出してきたボトルを開け、その場で立ったままラッパ飲みする。「おい、ぶっ倒れても救急車は呼ばんぞ」と言われた。

「はぁー酔った。もう酔った。こんなに酔ったのは初めてだ」

 ろれつの回らない口でそう言って、嵯峨は店を出る。途中で花屋に寄った。

「菊をくれ。真っ赤なやつだ。早くしてくれ、酔いが醒める」

 呆れた花屋が紅い菊をブーケにしてくれた。なぜだか可笑しくなって、嵯峨はゲラゲラ笑う。


 俺は無知だし学もねえ。でも調べれば花言葉なんざすぐに出てくる時代だ。これはお前への贈り物なんかじゃない。ただの意趣返しだよ。


 そうだ、俺はお前に惚れてるんじゃない。酔ってんだ。酔って馬鹿をするだけだ。もう滅茶苦茶だよ、お前のせいで。思えばあの日から俺はおかしかった。お前が綺麗だというところまではよかったが、どうもお前より綺麗な女は存在しないのではないかと思えてならない。

 出会わなきゃよかった。声なんかかけなけりゃよかった。、お前に。


『アンタさ、アタシに声かけてきたこと後悔するぜ。誰でもいいなら尚更だ。アタシは他と違うんだから』


 ムカつく女だな、と思った。そうだ、最初は『もう会わないようにしようか』と何度も考えたものだった。それでもいつだって嵯峨の方からカンナを呼んだ。俺はあの女に負け続けている。キスだってあいつの方が上手い。やっぱりムカつく女だ。




 十津川の屋敷の前で「開けろ」と騒ぐ。「小便かけるぞ」と叫べば、苛ついた様子の男が出てきた。嵯峨はそいつに右の靴を脱いで投げ、門の中に入る。振り返ってもう片方の靴も投げておいた。右の靴を投げたら左の靴も、とは有名な言葉だ。何より裸足の方がまだ動きやすい。

 実際嵯峨は何も考えていない。酒に酔った末の奇行だ、理由も目標もない。

 何人か男が追いかけてきた。嵯峨はゲラゲラ笑って逃げた。菊の花弁が落ちていく。

「このっ……酔っ払いが!」

 腕を掴まれ、ぶん殴られた。酔いが醒めるには十分だったが、嵯峨は依然酔ったふりをして笑う。「おう、十津川に会わせろ。カンナってのは俺の女だ。筋を通せ」と吐き捨てた。

「カンナ……?」

「何言ってんだこいつ」

 そのままずるずると中に引きずり込まれる。奥へ奥へと進んでいき、一室に通される。そこには穏やかそうな優男がいた。歳は五十を過ぎたところだろうか。髪は黒々としており、若く見える。「十津川様」と呼ばれており、嵯峨は目を見張った。この男がヤクザの頭とは思えない。


「何だね君……こんな夜更けに。飲みすぎだぞ」

「はぁ……。え、あんたが十津川?」

「さんをつけなさい、若者よ」


 出鼻をくじかれた思いだったが、嵯峨は右手に持っているブーケを見ながら「ここにカンナって女はいるか?」と尋ねてみる。「カンナ?」と十津川は眉をひそめた。

「カンナがどうしたって?」

「あの女は俺のだ。もう数年はずっと俺の女だ。ヤクザだかマフィアだか知らないが、人の女に手を出すんなら筋を通せと言いにきた」

 十津川は絶句した様子で嵯峨を見ていた。やがて何とか状況を呑み込んだようで、「筋を通せって、何?」と頬杖をつく。嵯峨は全く何も考えていなかったので「知らねえ。何かしろ」と言っておいた。

 呆れた様子の十津川が、デスクから何か出してきて目の前に置く。拳銃だ。黒光りする拳銃が置かれた。

「ではロシアンルーレットでもするかね。どちらかが必ず死に、生き残ればカンナを手に入れられる。実にシンプルでいいな。君は彼女のため、自分のこめかみに向かって引き金を引けるか?」

 引ける気がした。たぶん気のせいだろうが、引ける気がしているうちに「やる」と答えておいた。正気が追いついてくるのはいつだろうか。できれば事が終わるまで逃げ切りたい。


「君からどうぞ」

「ありがたいな。後にされると怖気つくかもしれんと思ってたところだ」


 銃口をこめかみに当てる。引き金に指をかけ――――

 何やってんだっけ、俺。

 そう思った瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。


「パパ! そいつはアタシの友達! ほっといて!」


 駆け寄ってきたカンナが、十津川のデスクを両手で叩く。

 パパ? ああ、そういうプレイか。趣味が悪ぃな。

 そんな風に考えていると、カンナが嵯峨の頬を思い切り叩いて銃を取り上げた。「アンタ何してんだ、アホ」と脳天にチョップまで食らわせてくる。


「カンナ……友人、か。その男は本当に。先ほどその若造はお前を『俺の女』と呼んだぞ」

 一瞬でカンナは顔を赤くし、「はあ!?」と嵯峨を見た。嵯峨はぽかんとして、「ああ、うん。言った。言っただけ。その方が面白いかなと思って」と言い訳する。カンナは盛大にため息をついた。

「なんでこんなとこに来たんだ、アンタ」

「惜しくなったんだ、お前のことが。ヤクザのイロなんて悔しくないのか?」

 あのさぁ、とカンナは頭痛を押さえるようにこめかみに手を当てる。十津川が咳払いをした。


「僕はカンナの父だ」


 嵯峨はカンナに、「あんなこと言ってるぞ」と言ってやる。カンナは肩をすくめて「そうだよ、あれはアタシのパパ。アタシはヤクザの組長の娘なんだ」と言い切った。

 沈黙が訪れる。嵯峨はぽかんと口を半開きにしてカンナと十津川を交互に見比べた。確かに似ているような気がしないでもない。


 十津川はふっと笑って嵯峨を見た。

「随分と大見得を切ってくれたものだな、若造。俺の女だ、って? もういっぺん言ってみろクソガキ。うちの娘を情婦呼ばわりしやがって……死に方を選べると思うな」

 嵯峨は開きっぱなしだった口を閉じ、その場に膝をついて正座した。

「すみませんでした」


 そう言って頭を床につける。その様子を見てカンナが堪えきれなくなったように笑った。「パパ、やめてよ。アタシの男に何かしたらパパだって許さないよ。縁を切るからな」と言う。

「まさかカンナ……こいつに惚れてるのか? この阿呆に?」

 つかつかと歩いてきたカンナが、嵯峨の持っていた花束を取り上げた。

「これ、アタシに?」

「……そーだよ」

 鈴のように小気味よく笑い、「拗ねんなよ、ダーリン。黙ってて悪かったって」と嵯峨を立たせる。

「ねえパパ、この男が欲しいんだ。好きにしてもいいよね?」

 十津川は背もたれに体重をかけながらため息をつき、「そんな男はやめておけと言っても、お前が僕の言うことを聞いたことなどない。好きにしなさい。ただ、若造。お前には言っておくぞ。うちの娘を泣かせたら殺す」と嵯峨を指さした。




 庭で煙草を吸いながら、「どうしてこんなことになったんだろうな」と嵯峨は呟く。隣にはカンナもいて、同じように煙草をふかしていた。甘ったるい匂いがする。

「前にも言ったかもしんないけど、この、眉毛のとこにある傷……男に殴られたんだ。殴ってきた相手はその場で蜂の巣にされたけどな」

「脅すな」

 ため息をついた。最悪だ。一時の感情に身を任せて馬鹿なことするんじゃなかった。

「アンタがこんなことすると思わなかった」

「俺も思わなかったよ。その菊の花、普通のより高ぇんだからな。いくらしたと思ってる?」

「知らねえよ、バーカ。大体裸足でお姫様迎えに来る男、いる?」

「お姫様? ああ、お姫様ね。本気で誰のことかわからなかった」

 嵯峨はカンナに蹴られた。

 本当になんでこんなことしたんだろうな。自分で自分が信じられない。酔っていたとはいえ、やろうと思ったのは事実なのだ。

 嵯峨は煙を吐き出しながら、「あー……最悪だ」と口に出す。


「俺はお前のことなんかちっとも愛してないんだ。まだまだ遊んでいたかったし、お前と付き合う? 冗談じゃない。誰がこんなアバズレと……。しかもヤクザの組長の娘だって? 他の女と遊んだら殺されるじゃないか。お前が十津川の娘だと知っていたら手を引いてたよ」


 カンナはけらけら笑って、嵯峨の襟元を掴む。いつもするように、噛み付くようなキスをした。


「そう急かすなよ、ダーリン」と言いながら、嵯峨の持ってきた紅い菊を目の前で振ってみせる。

「アンタのプロポーズはしっかり受け取ったし、アタシはそれにちゃんと応える女だ。これから毎夜楽しみにしておくんだな。大切にしてやる」

 カンナは嵯峨の曲がったネクタイを締め直しながら、上目遣いで嵯峨を見た。「オーケイ、マイダーリン?」と小首を傾げる。

 悪くない。悪くないなと思ってしまった。

 嵯峨は煙草を潰しながら、「オーケイ、マイハニー。俺の全ては好きにしてくれ」と答える。

「半分でいいよ」

「あ?」

「いま全部貰ったらアンタがなくなっちゃうだろ。だから半分でいいよ。で、残りの半分はこれから一生かけて貰うのさ」

「結局全部お前のもんじゃねえか」

 当たり前だろ、とカンナは言う。その顔があんまりにも屈託なかったので、嵯峨はちょっと見惚れた。

 嵯峨は、今度は『仕方ねえな』というため息をついてカンナの襟元を掴んで引き寄せる。そのまま唇を重ねた。

 顔を離すと、カンナはぽかんとして嵯峨を見る。それからパッと顔を赤くして「わあ……」と呟いた。


「やっぱアタシのがキス上手い」

「そうお思いならご教授いただけません?」

「他の女で試さないならいいよ」

「お前の半分も今すぐ俺にくれるってことでいいんだよな」

「ゆくゆくは全部アンタにあげる」

「恋愛ってそんな担保に担保を重ねるもんなのか」

「知らない。アタシ、アンタが初めての男だし」


 思わず嵯峨は吹き出して「初めて!? 俺が!? 嘘だろ!!」と指さす。

「初めてだって言ったら手ぇ出してこなそうだったから言わなかった」

「な、なんでそんなキスが上手えんだよ?」

「才能」

 冗談を言っているに違いない、と嵯峨はカンナを見る。カンナは依然自分の唇に手を触れながら頬を染めていた。


 もし、本当にこいつにとっての初めてが俺なら────

 会うたび揺れていた菊の花を思い出す。真っ白な花弁だ。

 ────いよいよ責任を取らなきゃならんか、これは。


「初めての男が俺で不安じゃないの?」

「不安に決まってんだろ。でもここまでやった馬鹿だし、信じるよ」


 信じる、なんて言葉はそんなに簡単に口に出していいものなのか。あるいは、この女は本気か?

 意味わかんねえな、と嵯峨は思う。こんな綺麗な女だ。たまたま最初が嵯峨だっただけで、自分には多くの選択肢があることに気付くだろう。これから長い人生で、いずれは嵯峨なんてクズは鬱陶しく思うようになるに違いない。


 そうだ、誰か一人に依存する危うさを嵯峨は知っている。

 だからといって、

 絶対に裏切られるという前提で付き合うもんでもないのかもしれないな────人間は。

『信じるよ』と言ったカンナの声が、何ら気負いもなく自然なものだったのでうっかりそう思ってしまった。


「────じゃあ、はい。ヨロシクオネガイシマス」

「おう、任せとけダーリン」


 もしかしたら俺はこれから食われるのかな、と思わせるような獰猛な笑顔でカンナは言った。やはり早まったかもしれない。


 ああ、しかし菊の花。あれのせいでどうもこいつが可愛くいじらしく見えて仕方がない。


『そういうのって惚れた弱みって言うんだよ』と、後日会った雛という女が言っていた。

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カンナ hibana @hibana

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